井上寛司
事務局から、出雲古代史研究会発足当時の状況について、覚えていることをまとめるようにとの指示を受けた。
しかし、後ほど述べるような事情もあって、菊地照夫氏を初めとする皆さまのように、詳細で具体的なことはほとんど記憶していない。私が、自らの学問的な興味・関心というより、むしろ島根大学歴史学教室に籍を置く者としての社会的責任という観点から本研究会と関わってきたという、私自身の立ち位置と密接に関係しているのかも知れない。
そうした不十分さを承知の上で、私がどのような心づもりで本研究会の発足に関わったのかの概要を述べることとしたい。
私が島根大学文理学部(後法文学部)歴史学教室に着任したのは1975年(昭和50)10月のことで、日本中世史の研究者が島根県内の大学等の専門研究機関に着任するのは、私が初めてのことであった。
島根大学に着任してまもなく、島根地域史研究の抱える現状の容易ならざることに大きなショックを覚えると共に、これを克服するよう努めることは私に課せられた重大な社会的責務だと考えるようになった。
問題点の1つは、戦前に刊行された『島根県史』以後、今日に至るまで1度としてまともな県史が編纂されていないことにある。「まともな県史」とは、全国的な視野に立った古文書等の悉皆調査を踏まえ、史料編と合わせて通史編を編集・刊行するという、全国的にはごく当たり前の、広く認知された編集方法に基づく県史をいう
(1965~67年に『新修島根県史』が編纂され、通史編3巻の他に史料編6巻、年表編も刊行されたが、しかしそれらはいずれも旧『島根県史』の成果を前提とするもので、改めて古文書の悉皆調査が行われたわけではなく、古代・中世などの史料編はいずれも『島根県史』編纂で収録された史料の中から、その採録基準も不明確なまま一部を抜粋したものに過ぎなかった)。
そして、島根県の場合一層深刻なのは、こうした県史のあり方に規定され、各市町村史においても、同じく全国的な視野に立った古文書等の悉皆調査がまったく行われないまま、史料編を欠いた通史編のみの刊行が広く常態化してしまったことにある。
私は、島根大学着任の数年後から、ほぼ毎年のように、島根県総務課や教育委員会に対し、早急に(まともな)『新島根県史』の編纂に着手するよう、様々な手づるを通じて要求し続けたが、残念ながらいま以てなしのつぶてのままである。
いま1つの問題は、島根県在住の歴史研究者の絶対的な僅少さとも関わって、各専門分野についての、より踏み込んだ学問的な議論・検討を行える場が極めて制約されている、ないし存在しないことにある。
そして、この問題を解決するためには時代別の専門的な研究会を立ち上げる必要があると考え、まず1980年6月に私の提案で「島根県中世史研究会」が発足した。さらに他の分野の皆さまにも働きかけ、1983年に「島根近代史研究会」、1986年に「島根県近世史研究会」がそれぞれ発足した。こうした中、考古学分野でも、それまでの組織を組み替えて、1983年に新しい研究団体「島根考古学会」が発足した。
→2024年9月1日(日)につづきます