Izumo ancient history studies group
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- 2024年 出雲古代史研究会大会 趣旨
【会場+オンライン】2024年出雲古代史研究会大会は、8月24日(土)にひらくことになりました。今年のテーマは、「古代出雲と日本海交通」です。 趣 旨 2024年の大河ドラマ「光る君へ」に、宋人が越前国(福井県)に来朝したように、当時は日本海交通が活発でした。そのなかに出雲をはじめとする山陰地方も含まれます。 また、平安時代の古代出雲の研究はまだ多くありません。 そこで今年の大会は、平安時代を中心に、古墳時代から中世前期を見通して日本海交通が出雲・石見・隠岐の地域社会にどのような影響を与えたのか、その意義について検討します。 → 2024年大会のご案内ページ
- 伊勢と出雲
委員 橋本 剛 皆さんこんにちは。会員の橋本剛と申します。 この3月に、私も参加した論文集『伊勢と出雲』( #島根県古代文化センター 編、 #ハーベスト出版、2024年)が刊行されました。今回はこの論文集について簡単にご紹介します。 本論文集のもとになったのは、古代文化センターにおけるテーマ研究「出雲と伊勢」でした。テーマ研究は3年間という期限を区切り、外部の研究者なども加わって行う共同研究です。本研究は2020年(令和2年)~2022年(令和4年)まで行いましたが、客員研究員として主に伊勢側の方々をお招きしました。 さて、伊勢と出雲は、それぞれ伊勢神宮と出雲大社という著名な神社が存在する地域です。そうしたこともあって、国家形成期における両地域の重要性がしばしば強調され、また「伊勢と出雲」という形で並び称されることも少なくなかったと思います。本研究は、それぞれの地域の様相を分析しつつ、両地域が果たした役割やその関係性を明らかにすることを目標として設定しました。「伊勢」と「出雲」を併せて取り上げることで、これまで見えてこなかった両地域の特徴を析出できるのではないか、と考えたためです。 コロナ禍も重なり思うように研究会が実施できない時期もありましたが、3年間の共同研究をなんとかやり遂げ、その集大成として刊行されたのが本論文集というわけです。 本書の目次は以下の通りです。 【目次】 吉松 大志「神郡研究の現状と課題」 穂積 裕昌「志摩の海産物貢納と王権・伊勢神宮―神宮を支えた志摩の位相―」 久保田一郎「出雲、隠岐の海産物貢納に関連する問題」 平石 充「熊野大社・杵築大社の奉斎体制」 塩川 哲朗「伊勢と出雲の祭祀構造」 榎村 寛之「記紀における出雲と伊勢の神話的、歴史的位相について」 橋本 剛「平安初期の出雲と神社行政」 濱田 恒志「出雲の仏像・神像をめぐる「地域性」の問題 -「神話の国」の古代彫像をどう考えるか-」 田村 亨「鎌倉前中期の造営遷宮と幕府-杵築大社を中心に-」 藤森 馨「伊勢神宮と出雲大社の遷宮」 岡 宏三「杵築六ヶ村・宮内村の屋敷地の景観と荒神祭について -十七世紀前後を中心に-」 松尾 充晶「近世御師の活動からみた伊勢と出雲」 品川 知彦「伊勢と出雲-浦田長民の宗教思想を中心に-」 一見して明らかなように、扱う時代や資料も異なるバラエティーに富んだ論文が揃っています。それぞれが、「伊勢と出雲」という重厚なテーマに果敢に挑み、生み出された研究成果といえるでしょう。 研究当初に設定した目論見が成功しているかどうか、その評価は読者の皆様に委ねるしかありません。本論集を1つのキッカケにして、両地域の研究がより一層盛んになればと願っております。 島根県古代文化センター 編 『 論集 伊勢と出雲 』 ハーベスト出版 、2024年3月、本体2000円
- 日本史研究会 大会共同報告準備会2024-07
