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  • 出雲国風土記百景(第29景)

    【長台寺付近寺跡】 【2022年11月27日撮影】 今回は安来市伯太町安田関の長台寺付近寺跡を紹介する。今は比較的はっきりしている古代寺院にかかわる遺跡という認識だが、最初に知ったのは関和彦さんの『出雲国風土記註論』で、驚いたのを覚えている。 写真はわかりづらい、円形の柱座と舎利孔がみえ、古代の塔心礎とみてよい。なお、『註論』にも写真が載っているが、そちらには全く苔が生えていない。月日の流れは速い。 【2022年11月27日撮影】 現在の長台寺もなかなか雰囲気のあるお寺である。鳥取島根県堺、すなわち伯耆出雲国境にある要害山の西斜面に平坦地を作り出し、本堂と護摩堂・薬師堂、鐘楼などがある。 問題の塔心礎は、この平坦面の下の庫裏の庭にある。いわゆる庭石なので、原位置にあるとは考えられない。瓦の出土地はさらに西側に下った場所にあるとされるが、出土瓦については実見できていない。 さて、寺伝によると、当初この寺院はさらに山奥の坊床にあったものが移転したとされる。似たような伝承は、松江の澄水寺にもあり、検討が必要だろう。 また所在地安田関は手間剗の推定地、下の地図の黄色の道がおおむね古代山陰道と考えられている(中村太一説)。すでに指摘のあるいわゆる関寺にあたる可能性もあるといえるだろう。 ※次回の更新は12月20日 (平石 充)

  • 出雲国風土記百景(第31景)

    【塔の石】 【2022年1月27日撮影】 皆様 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 一昨年の12月に開始したこの連載も約1年でようやく30景。先は長い。 今回は雲南市木次町の木次駅構内廃寺の礎石を取り上げる。『風土記』では大原郡の909にみえる斐伊郷南新造院に当たるとされる。塔の石はこの寺院の塔心礎と考えられており、長径2mを超える大規模なもので、第18景でも紹介したように、緩やかふくらんだ柱座がある(直径60㎝)。 この斐伊郷南新造院は厳堂と住僧5人の記載があり、これは新造院中最多である。また、現在は斐伊川堤防との間にあまり平坦地がないが、斐伊川の河道はかつては西側にあったと想定されており(木次、三刀屋町堺は近年に至るまで変動しているが現斐伊川流路の西にある)、それなりの規模があったとみることもできる。 この礎石は源一を保っておらず、遺跡名のように現在の木次駅のプラットホームにある屋根(トレインシェイドというらしい)の北側端のあたりにあったとされ、明治6年に現在の場所に移動された。このあたりの経緯は新修木次町誌編集委員会2004『新修木次町誌』に詳しい。 大原郡の仏教文化を伝える文化財である。 【平石 充】 (次回は1月21日掲載予定です)

  • 出雲国風土記百景(第32景)

    【冥土さん】 【撮影2023年3月7日】 今回は出雲郡の黄泉の穴、通称冥土さんを紹介する。22年の1月に『出雲国風土記地図・写本編』の制作にあたり、GPSを持って現地を確認しに行った。やはりGPSは威力があって、それ以前に想定した場所と、斜面の向きが違っていた。 その時は落ち葉などによってだいぶん埋まっていたが今年の3月に再訪すると、穴の中などだいぶ掃除されていた。手前の石柱の後ろの石には「黄泉穴」と刻まれている。 この穴について、『風土記鈔』は出雲郡540宇賀郷の地名起源伝承を記した後、「即ち…」としてつづく海辺の窟、黄泉の穴に比定する。 一方、『雲陽誌』では楯縫郡口宇賀(近世にはこの場所は楯縫郡である)の宇賀明神,奥宇賀の籠守明神・窟にその由緒がみえる。こちらでは話は複雑になっており、『風土記』の「即ち」より前の郷名起源伝承部分が取り入れられ、大己貴命が隠れた綾門姫(『風土記』宇賀郷状に見える神)を覗ったから宇賀郷、隠れた穴が黄泉の穴だとされる。 この間の経過については髙橋周氏が、佐草自清・千家延俊によって『風土記』の神話が宇賀神社に提供されたのではないかとしているが、妥当であろう。 さて、この穴にあった伝承とはどのようなものであったろうか。 この穴については本居宣長の『玉勝間』10巻に、宣長門人である浜田藩士小篠御野が、寛政6年ごろ弟子の斎藤秀満に実地調査させた話としてみえ、入り口付近の様子が細かく描写されているほか、穴について70歳ばかりの古老に聞いた話が記されている。 その内容は、穴は冥途の穴と呼ばれ、最近は訪れる人もいない、この穴からは毒気が出ることがあってそれに当たると息絶える、また鰐淵寺の智證上人(ママ)が入定した、などというもので、宇賀郷の郷名起源にみえる大穴持や綾門日女は全く登場しない。 神官などではなくあくまで古老の談であり、こちらが近世の地域社会にあった穴の伝承を伝えているとみるべきであろう。この毒気がでてそれに当たると死ぬという話は、実は伯耆国の弓ヶ浜にも夜見島と黄泉とを引き付けて伝わっていることがわかっており、中世以降の展開としてそれはそれで興味深い。 なお、『玉勝間』の最後は、この穴は海辺にあるとされる『風土記』の黄泉の穴ではないと結ばれている(宣長の解釈と思われる)。 (平石 充) 参考文献 髙橋周2021「中近世出雲における『出雲国風土記』の受容と『日本書紀』」『日本書紀と出雲観』島根県教育委員会 ※アラビア数字は『山川出版 風土記』所収出雲国風土記の本文行数です。 ※『出雲国風土記 校訂・注釈編』編集のため、2月3月は連載をお休みします。次の更新は、4月9日土曜日になります。 ※写真を差し替えました(4月13日)。

  • いずもけんブログ連載ご案内1

    平素は、#出雲古代史研究会(#島根県)への格別のご高配を賜りありがとうございます。皆さまにお知らせです。 出雲古代史研究会は、皆さまとご一緒に「#古代出雲」の謎をときあかすことをめざしています。そこで、このたび出雲古代史研究会は、#いずもけんブログ をさらに充実させることにいたしました。2021年(令和3年)10月1日(金)より新しく当会の会員によるコラム連載をはじめます。 コラムは毎月1日にブログに掲載されます。皆さまぜひご覧くださいませ。出雲古代史研究会は、今後も皆さまとともによりよい会をめざしますので、変わらぬご厚情を賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

  • いずもけんブログ連載ご案内4

    平素は、#出雲古代史研究会(#島根県)への格別のご高配を賜りありがとうございます。皆さまにお知らせです。 出雲古代史研究会は、皆さまとご一緒に「#古代出雲」の謎をときあかし、歴史学の楽しさをわかちあうことをめざしています。そこで出雲古代史研究会は、#いずもけんブログ で会員コラムをはじめたところです。 これまで #菊地照夫 の「#私の出雲古代史研究」(2021年10月1日~2022年4月1日)、#平石充 の「#出雲国風土記百景」(2021年12月4日~連載中)、#松本岩雄 の「「古代史サマーセミナー」出雲開催の頃の思い出」をのせました。 このたび、2022年(令和4年)10月15日(土)より新しい会員コラムの連載をはじめます。今度のコラムは、毎月15日にブログに掲載されます。皆さまぜひご覧くださいませ。 出雲古代史研究会は、皆さまとともによりよい会をめざしたく、引き続きなにとぞよろしくお願い申し上げます。

