委員 吉永壮志
渤海使(ぼっかいし)について話す前に、まず渤海という国について簡単に紹介すると、高句麗(こうくり)の遺民である大祚栄(だいそえい)が靺鞨(まっかつ)人を統合して7世紀末に建てた国で、中国東北地方東部や朝鮮半島北部を領有しました。
中国の唐に朝貢し、713年に大祚栄が渤海郡王に封じられてから、渤海を称するようになり、唐の文化や制度を取り入れ、9世紀には隆盛を極めるものの、内紛で国力が衰退し、926年に契丹(きったん)により滅ぼされました。
高句麗遺民の大祚栄を始祖とする渤海は高句麗後継ともいうべき国で、朝鮮半島の南下を志向し、それは新羅(しらぎ)との対立をもたらすことになります。そのような状況下で、新羅を牽制するため、渤海は日本との通交を目指し、使者を日本に派遣します。それが渤海使で、727年に大使高仁義(こうじんぎ)ら24名が派遣されたのが初見です。
ただ、このときは出羽に来着し、高仁義ら16名が殺害され、生き残った高斉徳(こうせいとく)ら8名のみが入京し、翌神亀5年(728)、渤海王の書や貢納品を聖武天皇に献上しました(『続日本紀』神亀4年9月21日・12月29日条、神亀5年正月17日条)。これが渤海と日本との通交のはじまりで、その後、33回の渤海使の来日が知られています。
その渤海使の来着地は、8世紀末に大きな変化がおこります(表 渤海使一覧参照)。8世紀末までは出羽が多く、それ以外も越後・能登・越前というように、日本海地域でも東部に来着する傾向がみられるのに対し、8世紀末以降は伯耆・出雲・隠岐といった山陰道諸国に来着する一方、出羽への来着はみられなくなり、能登より西の日本海西部地域への来着が中心となります。
これは、渤海から日本への航海ルートの変化に伴うもので、8世紀末までは日本海を北回りで渡っていたのに対し、それ以降は両国の中間に位置する鬱陵島(ウルルンド)を経由し、直接、あるいは島伝いに日本を目指すようになったことによると考えられます。そして、そのルート変更の背景としては新羅の弱体化が挙げられるのですが、それは渤海の日本との通交の目的である新羅を牽制する必要性が小さくなったことを意味します。しかし、それでもなお、渤海使は日本に派遣され続けます。
その目的は一体なんなのでしょうか。その答えのヒントが、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の渤海使に対する認識です。緒嗣は延暦24年(805)に菅野真道(すがののまみち)と征夷・造都の二大事業の継続・廃止を巡って議論した、いわゆる「徳政相論」で有名な人物ですが、その8年前の延暦16年(797)に出雲守であったことが確認できます(『公卿補任』(くぎょうぶにん)延暦21年条)。
もちろん、当時、右衛門督として京で勤務していたため、出雲に常駐していたわけではありませんが、延暦17年(798)、出雲の隣国である隠岐に渤海使が来着しており、渤海使の内情や実態を知ることができた可能性はあります。
そのような緒嗣は、天長2年(825)に隠岐に来着し、出雲に安置された渤海使を「商旅」(『類聚国史』(るいじゅうこくし)巻194渤海下、天長3年(826)3月1日条)、つまり商人と述べ、入京させずに出雲から渤海に帰国させることを主張します。時の右大臣の発言であったものの、結局、渤海使は入京していますが、9世紀はじめ、渤海使が商人とみなされていたことがわかります。
やや冗長な説明になりましたが、8世紀末以降、渤海使が商人、つまり貿易目的で来日すると認識されていたことを皆さんに知ってもらえたのではないかと思います。次回は、渤海使が日本海地域のどのようなところに滞在していたのかお話したいと思います。
→次回更新2024年7月21日