#日本史研究会 ( #京都 )は、日本最大手の学会の一つです。このたび、次のとおり大会共同報告準備会をひらくことになりました。感染予防をとったうえでご参加くださいませ。 → 日本史研究会について → 会誌『日本史研究』 日本史研究会 古代史部会 第2回 大会共同研究報告準備会 日 時:2024年7月8日(月)18:30~21:00 会 場:①機関紙会館2F(京都市上京区新町通丸太町上ル春帯町) ②オンラインZoom 参 加: 事前申込み [7/7 日 正午まで] 報 告:三野 拓也 「仮)奈良時代の労働力編成-造石山寺所を中心に-」
- 日本海文化と四隅突出墳を考えるフォーラム2024
今年の2024年は、 北陸で初めて四隅突出墳である杉谷四号墳が調査されてから50年めにあたります。これをうけて 森浩一先生に学ぶ会と富山文化研究会は、 次のとおりフォーラムをひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、なにとぞご参加くださいませ。 日本海文化と四隅突出墳を考えるフォーラム 海を越えての交流 -杉谷四号墳の調査から半世紀を経て- 日 時:2024年9月22日(日)10:15~16:00 会 場:富山県民会館304号(富山県富山市新総曲輪4-18) → 交通アクセスのページ 参 加:無料/事前申込み不要/定員150名 当日予定 第Ⅰ部 森浩一先生に学ぶ 南部さおり(元朝日町まいぶんKAN学芸員) 「朝日町での森浩一先生」 藤田富士夫(元富山市埋蔵文化財センター所長) 「森浩一先生による日本海文化シンポジウムとその構想」 麻柄 一志(魚津市教育委員会 文化財保存・市史編纂専門員) 「遺跡の発掘と保存 」 小嶋 芳孝( 金沢学院大学名誉教授/金沢大学古代文明・文化資源学研究所客員教授 ) 「寺家遺跡の古代学」 特別講演 小泉 武夫(東京農業大学名誉教授) 「発酵学-森浩一先生との思い出-」 第Ⅱ部 四隅突出墳の研究の現状と課題 紙上参加 坂本 豊治(出雲弥生の森博物館学芸係長) 「山陰地域の四隅突出墓の調査と研究」 泉田 侑希(富山市郷土博物館学芸員) 「四隅突出型墳丘墓の調査事例報告-富山県を中心に-」 髙橋 浩二(富山大学学術研究部人文科学系教授) 「杉谷4号墳の築造背景と富山平野におけるクニづくり」 まとめ 鈴木 景二(富山大学学術研究部人文科学系教授) 「地域史再興 出雲と高志」
- 2024年度 島根史学会 大会
#島根史学会( #島根県)は、島根県を拠点に全時代(古代~現代)、文化財の保全(#初代松江警察署庁舎 ・ #古文書)、歴史教育など島根県にかかわる歴史にについてトータルな活動をおこなう学術団体です。今年の2024年度大会・総会は、次のとおりひらくことになりました。今年も出雲古代史研究会の会員も講演します。ご多用の折かと存じますが、なにとぞご参加のほどよろしくお願い申し上げます。 → 島根史学会について → 会誌『島根学会会報』 2024年度 島根史学会 大会・総会 日 時:2024年9月14日(土)13:00~17:00(開場13:00) 会 場: 島根県民会館 3階303会議室 (島根県松江市殿町158) → 交通アクセスのページ 参 加:会員無料 | 非会員300円/事前申込み不要 報告①:矢野健太郎(島根県古代文化センター専門研究員) 「亀井政矩の津和野移封における武具引き渡しをめぐって」 報告②:濱松 里美(浜田市教育委員会文化振興課文化財係主事) 「史料紹介 浜田藩における和紙の生産」 講 演: 今津 勝紀 (岡山大学大学院 教授)→ 出雲古代史研究会の会員です 「吉備古代史の基本的性格」
- 古代天皇研究会8