  • いずもけんブログ連載ご案内3

    平素は、#出雲古代史研究会(#島根県)への格別のご高配を賜りありがとうございます。皆さまにお知らせです。 出雲古代史研究会は、皆さまとご一緒に「#古代出雲」の謎をときあかし、歴史学の楽しさをわかちあうことをめざしています。そこで出雲古代史研究会は、#いずもけんブログ で会員コラムをはじめました。 初めての会員コラムは、#菊地照夫 代表委員による「#私の出雲古代史研究」です。「私の出雲古代史研究会」は、2021(令和3年)年10月1日から連載スタート、2022(令和4年)年4月1日をもって7回の連載をひとまず終えました。皆さま楽しんでいただけたでしょうか? 今度は、2022年(令和4年)5月1日(日)より新しい会員コラムの連載をはじめます。コラムは毎月1日にブログに掲載されます。皆さまぜひご覧くださいませ。 出雲古代史研究会は、皆さまとともによりよい会をめざしたく、引き続きなにとぞよろしくお願い申し上げます。

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第2回

    委員 武廣亮平 今回から出雲国の移配エミシについて、関連史料をもとに具体的に述べてみたいと思います。第2回目は出雲国の移配エミシを考える出発点となる史料を紹介します。(実際の記事は漢文ですが、内容がわかりやすいように現代語訳しました)。 (桓武天皇が)勅して言うには、相模、武蔵、常陸、上野、下野、出雲などの国の帰降した夷俘(蝦夷と俘囚)は徳沢(仁徳のめぐみ)により生活している。事あるごとに撫恤(いつくしみ)を加え、帰郷を願うことが無いようにすべきである。時服、禄物は毎年これを給い、その資糧(生活資材と食糧)が絶えた時にも優恤(情けと憐み)をすべきである。季節ごとの饗宴や禄などの類は、国司に命じて行わせるとともに報告させよ。その他の必要と思われる施策は、まず申請してから行うように。 (『類聚国史』延暦17年(798)6月21日条) 桓武朝における主要な政策が「軍事と造作」(エミシの征討と造都事業)であったことは知られていますが、このうちエミシの征討(征夷)は、前回も触れたように延暦13年(794)の征夷大将軍大伴弟麻呂・副将軍坂上田村麻呂により行われたものと、延暦16年(797)から20年頃にかけて坂上田村麻呂を征夷大将軍として行われたものが大きな成果をあげたと考えられています。上記の史料は延暦17年という年からすれば、延暦13年の征夷により帰降したエミシを中心とする人々と理解してよいでしょう。 史料の内容についてもう少し掘り下げてみます。これは桓武天皇の勅として出されたもので、相模国以下の6ヵ国に対し、それらの国に移配されたエミシ(夷俘)の扱いについて指示しています。 また後半部の内容からは、移配エミシが非常に厚遇されていた様子を見て取ることができます。たとえば「時服」とは毎年春・秋に支給される服料のことで、本来は国家の官人を対象としたものですが、これがエミシにも支給されているのです。「禄物」が具体的に何をさすのか明らかではありませんが、おそらく生活に必要な物品であったと思われます。 さらに彼らは季節ごとの「饗宴」に伴う禄物の賜与にもあずかっていたようであり、これも異例の待遇です。このように延暦17年段階における各国への移配エミシへの待遇は、やや過剰といえるほどの手厚いものであったことがわかります。 ではなぜこのような厚遇がなされていたのでしょうか。それは史料の「帰郷を願うことが無いようにすべきである」という文言がヒントになっているようです。一般的に移配されるエミシは国家による征討(征夷)により投降した集団であると考えられていますが、その実態は軍事行動による捕虜とともに、自らの意志で移配を希望する地域の住人など多様なものであったと思われます。 史料では「移配」という二文字で簡単に説明されていますが、それはエミシの人々にとっては、それまでの居住地から遠く離れた土地への移住であり、その移動手段も徒歩であった可能性が高いようです。そのような厳しい条件のもとで移配という政府の政策を受け入れた(もちろん「強制」されたケースもあったと思いますが)人々への処遇を意識するのは当然のことといえるでしょう。 さらに移配は国家・天皇の支配が及ばない「夷狄」=エミシに対し、その仁徳を示すことで支配に取り込むという政治的な意図を持っており、前掲の史料にある「徳沢」や「撫恤」、「優恤」といった言葉はまさにそれを象徴しています。 移配先における手厚い待遇は、実質的にはその土地への定着をはかるための措置ともいえますが、理念的には、天皇の徳により「夷狄」を国家の支配のもとに従わせるという側面があることも確認しておきたいと思います。『類聚国史』延暦19年(800)5月21日条には、「夷狄を招いて中州(陸奥・出羽以南の内国)に入れるのは、野俗を変えさせて風化に靡かせるためである」とあります。「風化」とは徳により人を感化・教化するという意味であり、ここにもエミシ移配の理念的な側面が表れています。 この記事でもう一つ注目されるのは、彼らが移配された地域です。史料を見ると相模(神奈川県)、武蔵(埼玉県・東京都・神奈川県東部)、常陸(茨木県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)という東国の地名が多く見られ、いずれも現在の関東地方であることがわかります。 エミシの本来の居住地域は東北北部なので、そこから距離的にもあまり遠くない関東地方への移配が中心になっているのだと推測されますが、移配される人数が多かったことから、長距離の移動はエミシに支給する食料の調達や、移動を管理する部領使と呼ばれる役人の確保が難しいという判断などもあったのかも知れません。 そうするとここに出雲国が含まれているというのはやはり非常に気になります。出雲国は、多くのエミシが移配された関東地方から西に大きく離れており、何らかの理由があったことを窺わせます。ではその理由は一体なんでしょうか。新たな史料を紹介しながら次回考えてみたいと思います。 →12月15日(火)に続きます

