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日本海地域と渤海使 第3回

更新日:2024年7月30日



                   委員 吉永壮志



渤海使(ぼっかいし)が8世紀末を境に出羽を中心とする東日本海地域から山陰を含む西日本海地域に来着するようになったこと、その渤海使の来日目的が通交というよりも貿易にかわると考えられることを、前回のコラムで紹介しました。



今回のコラムでは、渤海使が日本海地域に来着した際、どのようなところに滞在していたのかお話したいと思います。



 


渤海使は34回の来日が確認できますが、そのうち、具体的に日本海地域で滞在先がわかるのが、延喜19年(919)、若狭に来着し、越前の「松原駅館」に移された大使裴璆(はいきゅう)です(『扶桑略記』(ふそうりゃくき)延喜19年11月18日・12月24日条)。


『延喜式』(えんぎしき)雑式21松原客館条に「越前国松原客館」とみえ、駅館と客館は同一のもので、松原客館は松原駅に併設されていたと考えられます。ちなみに、『延喜式』兵部式81北陸道駅伝馬条に「越前国駅馬」として最初に「松原八疋」と記され、敦賀市松島町には国名勝に指定されている「気比松原」が存在することから、松原駅はその近辺にあったと思われます。



また、近くには気比神宮があり、先に挙げた『延喜式』雑式21松原客館条に気比神宮司が松原客館を検校するとみえることも、当地に松原客館ならびに松原駅があったことを示唆します。そもそも、外国使節は国家間の通交のため、京に赴き、国書を渡す役目を帯びています。



そのため、駅を利用しながら陸路で京にむかうことが想定され、駅の近くに客館を設け、そこに滞在することは便宜的な面があったと考えられます。越前においては、船の停泊可能な敦賀湾に面する松原客館(駅館)が渤海使の滞在施設として機能していたといえます。



ただし、渤海使の滞在施設は越前だけでなく、他にもあったと考えられます。前回のコラムに掲載した表(渤海使一覧)をみると、来着地として能登が確認でき、その能登には渤海使を迎接するための「客院」の建設が命じられています(『日本後紀』(にほんこうき)延暦23年(804)6月27日条)。





その「客院」、いわゆる能登客院がどこにあったのか、確定しているわけではありませんが、先の松原客館の立地がヒントになるのではないかと思います。つまり、船が停泊可能で駅に近く、神社が近在しているところです。



『延喜式』兵部式81北陸道駅伝馬条には「能登国駅馬」として撰才・越蘇の2駅しか確認できませんが、『日本後紀』大同3年(808)10月19日条に越蘇・穴水・三井・大市・待野・珠洲の6駅を廃止したと記されていることから、越蘇駅は大同3年以降に復されたとして、もともと7駅存在していたことが判明します。



このうち、撰才駅のみが一度も廃止されることがなく、『延喜式』にも記され、交通の要衝にある駅として能登において特に重要視されていたと考えられます。その比定地は現在の石川県羽咋市飯山町周辺とされており(三浦純夫「能登邑智潟周辺の古代交通路」(東四柳史明編『地域社会の文化と史料』同成社、2017年))、かつては邑智潟と呼ばれるラグーンが近くに広がっていた水上交通においても重要な場所でした。



しかも、越中守大伴家持(おおとものやかもち)が国内を巡行した時(このとき能登は越中に併されている時期)の歌である『万葉集』4025番の題詞に「気太神宮」とみえる気多大社が撰才駅比定地の近くに存在しており、先の松原客館と気比神宮と同様な関係がうかがえます。



すなわち、能登における渤海使の滞在先としての客院は邑智潟に近く、水陸交通の要衝として機能した撰才駅周辺に置かれ、その客院には近在する気多大社がかかわっていたかもしれません。



以上、来日した渤海使の日本海地域における滞在先について紹介してきましたが、越前や能登だけでなく、隠岐や出雲といった山陰地域にも渤海使は来着しています。次回は「出雲古代史研究会」の会員コラムに相応しく、出雲における渤海使についてお話したいと思います。


→次回更新2024年8月18日





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