#古代天皇研究会(#東京)は、日本古代の天皇とその周辺を検討する研究会です。天皇を中心に、①天皇と天皇を支える身位、②天皇という存在の影響力(天皇権力を背景におこなわれる統治行為なども含みます)などを研究していきます[2020年6月6日 古代天皇研究会の活動方針より]。 「古代」と「天皇」をつけていますが、古代天皇研究会は、この2つにとどまりません。古代に続く中世などほかの時代、太上天皇・女院・三后(皇后・皇太后・太皇太后)・皇太子・摂関など天皇以外の身位、日本以外の国家の君主、文化人類学などほかの分野、といった様々な縦割りをこえ、天皇をトータルにとらえることをめざしています。 このたび、次のとおり研究報告会をひらくことになりました。オンラインもありますので、地方住みの方も参加しやすくなっています。ご多用の折かと存じますが、ご関心がある方はなにとぞご参加くださいませ。 第8回 研究報告会 日 時:2024年9月7日(土)15:00~17:30予定(14:30開場) 会 場:① 早稲田大学 戸山キャンパス 36号館582教室 (東京都新宿区戸山1丁目24-1) → 交通アクセスのページ ②オンラインZoom[9/6 金にメール送信] 参 加:300円(資料代)/ 事前申込み [9/5 木まで] 支払い:①対面参加…当日の9/7(土)に会場へ持参 ②オンライン参加 a三菱UFJ銀行 柏支店 普通 0676657 b古代天皇研究会 里舘翔大( コダイテンノウケンキュウカイ サトダテショウダイ ) PayPay( 桜田真理絵宛 ) 報 告: 中野渡俊治 ( 清泉女子大学 ) 「平安時代中・後期の太上天皇と摂関・藤原氏」
- もっと知りたい島根の歴史
#島根県古代文化センター ( #島根県松江市)は、次のとおりシンポジウムをひらくことになりました。感染予防をとったうえでお運びくださいませ。 2024年度 もっと知りたい島根の歴史 会 場: 松江テルサ 1階テルサホール (島根県松江市朝日町478-18) → 交通アクセスのページ 参 加:無料/事前申込み/定員450名/申込み多数の場合は抽選 申込み:①ハガキ 〒690-8502 島根県松江市殿町1 島根県古代文化センター ②FAX 0852-22-6728 ③ネット 第1講 [08/1 木 - 09/16 月まで] 第2講 [08/1 木 - 10/14 月まで] 第3講[10/1 火 - 11/11 月まで] 第4講[10/1 火 - 11/25 月まで] 第○講の受講希望 氏名・ふりがな 郵便番号・住所(都道府県からご記入ください) 電話番号 申込み人数 第1講 9月29日(日) 申込み:8/1 木~9/16 月 13:00〜15:30 永野 智朗 (松江市埋蔵文化財調査課) 黒田 祐介(出雲弥生の森博物館) 「東西出雲の王」 第2講 10月27日(日) 申込み:8/1 木~10/14 月 13:00〜15:00 廣江 耕史(島根県古代文化センター) 高屋 茂男 (島根県立八雲立つ風土記の丘) 「城と城下町 -出雲の戦国時代」 第3講 11月24日(日) 申込み:10/1 火~11/11 月 13:00〜15:00 武廣 亮平 (日本大学経済学部) 「古代出雲の謎に迫る」 第4講 12月8日(日) 申込み:10/1 火~11/25 月 13:00~15:00 吉永 壮志 ( 島根県古代文化センター ) 「知られざる古代出雲-「光る君へ」の時代-」
- 出雲古代史研究会の発足について 第1回
井上寛司 事務局から、出雲古代史研究会発足当時の状況について、覚えていることをまとめるようにとの指示を受けた。 しかし、後ほど述べるような事情もあって、菊地照夫氏を初めとする皆さまのように、詳細で具体的なことはほとんど記憶していない。私が、自らの学問的な興味・関心というより、むしろ島根大学歴史学教室に籍を置く者としての社会的責任という観点から本研究会と関わってきたという、私自身の立ち位置と密接に関係しているのかも知れない。 そうした不十分さを承知の上で、私がどのような心づもりで本研究会の発足に関わったのかの概要を述べることとしたい。 私が島根大学文理学部(後法文学部)歴史学教室に着任したのは1975年(昭和50)10月のことで、日本中世史の研究者が島根県内の大学等の専門研究機関に着任するのは、私が初めてのことであった。 