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第3回

    委員 武廣亮平 前回(第2回)取り上げたエミシ移配史料(『類聚国史』延暦17年6月21日条)では、相模・武蔵国など現在の関東地方を中心とした移配先に出雲国も含まれている点に注目しました。今回も『類聚国史』に収録された史料を紹介しようと思いますが、こちらはさらに具体的な内容が書かれたものです。 『類聚国史』延暦19年(800)3月1日条には、出雲介(国司の次官)の石川朝臣清主の俘囚政策に関する「言上」と、それに対する桓武天皇の勅が記されています。清主の言上と桓武天皇の勅に分けて史料の全文(意訳)を掲げます。 (石川朝臣清主の言上) 俘囚らの冬の衣服は、これまでの例によれば絹と布(麻布)を混ぜたものを支給してきました。しかし清主はこれまでの例を改め、すべて絹製としました。また俘囚1人につき乗田(耕作者がなく余った田地)一町を支給して、これを富民(裕福な農民)に耕作させることにしました。新たに来た俘囚60余人は、寒い季節に遠くから来たのですから、優遇すべきです。そこで(私は)各自に絹一疋、綿一屯を支給し、5・6日間隔で饗宴を行い禄を賜い、毎月一日に存問(安否をうかがうこと)しようと思います。また百姓(農民)を使って、俘囚の畑を耕作させようと思います。 (桓武天皇の勅)  俘囚を慰撫(慰め労わること)することについては、先に例を立てて決めたところである。しかし清主は自分の意に任せて本来の主旨を見失い、饗宴・賜禄に多くを費やし、田畑を耕作する農民の負担も増している。これらは皆朝廷で決めたことではい。また夷(エミシ)の性格は貪欲であり、(一度このような優遇をした場合)もし常に手厚く扱わなかったら、怨む心を動かすことがあるので、今後は過剰な優遇をしてはならない。 さまざまな論点を含む史料ですが、ここでは石川朝臣清主という人物に焦点をあててみたいと思います。ただこの人物の事蹟や人物像についてはよくわかりません。なぜ彼はこのようなエミシへの優遇政策を行ったのでしょうか。 清主の出身母体である石川朝臣は、蘇我氏の祖とされる石川宿禰の後裔氏族です。河内国石川郡や大和国高市郡を拠点とし、大化改新の新政府で活躍した蘇我倉山田石川麻呂をはじめとして、奈良時代には中央政界でも要職に就く者がみられます。出雲国司として赴任するのは石川朝臣足麻呂、石川朝臣年足、石川朝臣豊人の3名ですが、この中で注目されるのが石川朝臣年足です。『続日本紀』天平11年(739)6月23日条には 出雲守従五位下石川朝臣年足に、絁卅疋、布六十端、正税三萬束を賜う。善政を賞するなり。 という記事があり、年足の国司としての業績が「善政」として褒賞されています。「善政」の内容は不明ですが、清主と同じ石川朝臣氏の人物が出雲国司としての施政を評価されていることは確認することができます。清主のエミシに対する優遇政策は、年足の善政を意識したものと考えることもできるのではないでしょうか。 そこで出雲介である石川清主の政策の内容について改めてみると、新到の俘囚に対し絹や綿を与えるとともに、数日おきに饗宴や賜禄を行うとあります。現代の私たちの感覚からみても過剰な優遇であることは明らかですが、これは前回にもお話しした「夷狄」に対して仁徳を示す行為として行っているものと考えられます。まさにそれは天皇の徳を示す行為であり、それによってエミシ(夷狄)の野蛮な性格を改めさせる政策ということになります。 清主が過剰なエミシ優遇策を得意げに言上しているのは、自らが天皇の代理として仁徳を施しているという自己アピールであると考えてみたいと思います。またそこには石川朝臣年足の「善政」も重ね合わせることができそうです。 しかし桓武天皇は清主の言上に厳しい評価を下します。先に掲げた史料で注目したいのは、エミシ(俘囚)への優遇策についてはすでに「例」を立てていると天皇が強調している点であり、これは移配先にエミシが定着するための具体的な生活優遇策と思われます。 つまり移配先におけるエミシ政策は、この「例」にもとづいて行われるべきであるにも拘わらず、清主が「例」を超えた過剰な優遇策を行い、さらにそれをエスカレートしようとしていることを天皇は問題視しているのです。過剰な優遇を通常のものに改めた場合、それがエミシの「怨み」に繋がるという桓武天皇の危機意識は、その後の出雲国における移配エミシの動向を考える上でも非常に示唆的です。 ところで延暦19年に出雲守(国司の長官)であったのは藤原緒嗣です。この人物は延暦24年(805)に菅野真道と「徳政相論」を行った人物として知られており、そこで緒嗣は「軍事と造作」、すなわちエミシ社会への軍事行動(征夷)と平安京の造営が多くの人民を苦しめていると主張し、結局、桓武天皇は緒嗣の意見を受け入れて「軍事と造作」を中止しました。 藤原緒嗣は都で右衛門督という重要なポストにも就いていたことから、出雲国には赴任せず、実質的な仕事は介の石川朝臣清主が行っていたと考えられますが、「軍事と造作」を批判した緒嗣ですから、清主のエミシ優遇策に厳しい目を向けていたことは容易に想像できます。清主のエミシ政策に対する桓武天皇の厳しい評価は、緒嗣の考えを反映したものであるのかも知れません。 石川朝臣清主が出雲国の移配エミシ優遇策を言上した翌年、島根郡人大神掃石朝臣継人ら3名の人物が、清主とともに「悪行」を行ったという理由で長門国に流されています(『類聚国史』延暦20年6月27日条)。これも「悪行」の中身はわからず、清主も処分されたかどうかも不明ですが、自らの「善政?」を主張した清主が正反対の評価を与えられてしまったことは何とも皮肉なことだといえます。 →1月15日(日)に続きます

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第4回

    委員 武廣亮平 出雲国における移配エミシの記録は、延暦17年(798)から確認されることはこれまで述べた通りですが、それから16年後の弘仁5年(814)に出雲国の移配エミシ(俘囚)の反乱に関する史料が4点みられます。 ただその内容は反乱の鎮圧に功績があった者への処遇など、すべて乱後の処置に関するものであり、反乱が起きた原因や具体的な経過などについては残念ながら不明です。情報量も限られていますが、今回は関連史料をもとに、出雲国の移配エミシの反乱の実態を出来る限り探りたいと思います。 『類聚国史』弘仁5年2月10日条   夷第一等の遠胆沢公母志に外従五位下を授く。出雲の叛俘を討つの功を以てなり。 最初の史料は「夷第一等」という身分・地位にある「遠膽澤公母志」に対する授位記事です。「夷第一等」の「夷」とは「蝦夷」の省略表記であり、「第一等」はエミシの有力者に与えられた特殊な爵位を示し、蝦夷爵と呼ばれています。エミシには「蝦夷」と「俘囚」という2つの身分表記があることは第1回目に説明しましたが、遠胆沢公母志は「夷(蝦夷)」という国家側からみれば異民族的な、言い方を変えれば自立性の強い身分を維持し、かつ爵位を与えられているのです。 「遠胆沢公」は、遠胆沢(地名)+公(カバネ)に分けられるこの人物の姓です。「遠胆沢」が具体的にどの地域を指すのかはっきりしませんが、「胆沢」は延暦8年(789)に行われた大規模な征討の時の激戦地であったことはよく知られており、その時の指揮官であった征東将軍紀古佐美が「胆沢の地は、賊奴の奥区なり」(『続日本紀』延暦8年6月9日条)と報告したように、古代国家による征討に激しく抵抗したエミシ勢力の中心地ともいえる場所でした。結局延暦8年の征夷は、エミシ勢力のリーダーであったアテルイらの巧みな戦術に翻弄されて惨敗を喫し、紀古佐美は桓武天皇から厳しく叱責されます。 この敗戦を機に朝廷は懐柔策も交えたエミシ社会の分断化という政策転換を行ったようであり、その後延暦11年(792)正月には「胆沢公阿奴志己」という人物が国家への帰服を請願するなどの記録(『類聚国史』延暦11年正月11日条)も見られます。 さらに延暦16年以降には坂上田村麻呂による征討が行われ、その結果アテルイらが投降し、エミシ勢力の中心地であった胆沢には、国家の支配の拠点となる胆沢城も築かれました。遠胆沢公母志は「遠胆沢」という姓を持つことから、この胆沢よりさらに北方の奥地に居住していた有力なエミシの族長であることは間違いなく、田村麻呂の征討以降に出雲国に移配されたと考えられます。 ところでこの史料は遠胆沢公母志が「出雲の叛俘(叛乱を起こした俘囚)」を討ったことに対する論功行賞記事であり、彼はその功績により「外従五位下」という位を授けられています。ここからは反乱そのものの経緯を知ることはできず、発生した時期についても定かではありませんが、論功行賞が弘仁5年3月に行われていることからすれば、俘囚の乱は弘仁4年の暮れから弘仁5年の初めにかけて起きたと推測することができます。 『類聚国史』弘仁5年2月15日条   出雲国の俘囚吉弥侯部高来、吉弥侯部年子に各稲三百束を賜う。荒橿の乱に遇いて妻孥を害さるるを以てなり。 次に紹介する史料は、最初の史料から5日後の日付があるものです。「俘囚」の吉弥侯部高来と吉弥侯部年子が「妻孥(妻子)」を殺害されたという理由で稲三百束を下賜されており、こちらは反乱による被害者への救済または慰問という性格を持つ史料です。「吉弥侯部」は俘囚の姓として最も多く見られます。注目したいのは「荒橿の乱」(俘囚の反乱)によって、同じ俘囚身分の人々が被害を受けているという点であり、ここからは反乱時に移配された俘囚の間でも何らかの対立関係があったことが窺われます。 『類聚国史』弘仁5年5月18日条   出雲国の意宇、出雲、神門三郡の未納稲十六万束を免除す。俘囚の乱有るに縁るなり。 『日本後紀』弘仁5年11月9日条   出雲国の田租を免ず。賊乱有り及び蕃客に供するに縁るなり。 3・4点目の史料は反乱による被害地域に対する租税免除措置です。まず3点目の史料では意宇、出雲、神門三郡の「未納の稲十六万束」、すなわち本来であれば税として納入すべき十六束の稲が免除されており、ここからは反乱の規模がある程度推測できます。 税(未納の稲)を免除された意宇郡、出雲郡、神門郡は、特に反乱の被害が大きかった地域であると考えられますが、いずれも山陰道が通る地域であることから、俘囚の反乱は山陰道に沿って広がっていった可能性も指摘できます。あるいはこの3郡に移配俘囚が分散して居住していたのかも知れません。 4点目の史料は出雲国全体の田租を免除するというものです。免除の理由である「賊乱」とは言うまでもなく俘囚の反乱のことですが、それとともに蕃客(同年に来朝した渤海使)への対応があげられている点が興味深いです。 最後にこの反乱の痕跡と思われる事例を紹介します。出雲郡家の正倉とされる後谷Ⅴ遺跡(出雲市斐川町大字出西)は、発掘調査により2度にわたり火災で焼失していることが確認されましたが、このうち2度目の奈良時代後期~平安時代前期の火災は俘囚の反乱によるものと考えられています。また意宇郡山代郷正倉(松江市大庭町)でも、俘囚の反乱により正倉が火災に遭った可能性が指摘されており、いずれも3点目の史料と符合するものといえます。 →2月15日(水)に続きます

