委員 大日方克己
2024年大河ドラマ「光る君へ」で第19話「放たれた矢」が放送された。出雲国ともかかわりがあるため、「長徳の変」のことを書いてみよう。「長徳の変」は藤原伊周・隆家兄弟の政治的な失脚であり、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷された。実質的な流罪である。
きっかけは、長徳2年(996)正月16日の花山法皇狙撃事件だとされる。事件の状況は『栄花物語』では、伊周は故太政大臣源為光の娘のもとに通っていたが、花山法皇も同じく通っていると誤解して、従者に法皇の乗っている車に矢を射かけさせたとする。『小右記』は、伊周・隆家と花山法皇が故為光邸ではちあわせし、闘乱になって童子2人が殺害されたという藤原道長の手紙を載せている。
この事件と、東三条院詮子を呪詛したこと、大元帥法(たいげんのほう)を行ったことの罪が問われたのである。大元帥法とは、鎮護国家や敵の調伏(まじないによってのろい殺す)のために行われる密教の強力な修法であり、朝廷・国家のみが行うことのできるもので、個人が私的に行うことは禁止されていた。
隆家は、長徳2年(996)4月24日に、中納言から出雲権守に左遷され、5月1日に出雲へ向けて出発した。『後拾遺和歌集』には、隆家が出雲の国に流される道で詠んだ次の歌が収められている。
さもこそは 都のほかに 宿りせめ うたて露けき 草枕かな
ところが、隆家は病気だということで、途中の但馬国にとどまった。10月7日には許されて都にもどしてほしいと願う申文という文書を朝廷に出している。この申文は高階成忠が代筆した。成忠はあの高階貴子の父である。貴子は道隆の妻で定子・伊周・隆家の母。つまり成忠は隆家の祖父である。
そして翌長徳3年4月5日、東三条院詮子の病気による恩赦で許されて、都にもどった。結局、隆家は出雲にはこなかった。
隆家は公卿の地位にもどり、その後中納言に復帰している。その間、大宰権帥を兼任し、眼の病気を唐人医師に診察してもうために大宰府に下っていた時に起ったのが寛仁2年(1019)の「刀伊の襲来」である。「刀伊」と呼ばれた東女真人の船団が、朝鮮半島(高麗)東岸を襲撃し、さらに南下して対馬・壱岐・博多周辺を襲撃した事件で、隆家が陣頭指揮を執って撃退したとされる。このため、出雲など日本海沿海地域にも警備体制がとられ、緊張が走っていた。
《参 考》
『松江市史 通史編1自然環境・原始・古代』(松江市史編集委員会、2015年、本体5000円)、pp.744-745、p.789