島根大学に着任してまもなく、島根地域史研究の抱える現状の容易ならざることに大きなショックを覚えると共に、これを克服するよう努めることは私に課せられた重大な社会的責務だと考えるようになった。 問題点の1つは、戦前に刊行された『島根県史』以後、今日に至るまで1度としてまともな県史が編纂されていないことにある。「まともな県史」とは、全国的な視野に立った古文書等の悉皆調査を踏まえ、史料編と合わせて通史編を編集・刊行するという、全国的にはごく当たり前の、広く認知された編集方法に基づく県史をいう (1965~67年に『新修島根県史』が編纂され、通史編3巻の他に史料編6巻、年表編も刊行されたが、しかしそれらはいずれも旧『島根県史』の成果を前提とするもので、改めて古文書の悉皆調査が行われたわけではなく、古代・中世などの史料編はいずれも『島根県史』編纂で収録された史料の中から、その採録基準も不明確なまま一部を抜粋したものに過ぎなかった)。 そして、島根県の場合一層深刻なのは、こうした県史のあり方に規定され、各市町村史においても、同じく全国的な視野に立った古文書等の悉皆調査がまったく行われないまま、史料編を欠いた通史編のみの刊行が広く常態化してしまったことにある。 私は、島根大学着任の数年後から、ほぼ毎年のように、島根県総務課や教育委員会に対し、早急に(まともな)『新島根県史』の編纂に着手するよう、様々な手づるを通じて要求し続けたが、残念ながらいま以てなしのつぶてのままである。 いま1つの問題は、島根県在住の歴史研究者の絶対的な僅少さとも関わって、各専門分野についての、より踏み込んだ学問的な議論・検討を行える場が極めて制約されている、ないし存在しないことにある。 そして、この問題を解決するためには時代別の専門的な研究会を立ち上げる必要があると考え、まず1980年6月に私の提案で「島根県中世史研究会」が発足した。さらに他の分野の皆さまにも働きかけ、1983年に「島根近代史研究会」、1986年に「島根県近世史研究会」がそれぞれ発足した。こうした中、考古学分野でも、それまでの組織を組み替えて、1983年に新しい研究団体「島根考古学会」が発足した。 →2024年9月1日(日)につづきます
- 募集)島根県江津市職員-2024年度
島根県江津市 が、令和6年度(2024年度)の職員(文化財専門員)の募集を 次のとおり行います 。皆さまからのふるってのご応募をお待ち申し上げます。 島根県江津市 > 分類でさがす 市政情報 職員人事・採用 採用情報 江津市職員採用資格試験 令和6年度職員採用資格試験の実施スケジュールについて 申込み期間:2024年8月1日(木)~8月19日(月) 昭和59(1984)年4月2日以降に生まれ 大学または大学院において考古学または歴史学を専攻して卒業(修了) 埋蔵文化財発掘調査の実務経験を有する
- 古代出雲の氏族と社会
委員 武廣亮平 本書は古代の出雲国地域における5世紀頃から9世紀前半までの歴史のうち、出雲国造の性格や国内氏族の動向、『出雲国風土記』やその関連史料から復元される古代出雲の在地社会の様相、神社の異動などを論じたものです。 一つのテーマで括られる内容ではないので、個人的には『古代出雲国の諸問題』といったタイトルの方が良かったのですが、出版社サイドからすると「諸問題」という曖昧な表題はNGなんだそうです(確かに「諸問題」と銘打った古代史の研究書は、井上光貞『日本古代史の諸問題』くらいしかありませんね)。 掲載論文はほぼすべて『出雲古代史研究』を中心とした既発表のものですが、その後発表された出雲古代史研究の成果も踏まえて、議論の内容を「アップデート」することに非常に苦労しました。特に第2章の神賀詞については多くの研究者がさまざまな観点から論じているところであり、自説を展開するところまでには至りませんでした。今後の宿題です。 また第8章や第9章も大幅に加筆しました。第9章では大原郡の郡家についても言及したのですが、旧稿発表後に発掘調査が行われた郡垣遺跡(いわゆる大原郡の「旧郡家」)の成果もうけて、内容を充実させました。