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第5回

    委員 武廣亮平 前回(第4回)は、弘仁5年(814)における出雲国の移配エミシ(俘囚)の反乱関連記事について紹介しました。ただそこで少なくとも2つの問題点があることに気付きます。 1つは出雲国におけるエミシの反乱は、当国のエミシが生活面において様々な優遇措置を受けているという事実(第3回)と矛盾するようにみえることです。出雲国で移配エミシに対する国司(石川清主)の優遇策が問題となったのは延暦19年(800)であり、一方エミシの反乱が起きたのは弘仁4年(813)と思われます。それはこの10数年の間に移配されたエミシの人々に対する政策が変わったことと関連するようです。 弘仁年間になると全国に移配されたエミシに対して一般の公民と同じように租税を賦課しようとする政策が出されており、たとえば弘仁2年(811)には諸国に「俘囚計帳」の進上が命じられています(『日本後紀』同年3月11日条)。計帳は調・庸などの租税賦課の基本台帳ですから、俘囚にも租税が課されるようになったことになります。これは移配されたエミシに対する優遇措置から、一般の公民と同じく租税の賦課という方針転換が行われたことを示すものです。 坂上田村麻呂の征夷を契機として行われたエミシの大量移配は、それまでエミシの人々に直接接する地域である陸奥・出羽国が負担していた懐柔政策の財源の確保や、エミシ集団の実効支配といった課題を、そのまま移配された国々に持ち込むことになりました。 延暦年間の移配はエミシの勢力分断とともに、陸奥・出羽国の財政負担の軽減という側面があることも確かであり、その分の財政負担はエミシが移配された国々に新たに課せられることになります。しかし移配された国々も「移配エミシの懐柔」に必要な新たな財源を確保するのは困難だったと推測されます。石川清主の過剰な優遇策が問題視されたのも、このような地方財政の抱える厳しい現状があったのでしょう。 出雲国をはじめ、全国に移配されたエミシの生活が最初は優遇されているのは、あくまでも生活形態の違いなどを考慮した一時的な措置であり、政府は最終的に一般公民と同じような税の賦課を求めたと思われます。「俘囚計帳」の進上はそれを象徴していると言えます。しかしエミシは東北地方の北部に住んでいた人々ですから、その生業も出雲国など西日本とは異なっていたことは容易に想像できます。エミシの中には、狩猟などそれまでの生活形態を維持し続けていた者も少なからず存在していたようであり、10年という歳月を経てもエミシ集団の公民化は容易ではなかったのではないでしょうか。出雲国におけるエミシの反乱にはこのような背景があったと考えられます。 もう1つの問題は、出雲国のエミシ(俘囚)の反乱を討ったのが、同じエミシである遠膽澤公母志という人物であるという点です。これも前回確認しましたが、遠胆沢公母志は延暦年間のエミシ勢力の拠点であった胆沢(岩手県奥州市)よりさらに北方地域における有力なエミシの族長と思われます。ではなぜ彼は同じエミシである「俘囚」の反乱を鎮圧したのでしょうか。移配先におけるエミシ集団の秩序の維持といった観点から探ってみたいと思います。関連するのが次の史料です(漢文の原文を現代語訳しました)。 『日本後紀』弘仁3年(812)6月2日条 (嵯峨天皇が)勅して言うには、諸国の夷俘らは朝廷の法制を守らず、法を犯すものが多い。野性は教化するのが困難であり、教喩の効果は未だにあらわれていない。そこで同類(同じエミシ)の中のうち能力があり、皆から推服される人物一人を選び、その長として捉搦(取り締まり)をさせるように。 この史料は、内国に移配されたエミシ集団の公民化が困難な状況をよく示していると言えます。「野性」(野蛮な性格)という表現は、エミシに対する差別的な認識もありますが、彼らの生活スタイルが一般的な公民と異なるものであることを表しているのでしょう。 また注目されるのは、移配されたエミシ集団の中から、能力があり、エミシの人々から「推服」(尊敬され慕われる)される人物1人を「長」(リーダー)として選出し、「捉搦」(取り締まり)をさせるという新たな政策です。 いわばこれはエミシ集団自身による秩序の安定を目的としたものであり、遠膽澤公母志は出雲国内においてまさにこの「長」(便宜的に「夷俘長」と呼ばれています)という役割を担っていたのではないでしょうか。彼は出雲国に移配されたエミシ集団の秩序と治安を維持することを、政府や出雲国司などからある程度期待されていたのであり、自らの移配地で発生したエミシ(俘囚)の反乱を討伐するという行為は、遠膽澤公母志のそのような立場を明確に示していると考えられます。 このような移配地におけるエミシの長(夷俘長)が任命されたことを具体的に確認できるのは、近江国で尓散南公澤成という人物を「夷長と為す」(『日本文徳天皇実録』天安2年(858)5月19日条)という例が唯一のものですが、多くのエミシが移配された国々では、出雲国の遠膽澤公母志のように有力な族長クラスの人物が、エミシ集団を統括していたのでしょう。また夷俘長とその管理下にあったエミシ集団の関係についても、それぞれ異なる地域から移配されてきた可能性もあり、だとすれば自らの移配先で起きたエミシの反乱に対し、夷俘長が強硬な態度で臨んだとしても不思議ではありません。 なお『日本三代実録』元慶4年(880)11月3日条には、近江国俘囚として「遠胆沢公秋雄」という人物が見られます。出雲国の遠膽澤公母志との関係はわかりませんが、もしかしたら弘仁年間以降に出雲国から移住した集団かも知れません。近江国は有力なエミシの族長が多く居住していることも関連史料から知られており、遠膽澤公母志の「功績」により、その一族が近江国に移住(または再移配)した可能性もあります。 →3月15日(水)に続きます

  • 私の出雲古代史研究 第1回

    代表委員 菊地照夫 このたび、委員がコラム形式のブログ連載するという企画がはじまることになり、その先陣を任されることとなった。何を書けばいいのか、あれこれと考えてみたが、とりあえず「#私の出雲古代史研究」というテーマで、自分がどのようなスタンスで出雲古代史の研究と向き合い、何を研究し、何を明らかにしたのかを、何回かに分けて述べて責めを負うこととしたい。 私は1959年(昭和34年)9月生まれで、翌年2月生まれの現天皇(徳仁親王)とは学年が同期となる。幼いころから同年齢の「徳(なる)ちゃん」なる人物が、テレビ等マスコミで特別扱いされていることが気になり、また小学校2年生の時には前天皇(当時は皇太子、明仁親王)を直接見る機会もあり、かなり早い時期から天皇・天皇制って何だろうという問題関心が芽生えていた。1978年4月に国学院大学文学部史学科に入学したが、史学科に進学したのは、日本の歴史を学んで天皇制の起源を知りたいと思ったからである。 当時の国学院史学科の古代史には、林陸朗教授、鈴木靖民助教授、さらに東大を退官されたあと国学院に移られた学界の重鎮、坂本太郎教授もおられ、日本古代史を学ぶには最高の環境であった。これに加えて考古学には、樋口清之教授、乙益重隆教授、小林達雄助教授がいらしたのである。なんと贅沢な学問の場であったことか。 ところが入学したばかりの私は、このような素晴らしい史学科の先生には全く関心がなかった。入学して真っ先に訪れたのは文学科の尾畑喜一郎教授で、古事記講読の授業に出させていただいた。とにかく天皇制の起源を知るために古事記が読みたかったのである。 この授業では古事記を丁寧に読み、日本書紀と比較し、解釈をめぐる近年までの研究が詳細に紹介され、最後に先生が自説を述べるという要領で展開されたが、この授業で記紀の概要や読み方、解釈や研究上の基本的な論点を学ぶことができた。 『出雲古代史研究』の最新号(第31号)で私は、スサノオは本来出雲の神ではなく紀伊を原郷とする神であるとする松前健氏の説を踏まえてスサノオ神話の形成過程を考察したが(「スサノオ神話の形成に関する一考察」)、この松前説を最初に学んだのは尾畑先生の授業だった。 ただ尾畑先生は松前説を批判して、スサノオの原郷を筑紫の宗像とする独自の説を提示されていたが、私は松前説が妥当と考えている。それにしても一般的にはスサノオは出雲を原郷とする神と考えられており、研究者の間でもその見方は当時も今も根強いが、私の場合、古事記を本格的に勉強した最初の段階から、記紀の出雲神話に登場する神が、必ずしも出雲在来の神ではないというとらえ方を学んでいたのである。 ほかにも中村啓信教授と非常勤で出講されていた三谷栄一先生の記紀の授業を受けた。中村先生からは古事記の一語一語を実に丁寧に綿密に解釈する緻密な読みを学び、三谷先生からは民俗事例を踏まえた記紀の解釈の手法を学んだ。 「記紀神話において出雲が地上世界である葦原中国の中心に位置づけられているのはなぜか」という問題は、日本古代史研究の中の大きなテーマの一つだが、かつては、出雲にヤマト王権と対峙する強大な政治的または宗教的勢力が存在したというのが通説的な理解であり、オオクニヌシの国譲りは王権による出雲制圧と出雲側の服属の史実の反映と考えられていた。 そのような中で、三谷栄一先生は、出雲が特殊な地域として位置づけられるのは、出雲が大和から見て「戌亥(西北)の隅」の方角にあたることに起因するという独自の説を提示していた。先生は古典や民俗から戌亥の方角に祖霊の世界があるという観念の事例を多く指摘し、記紀神話における出雲の位置づけをその世界観に基づいて理解しようとしたのである。 この「戌亥の隅」信仰説そのものについては、私は十分に納得できなかったが、しかし記紀神話の出雲の位置づけの特殊性を、史実の反映としてではなく、王権側からみた世界観の問題ととらえる視点を学んだ。のちに私が、この出雲の特殊性を、王権の宗教的世界観の問題として考えるようになるきっかけは、三谷先生の教えにあったということができる。 国学院入学直後にお世話になった先生がもう一人いる。民俗学の坪井洋文教授である。高校時代、角川文庫で柳田国男の『桃太郎の誕生』『遠野物語』『日本の祭』などを読んで、民俗学にも興味をもつようになったが、高校の日本史の先生が和歌森太郎門下の民俗学者(河上一雄先生)であったことから、私は民俗学が歴史学の一分野と信じて疑わなかった。 そこで柳田がかつて国学院の教授であったことにも魅かれて、国学院の史学科を志望したのだが、入学してみると、国学院では民俗学は史学科でなく、文学科で開講されていたのには驚いた。しかしそんなことはどうでもよく、講義要項を見て、坪井先生の授業に潜り込んだのである。 坪井先生からは、稲作農耕民の信仰の特質、とりわけ稲霊に対する信仰について多く学んだ。私の研究の一番のオリジナルは、記紀、風土記等にみえる神話・伝承や新嘗祭、祈年祭等の祭祀を分析する手法として、「稲霊信仰」という概念を提示してモチーフの構造分析をおこなう点にあると自認しているが、私の「稲霊信仰」論の基本的な考え方は坪井先生から学んだものである(なお構造分析の手法は、大学4年でお世話になる小松和彦先生から学んだ)。 このように、大学入学後、1・2年生の頃は、史学科の勉強はそっちのけで、文学科の古事記・日本書紀や民俗学の授業を熱心に聴講していたのだが、今、あらためて振り返ってみると、この時学んだことや出会いが、自身の学問形成に大きな影響を及ぼしていたんだなあと、これを書きながら実感した次第である。 →11月1日(月)につづきます