どの論考も私の意見の当否はともかく、現在古代の出雲国または『出雲国風土記』を題材とした研究で何が議論されているのかという議論の到達点はまとめられたのではないかと思います。 最後に本書の構成を紹介します。 序 章 出雲古代史研究と本書の概要 第Ⅰ部 出雲国造をめぐる諸問題 第1章 東西出雲論と出雲国造の成立―論点の整理と展望― 第2章 出雲国造神賀詞と出雲国造 第Ⅱ部 古代出雲の部民制・氏族と交流 第3章 額田部臣と出雲の部民制 第4章 日置氏と六世紀の出雲 第5章 勝部氏の性格と出雲の勝部氏 第6章 畿内における出雲氏とその性格 第7章 出雲国の移配エミシとその反乱 第Ⅲ部 『出雲国風土記』と古代出雲の実態 第8章 出雲国における官社の成立とその変遷 第9章 『出雲国風土記』の在地史料 武廣亮平 『 古代出雲の氏族と社会 』 同成社 、2024年3月11日、本体7500円
- 古代出雲を学ぶ~おススメ書籍紹介(11・終)~
委員 吉松大志 みなさんこんにちは。出雲古代史研究会委員の吉松です。 出雲の古代史をさまざまな角度から学べる本をおススメするブログ 最終回となる今回は、出雲大社のバイブルとも言うべき一冊です。 千家尊統 『出雲大社』 (学生社、初版1968年、四六判、261頁) 「学生社日本の神社シリーズ」のうちの1冊で、著者は第八十二代出雲国造の千家尊統(たかむね)氏。民俗学の造詣が深い国造自らが、境内社殿や摂社末社の姿、古式ゆかしい祭りの数々を紹介しています。さらに、出雲神話の世界や出雲国造の成り立ち、神賀詞の意味など、出雲大社を考える上で欠かせない歴史学的なトピックも解説しています。 出雲大社で行われる数々の祭祀は、詳細について記した史料が少なく、実際にそれらの祭祀を毎年続けてこられた国造自らによる説明や歴史的な解釈には重みがあります。刊行から50年以上を経た現在においても、その価値は色褪せることはありません。出雲大社を参拝する前に本書熟読すれば、現地に立った時の社殿や祭りの様子がまるで違って見えることでしょう。いにしえの出雲の雰囲気にどっぷりと浸かりたい方、ぜひご一読を。 「古代出雲を学ぶ〜オススメ書籍紹介〜」は今回をもって終了となります。1年間の長きにわたりお読みいただきありがとうございました。ご紹介した11冊➕αの中で、1冊でも皆さんの琴線に触れるものがあれば、これに勝る喜びはありません。現在、委員が自著を紹介するブログが連載中ですので、今後はぜひそちらをお楽しみに。
- 日本海地域と渤海使 第1回
委員 吉永壮志 皆さま、こんにちは。出雲古代史研究会委員の吉永壮志です。 2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして数か月が経ちました。主人公は『源氏物語』の作者で知られる紫式部(むらさきしきぶ)で、平安時代が大河ドラマの舞台となるのは2012年の大河ドラマ「平清盛」(たいらのきよもり)以来のようですから、干支がちょうど一回りしたことになります。 さて、その「光る君へ」には、紫式部が生きた10世紀後半から11世紀前半に活躍した、さまざまな人物が登場しています。そのなかで私が注目するのは中国宋の商人である朱仁聡(しゅじんそう)です。当時、外国との窓口として大宰府が重要な役割を果たしていましたが、朱仁聡は長元元年(995)に若狭に来着し、その後、越前に移っており、長保2年(1000)年頃に大宰府に赴くまで、約5年間、日本海地域に滞在していました。 朱仁聡が日本に来着した翌年の長元2年(996)には紫式部の父である藤原為時(ふじわらのためとき)が越前守に任じられており、在任中に宋人と漢詩のやりとりをしたことが知られています(『 本朝麗藻 』(ほんちょうれいそう)下、贈答)。 学者であった為時は漢詩に通じていたため、宋人の対応役として急遽越前守に任じられた可能性が考えられますが、その為時の越前下向に紫式部も従っており、父為時と宋人との交流の様子を紫式部は間近でうかがい知ることができたかもしれません。 