  • 私の出雲古代史研究 第2回

    代表委員 菊地照夫 1978年に国学院大学の史学科に入学したものの、1・2年次には文学科の先生のところにばかりに足を向けて、史学科の先生とはほとんど交流がなかったことを前回述べた。しかし3年次になったばかりの4月、史学科同期の友人から古代史の鈴木靖民助教授の勉強会に誘われて、参加することになった。『岩波講座日本歴史』古代2の論文を参加者で分担してレポートする勉強会だったが、ここで私は岡田精司「記紀神話の成立」を担当することとなり、岡田先生の研究と出会う。 先生の著書『古代王権の祭祀と神話』も購入して併せて熟読し、古代王権の発展や律令国家の形成のプロセスを記紀・風土記等の神話伝承や王権祭祀を手掛かりに解明していく岡田先生の研究手法のおもしろさに魅かれて、卒業論文は岡田先生の研究をベースにしてテーマを探っていこうと心に決めた。 この時担当した「記紀神話の成立」は、古事記・日本書紀の神話の性格や形成過程を歴史学の立場から考察する上での最重要文献で、出雲神話についても貴重な指摘が多くなされている。伴造の奉仕伝承に由来する高天原神話に対し、出雲神話は地方神話の集合体であり、地方豪族が王権の新嘗に際して奏上した古詞(フルゴト)に由来するといい、スサノオのヤマタノオロチ退治は国造制段階、オオナムチの国譲りは国造制が否定された段階を反映するという指摘もある。 また国譲り神話について、オオナムチ服属の神話と邪神討伐の神話は本来別の神話であるという指摘も重要である。この論文が、私の歴史学的な立場からの記紀神話研究、とりわけ出雲神話の研究の原点となった。 岡田論文をレポートした翌月の1980年8月、私は初めて出雲を訪れた。門脇禎二『出雲の古代史』、東森市良・池田満雄『出雲の国』で予習し、『出雲国風土記』を拾い読みして、観光用のガイドブックを手掛かりに、初めての出雲を、案内人もなく、一人で手探りで歩き回った。 一日目は東京から寝台特急『出雲』で松江に到着し、駅前でレンタサイクルを借りて、まず風土記の丘資料館に向かい、国庁跡、神魂神社などを回ったあと、意を決して熊野大社まで足を延ばしたのは無謀だった。 しかも天気は雨。今でも車で熊野大社に向かう道すがら、この時のことを思い出すことがある。二日目もレンタサイクル。佐太神社から恵曇に出て、加賀の潜戸へ。島根半島東部の西半をぐるっと回る。三日目もレンタサイクル。またも雨。忌部神社、須賀神社、玉湯神社、玉作史跡公園。松江駅で自転車を返して、出雲市へ向かう。四日目は出雲大社を参拝し、日御碕神社へ。出雲市に戻って築山古墳、地蔵山古墳を見学する。五日目も雨。バスで須佐神社へ。途中からすごく長い距離を歩いた記憶がある。 このように私の出雲デビューは、天気に恵まれず、効率も悪く、ただ現地に行きましたというだけの旅行で、この時は古代史研究のフィールドとしての出雲の魅力を実感することはなかった。その魅力を知るのはこの10年後のこととなる。 鈴木先生の勉強会に参加していた同期のKさんの高校時代の日本史の先生が、鈴木先生と親しい古代史の研究者で、研究会でもその先生のことがしばしば話題になっていた。その方こそ関和彦さんである。たまたま鈴木先生の勧めで歴史学研究会の古代史部会に顔を出すことになり、行ってみるとそこに関さんがいた。初対面のときにはKさんと同期であることくらいしか話しをしなかったと思うが、この関さんと10年後の1990年に出雲古代史研究会を創設することとなる。この創立大会のために出雲を訪れた時に、関さんに直接出雲を案内していただいて、初めて風土記の世界が実感できる古代史研究のフィールドとしての出雲の魅力を認識したのである。 4年次、いよいよ卒業論文に取り組むこととなり、『大和王権と祭祀担当氏族』というテーマを設定して、王権祭祀を分掌する中臣氏と忌部氏の考察をおこなった。中臣氏と忌部氏の担当する祭祀の性格を検討し、どちらかといえば中臣氏にウエイトを置いた内容だったが、忌部氏についても史料や文献を読みこんだ。私の忌部氏と玉作と出雲の関係についての問題関心は、この卒論が出発点となっている。主査は鈴木先生だったが、卒論ゼミは林陸朗先生と鈴木先生が合同で行っており、両先生からの指導を受けた。 4年次の1981年度の当初、講義要項を見ると、民俗学の坪井洋文先生の肩書が教授でなく、兼任講師となっていたのに驚いて、鈴木先生にうかがったところ、坪井先生は千葉県佐倉市に新設される国立歴史民俗博物館に転出されたとのこと。非常勤での出講はあったが、国学院を去られたのはショックだった。 坪井先生の代わりということではなかったが、4年次に非常勤で出講していた、当時信州大学助教授の小松和彦先生の授業をとった。ちょうど小松先生の「日本神話における占有儀礼」という論文を読んでいたところで、卒論にも関わり質問したいことがあったので、最初の授業のあと、先生のところにうかがった。すると先生から、もう一人来るのでちょっと待ってくれと言われ、しばらくすると現れたのは大学院生の福原敏男さんだった。このあと三人でビールを飲みながら話しをし、この3人の飲み会は小松先生の授業の後の定例となってしまった。 その後、小松先生の提案で、ただ3人で飲んでいるだけではもったいないから、テキストを決めて勉強会をしようということになり、福原さんが大学院生や民俗学のサークルに声をかけて参加者を募り、後期からは10名ほどのメンバーで柳田国男『民間伝承論』とリーンハート『社会人類学』を分担して併読するゼミとなった。 小松先生は先の論文「日本神話における占有儀礼」で、国土占有儀礼と杖立ての問題を考察していたが、このゼミでも杖の呪術的性格が議論されたことがあった。1990年の出雲古代史研究会の第1回大会で、私は「国引き神話と杖」というテーマで報告をおこなったが、この時の報告内容の大半は小松ゼミの成果である。 以上のように大学生活後半の3・4年次では、鈴木先生の下で日本古代史を本格的に勉強するようになり、岡田先生の研究と出会って、自身の研究の方向性を見出して卒論に取り組み、小松先生のゼミで民俗学の方法論も学んだ。出雲との出会い、関さんとの出会いもこの時期だったが、私と関さんと出雲の関係が全面展開するのは、それから10年後のことだった。 →12月1日(水)につづきます