大河ドラマ「光る君へ」において、紫式部と朱仁聡ら宋人との関係がどのように描かれるのか、もし描かれるようなことがあれば、その際は本コラムでも越前における宋人との交流について少し触れてみたいと思います。 やや話が逸れましたが、 宋の商人朱仁聡の存在から、平安時代の外国の商人との窓口として、大宰府を中心とする北部九州だけでなく、若狭・越前を中心とする日本海地域も機能していたことを知っていただくことができたのではないかと思います。ただ、これは宋の商人が登場する平安時代中期以降だけでなく、それ以前からみられていました。その「商人」が本コラムのタイトルにある「渤海使」(ぼっかいし)です。次回、渤海使についてお話します。 ※ 第35回出雲古代史研究会大会が「古代出雲と日本海交通」をテーマとして8月24日(土)に開催されます。平安時代の日本海交通を中心に出雲・石見・隠岐の概要を明らかにするとともに、このような交通が地域社会にいかなる影響を与えたのか、その意義について検討する予定です。 考古学・文献史学などを専門とする4名の報告とパネルディスカッションが行われますので、是非ご参加いただければと思います。なお、大会の詳細ならびに申し込みは、 当ホームページの大会のご案内ページ をご覧ください。 →次回更新2024年6月23日 → 出雲古代史研究会大会ご案内ページ
- 日本海地域と渤海使 第2回
委員 吉永壮志 渤海使(ぼっかいし)について話す前に、まず渤海という国について簡単に紹介すると、高句麗(こうくり)の遺民である大祚栄(だいそえい)が靺鞨(まっかつ)人を統合して7世紀末に建てた国で、中国東北地方東部や朝鮮半島北部を領有しました。 中国の唐に朝貢し、713年に大祚栄が渤海郡王に封じられてから、渤海を称するようになり、唐の文化や制度を取り入れ、9世紀には隆盛を極めるものの、内紛で国力が衰退し、926年に契丹(きったん)により滅ぼされました。 高句麗遺民の大祚栄を始祖とする渤海は高句麗後継ともいうべき国で、朝鮮半島の南下を志向し、それは新羅(しらぎ)との対立をもたらすことになります。そのような状況下で、新羅を牽制するため、渤海は日本との通交を目指し、使者を日本に派遣します。それが渤海使で、727年に大使高仁義(こうじんぎ)ら24名が派遣されたのが初見です。 ただ、このときは出羽に来着し、高仁義ら16名が殺害され、生き残った高斉徳(こうせいとく)ら8名のみが入京し、翌神亀5年(728)、渤海王の書や貢納品を聖武天皇に献上しました(『続日本紀』神亀4年9月21日・12月29日条、神亀5年正月17日条)。これが渤海と日本との通交のはじまりで、その後、33回の渤海使の来日が知られています。 その渤海使の来着地は、8世紀末に大きな変化がおこります(表 渤海使一覧参照)。8世紀末までは出羽が多く、それ以外も越後・能登・越前というように、日本海地域でも東部に来着する傾向がみられるのに対し、8世紀末以降は伯耆・出雲・隠岐といった山陰道諸国に来着する一方、出羽への来着はみられなくなり、能登より西の日本海西部地域への来着が中心となります。 これは、渤海から日本への航海ルートの変化に伴うもので、8世紀末までは日本海を北回りで渡っていたのに対し、それ以降は両国の中間に位置する鬱陵島(ウルルンド)を経由し、直接、あるいは島伝いに日本を目指すようになったことによると考えられます。そして、そのルート変更の背景としては新羅の弱体化が挙げられるのですが、それは渤海の日本との通交の目的である新羅を牽制する必要性が小さくなったことを意味します。しかし、それでもなお、渤海使は日本に派遣され続けます。 その目的は一体なんなのでしょうか。その答えのヒントが、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の渤海使に対する認識です。緒嗣は延暦24年(805)に菅野真道(すがののまみち)と征夷・造都の二大事業の継続・廃止を巡って議論した、いわゆる「徳政相論」で有名な人物ですが、その8年前の延暦16年(797)に出雲守であったことが確認できます(『公卿補任』(くぎょうぶにん)延暦21年条)。 もちろん、当時、右衛門督として京で勤務していたため、出雲に常駐していたわけではありませんが、延暦17年(798)、出雲の隣国である隠岐に渤海使が来着しており、渤海使の内情や実態を知ることができた可能性はあります。 そのような緒嗣は、天長2年(825)に隠岐に来着し、出雲に安置された渤海使を「商旅」(『類聚国史』(るいじゅうこくし)巻194渤海下、天長3年(826)3月1日条)、つまり商人と述べ、入京させずに出雲から渤海に帰国させることを主張します。時の右大臣の発言であったものの、結局、渤海使は入京していますが、9世紀はじめ、渤海使が商人とみなされていたことがわかります。 やや冗長な説明になりましたが、8世紀末以降、渤海使が商人、つまり貿易目的で来日すると認識されていたことを皆さんに知ってもらえたのではないかと思います。次回は、渤海使が日本海地域のどのようなところに滞在していたのかお話したいと思います。 →次回更新2024年7月21日 → 出雲古代史研究会大会ご案内ページ
- 日本海地域と渤海使 第3回
委員 吉永壮志 渤海使(ぼっかいし)が8世紀末を境に出羽を中心とする東日本海地域から山陰を含む西日本海地域に来着するようになったこと、その渤海使の来日目的が通交というよりも貿易にかわると考えられることを、前回のコラムで紹介しました。 今回のコラムでは、渤海使が日本海地域に来着した際、どのようなところに滞在していたのかお話したいと思います。 渤海使は34回の来日が確認できますが、そのうち、具体的に日本海地域で滞在先がわかるのが、延喜19年(919)、若狭に来着し、越前の「松原駅館」に移された大使裴璆(はいきゅう)です(『扶桑略記』(ふそうりゃくき)延喜19年11月18日・12月24日条)。 『延喜式』(えんぎしき)雑式21松原客館条に「越前国松原客館」とみえ、駅館と客館は同一のもので、松原客館は松原駅に併設されていたと考えられます。ちなみに、『延喜式』兵部式81北陸道駅伝馬条に「越前国駅馬」として最初に「松原八疋」と記され、敦賀市松島町には国名勝に指定されている「気比松原」が存在することから、松原駅はその近辺にあったと思われます。 また、近くには気比神宮があり、先に挙げた『延喜式』雑式21松原客館条に気比神宮司が松原客館を検校するとみえることも、当地に松原客館ならびに松原駅があったことを示唆します。そもそも、外国使節は国家間の通交のため、京に赴き、国書を渡す役目を帯びています。 そのため、駅を利用しながら陸路で京にむかうことが想定され、駅の近くに客館を設け、そこに滞在することは便宜的な面があったと考えられます。越前においては、船の停泊可能な敦賀湾に面する松原客館(駅館)が渤海使の滞在施設として機能していたといえます。 ただし、渤海使の滞在施設は越前だけでなく、他にもあったと考えられます。前回のコラムに掲載した表(渤海使一覧)をみると、来着地として能登が確認でき、その能登には渤海使を迎接するための「客院」の建設が命じられています(『日本後紀』(にほんこうき)延暦23年(804)6月27日条)。 その「客院」、いわゆる能登客院がどこにあったのか、確定しているわけではありませんが、先の松原客館の立地がヒントになるのではないかと思います。つまり、船が停泊可能で駅に近く、神社が近在しているところです。 『延喜式』兵部式81北陸道駅伝馬条には「能登国駅馬」として撰才・越蘇の2駅しか確認できませんが、『日本後紀』大同3年(808)10月19日条に越蘇・穴水・三井・大市・待野・珠洲の6駅を廃止したと記されていることから、越蘇駅は大同3年以降に復されたとして、もともと7駅存在していたことが判明します。 