  • 私の出雲古代史研究 第3回

    代表委員 菊地照夫 大学卒業後の進路については、当初から高校の日本史の教員になりたいと思っていた。古代史の研究にも関心はあったが、高校時代の日本史の先生が教員をしながら研究者としても活躍されていた方で、そういう教員になりたいと考えて東京都の教員採用試験を受けたところ、幸いにも合格し、都立神津高校に採用された。 神津高校は、伊豆諸島の中ほどに位置する神津島の学校で、民俗学を勉強してきた自分にとっては格好の勤務先であった。1982年4月に赴任し、島の歴史や民俗、文化財を調査していきたいという意欲を示したところ、村の教育委員会から文化財専門委員をやらないかという声がかかり、快諾した。委員の中に神津島の歴史・文化の研究の第一人者である山下彦一郎先生がおり、ここで山下先生と面識を得て、神津島の民俗文化について多くの教えを賜った。 教育委員会の事務局にいた梅田武敏さんも郷土史家として活動していたが、神津島で一番お世話になったのは梅田さんだった。梅田さんから島の古老や多くの方をご紹介いただき、聞き取り調査をおこなうことができた。梅田さんの畑を借りて、初めて農業を体験したことも貴重な経験だった。在島中は磯釣りにも明け暮れていたので、島での生活はまさに半農半漁だった。 神津島には、物忌奈命神社と阿波命神社という二つの式内社(延喜式神名帳所載の神社)があった。伊豆諸島には多くの式内社が鎮座しており、それらの祭神は、いずれも後に伊豆国一之宮となる三嶋神社の祭神コトシロヌシの妻子の神々で、神津島の阿波命はコトシロヌシの正后、物忌奈命はその子とされており、ともに名神大社という格式の高い神社であった。ちなみに伊豆諸島の神社で名神大社はこの両社だけである。 このような伊豆諸島の神社のあり方は、火山の噴火活動と関連しており、特に神津島では平安時代初期の承和年間(838年ころ)に大噴火があったことが続日本後紀に詳細に記述されている。神津島の両社の厚遇は、この時の朝廷側の対応に基づくものであろう。 民俗学だけでなく、日本古代史研究の立場からも神津島を研究したいと思っていたので、このテーマは古代国家による伊豆諸島の支配の問題、天変地異と祭祀の問題として取り組むべき課題であった。神社のあり方から、三嶋神社を拠点として島々の神を祭る体制であったことは理解できるが、同社の祭神がコトシロヌシとされるのはなぜかという点が在島中から疑問で、未だに解決していない。 伊豆諸島は伊豆国の賀茂郡に属するが、郡名は大和盆地西南部の葛城の鴨(賀茂)の地に由来し、この地の神こそコトシロヌシであった。コトシロヌシは記紀ではオオナムチの子とされて出雲神話に組み込まれるが、オオナムチは国作りの神として活躍することから、奈良時代以降、噴火などで海中に島が出現するとオオナムチがしばしば官社として祀られている。伊豆諸島の場合も、そのようなオオナムチとの関りで理解していいのかが先ず問われるが、コトシロヌシは国譲りの神であり、国作りには関係しないので、その解釈は無理だろう。とすると記紀神話に組み込まれていない葛城の賀茂のコトシロヌシ本来の属性との関係が問題となるが、この点をめぐっては、伊豆国だけでなく全国各地にみられるカモ地名の歴史的な背景とも関り、一筋縄ではいきそうもない。葛城出身の役小角が伊豆の島に流されたとされることとの関係も考えられるが、よくわからない。今後取り組んでいきたい。 神津島赴任一年目の秋(1982年11月)、京都の立命館大学で開催された日本史研究会の大会に参加した。書籍売り場の塙書房のコーナーで本を見ていたところ、隣の方が書店の人と話をしており、話しの内容から、どうも岡田精司先生ではないかと思われた。勇気を出して声をかけようとしたところに、偶然関和彦さんが現れ、その方に挨拶するとともに、私を紹介してくれた。まさに岡田先生だった。 その後三人で喫茶店に行って話しをし、さらに近くにあった平野神社を訪れて、先生の案内で見学し、そこで関さんと別れた後は先生と京都駅まで同行した。古代史の勉強を始めて以来、学問の師と仰いでいた岡田先生と、いきなりこんなに親しく交流することができたのは、関さんのおかげ以外のなにものでもない。 それから5か月後の1983年4月、姉の結婚式が京都であり、式の前日の土曜日、京都国立博物館で開催されていた特別展を見学していたところ、会場で偶然、神祇祭祀の研究者の西宮秀紀さんに会った。この時西宮さんから、ちょうど今、岡田先生が主宰している祭祀史料研究会の例会が行われていると教えていただき、それならばと会場に行ってみた。すでに会ははじまっており、レジュメを受け取って席に着いたが、岡田先生は初対面以来の再会にもかかわらず、すぐに私を認識していただき、うれしかった。 この時の報告は忌部氏の祭祀がテーマで、私も卒論で忌部氏を扱ったことから、基本的な史料や文献には目を通していたので、議論に参加することができた。その場にはなんと松前健先生もいらした。大学時代から松前先生の本は、常に座右に置いていたので、直接お目にかかれたのは夢のようだった。また和田萃先生もおられ、神々の世界を訪れたような気分だった。内田順子さん、土橋誠さんと初めて会ったのもこの時で、お二人とは今にいたるまで交流が続いている。 報告やその後の討論の中で、当時発掘調査中の奈良県橿原市の曽我遺跡のことが取り上げられていた。曽我遺跡は大規模な玉作遺跡で、ヤマト王権の玉作工房とみられ、近くに忌部氏の祖神フトダマの命を祭る天太玉命神社も鎮座することから、ここでの玉作には忌部氏の関与が想定されたのである。岡田先生から、もし時間に余裕があったら是非とも見学するようにと勧められたので、結婚式の翌日に行くことを決心すると、和田先生から「現場に行ったら関川尚功さんを訪ねるように」といわれた。 2日後、大和八木駅からタクシーで曽我遺跡の現場に行ってみた。あいにく関川さんは不在で別の方が案内してくれたが、実は発掘現場の見学は初めてで、曽我遺跡の歴史的な価値の問題よりも、考古学の調査現場を直に見ることができたことの感動が勝っていた。この地に列島各地の玉材と玉作工人が集められて、王権膝下で大規模な玉生産が行われたこと、そこには出雲からも碧玉・瑪瑙とともに工人も出向していたことはなどの説明は、たぶん聞いたはずだと思うが、恥ずかしくも申し訳なくも、その場では知識にも記憶にも定着しておらず、まさかこの遺跡が、私の出雲古代史研究の中核的な位置を占めることになろうとは、当然のことながら、この時には思いもよらなかった。私が曽我遺跡と出雲との関係を論じたのは、1998年の「ヤマト王権の宗教的世界観と出雲」(『出雲古代史研究』7.8合併号)においてであり、この15年後のことであった。 →2022年1月1日(土)に続きます

  • 私の出雲古代史研究 第4回

    代表委員 菊地照夫 大学卒業後、東京都立高校の教員となり、初任の地伊豆諸島の神津島で3年間過ごした後、1985年4月、練馬区の都立石神井高校に異動した。 当時の都立高校には週一日出勤しなくてよい研修日があり、その日は母校の国学院大学で坪井洋文先生や三谷栄一先生の授業を聴講させていただいた。歴史学研究会の古代史部会にも毎回参加できるようになり、国学院で林陸朗先生と鈴木靖民先生が毎月開催している正倉院文書研究会にも参加させていただき、島にいる時とはちがって、勉強の機会は格段に増えた。 1985年の秋に千葉歴史学会の古代史部会が発足し、千葉大学の吉村武彦さんの研究室で月例会が行われることになり、参加させていただくことになった。主なメンバーは吉村さんのほか、伊藤循さん、鈴木英夫さん、丸山理さん、吉井哲さん、加藤公明さんなどであった。例会では類聚三代格の巻19禁制を輪番で読み解釈していくのだが、これが面白く、平日の夜に、勤務先の西武新宿線武蔵関から総武線西千葉の千葉大学まで2時間近くかけて移動するのも全く苦にならず、毎月の研究会を楽しみにして参加した。 この長い移動時間の、特に帰りは貴重な時間だった。研究会のあと西千葉駅周辺で飲んで、それから都心に帰るのだが、帰路は西千葉から御茶ノ水まで、吉村さんと一緒だったのである。当時吉村さんは国家形成期の諸問題に取り組み、記紀の伝承や祭祀にも関心をもっており、電車の中での会話から多くのことを学ぶことができた。 ある時、電車の中で吉村さんにちょっとした質問をしたところ、「君も研究者なんだから、そんなことは自分で考えなさい」と言われたことがあった。この一言は衝撃的だった。それまで自分が研究者などと考えたことは、一度もなかったのである。自分が研究をしているという自覚もなく、勉強をしているのだという意識であった。この一言で、そのような無自覚な姿勢は甘えであることを思い知らされる一方、自分が研究者として見られている、扱われていることを初めて認識した。 1986年4月、法政大学院の人文科学研究科日本史学専攻修士課程に入学することとなった。法政大学の日本史専攻の大学院は夜間に開講されており、社会人でも通学することが可能だった。大学時代の指導教員である鈴木靖民先生が法政大学院に出講しており、先生から入学を強く勧められて受験したところ、幸いにも合格し、高校教員と大学院生の二重生活が始まった。 当時、法政大学文学部史学科には文献古代史の専任教員はおらず、考古学専攻の古墳時代を専門とする伊藤玄三教授が文献古代史の院生も指導することになっており、私は伊藤ゼミ(考古学研究室)の所属となった。しかし古代史の直接的な指導は鈴木先生から受け、一年目には、やはり非常勤で出講していた笹山晴生先生にもお世話になった。 大学院入学当初に掲げた研究テーマは「古代王権と新嘗」であった。卒論以来、岡田精司先生の学問を追究して勉強を積み重ねていたが、その中で自分なりに先生の学問を発展的に、あるいは批判的に継承できるのではないかと思える論点がいくつかあった。それに取り組んでみようと考えたのである。 そのひとつが天孫降臨神話と王権の新嘗との関係である。戦前の折口信夫の「大嘗祭の本義」以来、天皇位就任儀礼の中心は大嘗祭であり、天孫降臨神話は大嘗祭の祭儀神話と理解されてきた。しかし岡田先生は、天皇の就任儀礼の中心はレガリア(後の三種の神器)が奉献される即位儀にあり、その祭儀神話が天孫降臨神話であるという見解を提示していた。これに対して私は、天孫降臨の本来の指令神であるタカミムスヒを王権新嘗の神ととらえ、天孫降臨神話の原形は令制前代のヤマト王権の新嘗の祭儀神話ではないかと考えていた。 もうひとつ、岡田先生のヤマト王権の新嘗についての理解に大きな疑問があった。律令国家の天皇がおこなうニイナメ(新嘗)の儀礼は、即位後最初におこなう大嘗祭とその後毎年おこなう新嘗祭の二つに区別されており、大嘗祭では畿外の悠紀国・主基国に斎田が卜定されてその稲を用いて神事が行われたが、毎年の新嘗祭では畿内の官田(屯田)の稲が用いられていた。それでは令制以前のヤマト王権の新嘗はどのようにおこなわれていたかというと、これについては岡田先生のニイナメ・ヲスクニ儀礼論という有名な学説があった。先生は、ヤマト王権の新嘗儀は、国造の子女である采女が当地の稲で調理した飯・酒を献上し、聖婚をおこなう服属儀礼として行われたとし、これをニイナメ・ヲスクニ儀礼と称した。そしてそれが律令国家の大嘗祭に継承されるという。 私は、このような岡田先生のヤマト王権の新嘗儀の理解について疑問に思っており、令制前代の新嘗を継承しているのは大嘗祭ではなく、むしろ毎年の新嘗祭ではないかという見通しをもっていた。以上のような岡田先生の古代王権の新嘗をめぐる見解と対峙して、自分なりの見解を打ち出してみようというのが、大学院入学時に掲げた研究テーマだった。 千葉歴史学会の古代史部会7月例会のあと、伊藤循さんから学会誌『千葉史学』に論文を投稿しないかというお話しをいただいた。ちょうどこれから夏休みに入るところだったので、夏休みの宿題のつもりで受諾した。 これまで歴史学の論文は書いたことがなく、どのようなプロセスで論文を作成していくかということもよくわからなかったが、とりあえず史料に即して思考を展開し、それを論理的に整理していった。論文のタイトルは「顕宗三年紀二月条・四月条に関する一考察―大和王権の新嘗と屯田―」で、日本書紀の顕宗紀の記事を手がかりに令制前代のヤマト王権の新嘗のあり方を解明しようとするものだった。同記事は、託宣によって「歌荒樔田(うたのあらすだ)」を月神に、「磐余田(いわれのた)」をタカミムスヒに献上したという内容だが、ここにみえる「歌荒樔田」と「磐余田」は王権の直轄領である屯田であること、この記事は王権の新嘗用の稲を栽培する斎田として「歌荒樔田」と「磐余田」が卜定されたことを示す祭儀伝承であること、令制前代のヤマト王権の新嘗は畿内の屯田から斎田を卜定して行われており、それが令制の毎年の新嘗祭に継承されることを論じた。要するにこの論文は岡田先生のニイナメ・ヲスクニ儀礼論への批判でもあった。しかし駆け出しの実績のない身としては、論文の中でそれを正面に据えて主張することはできなかった。 9月上旬に書き上げると、すぐに岡田先生に電話をして、論文を書いたのでご指導をお願いしたいと伝えた。するとすぐに送るようにといわれ、コピーを速達で送った。先生がどのように評価してくれるか不安だったが、数日後先生から電話があり、その第一声は「力作ですね!」というおほめの言葉だったのはうれしかった。電話でいくつかの修正の指示を受け、後日赤入れした原稿が送り返されてきて、それを反映させてより質の高い論文に仕上げることができた。電話の中で、勇気を出してニイナメ・ヲスクニ儀礼論のことにもふれてみたが、先生は「修正しなければいけませんね」と一言おっしゃっただけだった。 こうして初めての論文が完成し、その年(1986年)の12月発行の『千葉史学』第9号に掲載された。本来修士論文となるはずのテーマだったものが、いきがかり上、修士課程の一年目で論文になってしまった。 なおこの論文で、ヤマト王権の屯田として最重要視されていたのが、日本書紀の仁徳即位前紀にみえる「倭屯田」であり、顕宗紀にみえる「磐余田」も倭屯田の一部であることを指摘した。この倭屯田を管掌する屯田司が出雲国造の祖である淤宇宿禰(おうのすくね)であることは、ヤマト王権と出雲との関係を解明する重要なてがかりとなるのだが、そのことに気づくのは、ずっと後のこととなる。 →2月1日(火)に続きます