このうち、撰才駅のみが一度も廃止されることがなく、『延喜式』にも記され、交通の要衝にある駅として能登において特に重要視されていたと考えられます。その比定地は現在の石川県羽咋市飯山町周辺とされており(三浦純夫「能登邑智潟周辺の古代交通路」(東四柳史明編『 地域社会の文化と史料 』同成社、2017年))、かつては邑智潟と呼ばれるラグーンが近くに広がっていた水上交通においても重要な場所でした。 しかも、越中守大伴家持(おおとものやかもち)が国内を巡行した時(このとき能登は越中に併されている時期)の歌である『万葉集』4025番の題詞に「気太神宮」とみえる気多大社が撰才駅比定地の近くに存在しており、先の松原客館と気比神宮と同様な関係がうかがえます。 すなわち、能登における渤海使の滞在先としての客院は邑智潟に近く、水陸交通の要衝として機能した撰才駅周辺に置かれ、その客院には近在する気多大社がかかわっていたかもしれません。 以上、来日した渤海使の日本海地域における滞在先について紹介してきましたが、越前や能登だけでなく、隠岐や出雲といった山陰地域にも渤海使は来着しています。次回は「出雲古代史研究会」の会員コラムに相応しく、出雲における渤海使についてお話したいと思います。 →次回更新2024年8月18日 → 出雲古代史研究会大会ご案内ページ
- 出雲国に流されることになった藤原隆家
委員 大日方克己 2024年大河ドラマ「光る君へ」で第19話「放たれた矢」が放送された。出雲国ともかかわりがあるため、「長徳の変」のことを書いてみよう。「長徳の変」は藤原伊周・隆家兄弟の政治的な失脚であり、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷された。実質的な流罪である。 きっかけは、長徳2年(996)正月16日の花山法皇狙撃事件だとされる。事件の状況は『栄花物語』では、伊周は故太政大臣源為光の娘のもとに通っていたが、花山法皇も同じく通っていると誤解して、従者に法皇の乗っている車に矢を射かけさせたとする。『小右記』は、伊周・隆家と花山法皇が故為光邸ではちあわせし、闘乱になって童子2人が殺害されたという藤原道長の手紙を載せている。 この事件と、東三条院詮子を呪詛したこと、大元帥法(たいげんのほう)を行ったことの罪が問われたのである。大元帥法とは、鎮護国家や敵の調伏(まじないによってのろい殺す)のために行われる密教の強力な修法であり、朝廷・国家のみが行うことのできるもので、個人が私的に行うことは禁止されていた。 隆家は、長徳2年(996)4月24日に、中納言から出雲権守に左遷され、5月1日に出雲へ向けて出発した。『後拾遺和歌集』には、隆家が出雲の国に流される道で詠んだ次の歌が収められている。 さもこそは 都のほかに 宿りせめ うたて露けき 草枕かな ところが、隆家は病気だということで、途中の但馬国にとどまった。10月7日には許されて都にもどしてほしいと願う申文という文書を朝廷に出している。この申文は高階成忠が代筆した。成忠はあの高階貴子の父である。貴子は道隆の妻で定子・伊周・隆家の母。つまり成忠は隆家の祖父である。 そして翌長徳3年4月5日、東三条院詮子の病気による恩赦で許されて、都にもどった。結局、隆家は出雲にはこなかった。 隆家は公卿の地位にもどり、その後中納言に復帰している。その間、大宰権帥を兼任し、眼の病気を唐人医師に診察してもうために大宰府に下っていた時に起ったのが寛仁2年(1019)の「刀伊の襲来」である。「刀伊」と呼ばれた東女真人の船団が、朝鮮半島(高麗)東岸を襲撃し、さらに南下して対馬・壱岐・博多周辺を襲撃した事件で、隆家が陣頭指揮を執って撃退したとされる。このため、出雲など日本海沿海地域にも警備体制がとられ、緊張が走っていた。 《参 考》 『 松江市史 通史編1自然環境・原始・古代 』(松江市史編集委員会、2015年、本体5000円)、pp.744-745、p.789