  • 私の出雲古代史研究 第5回

    代表委員 菊地照夫 1986年4月、大学時代の恩師である鈴木靖民先生が非常勤で出講している法政大学院に進学したが、翌年度、鈴木先生は中国の吉林大学に一年間留学することとなったため、大学院の日本古代史は国立歴史民俗博物館教授(歴史研究部長)の虎尾俊哉先生が担当することになった。 虎尾先生といえば、班田収授法、延喜式の研究の第一人者で、当時の私の目からは古代史学界の権威的存在で、天上界の大先生という印象であり、指導教授の伊藤玄三先生から虎尾先生が来られると聞かされときには、どんな厳しい指導が待ち受けているかと緊張するとともに、自分の未熟さに呆れられてしまうのではないかと不安になった。 そんな気持ちをいだきつつ、1987年4月、最初のゼミの日を迎えたが、予想通り虎尾先生は厳しかった。延喜式の演習だったが、巻22民部式上を一人が2条ずつ担当し、読み下して、意味を取って解釈し、令との関係や、その式の成立について(弘仁式段階か、貞観式段階か、延喜式で規定されたものか)考察する報告が課せられた。特に史料の読みについては厳格で、助詞の使い方、自動詞・他動詞の別、口語的な言い回しを避けることなど、とにかく厳しい指導を受けた。 先生は時間にも厳格だった。18時30分の始業時ピッタリにゼミを開始し、20時の終業時ピッタリに終わり、すぐにお帰りになる。雑談等余計な話は一切なさらず、ゼミ開始当初しばらくの間は、世間話的な会話もほとんどしたことがなかった。 何回目かのゼミのあと、お帰りになる先生を追いかけて、前年『千葉史学』9号に書いた拙稿「顕宗三年紀二月条・四月条に関する一考察―大和王権の新嘗と屯田―」の抜刷を進呈したところ、先生は驚いた顔をして受け取ってくださった。驚いた理由は掲載誌が『千葉史学』だったからである。同誌を発行する千葉歴史学会は千葉大学に史学科が新設され、千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館がオープンしたことを機に、千葉を新たな歴史学研究の拠点にしようという趣旨で設立された学会で、歴博教授である先生も、同誌に文章を書いたことがあり、縁のある雑誌だったのだ。なぜここに書いたかを問われ、千葉歴史学会の古代史部会に参加している旨を説明して、納得していただいた。 次のゼミの時、前回抜刷を差し上げたことなどすっかり忘れていたのだが、ゼミが終わって先生が立ち上がり、帰りかけた時、立ち止まってこちらを向き、「先週いただいた論文、読ませてもらったけど、面白かった。延喜式の引用もよろしい」というお言葉をいただいた。拙稿では、延喜式の巻30宮内式の官田に関する式を引用して律令制の新嘗祭のありかたに論及していたが、延喜式研究の第一人者からこの点を評価していただけたのはうれしかった。虎尾先生は後に延喜式全巻の訳注に取り組み、私もこのお仕事を手伝うことになるが、私が巻30宮内式の訳注を担当することになったのは、この引用が契機だったのかもしれない。 前期最後のゼミのあと、勇気を出して先生に前期の打ち上げで飲みに行きませんかと誘ってみたところ、意外にも先生は快諾してくれた。そこで先生を飯田橋の居酒屋にお連れして乾杯すると、それまで余談、雑談、世間話もほとんどなかったのがウソのように、先生は饒舌に、いろいろなお話をしてくれた。この飲み会を機に、後期からはすっかり打ち解けて、相変わらず厳しいゼミではあったが、多くの会話が自然に交わされるようになった。 虎尾先生のゼミには、修士課程修了後も参加させていただいた。1993年に先生の法政出講が終わったあと、虎尾ゼミは研究会(法政大学延喜式攷究会)として継続し、その後2010年10月まで、24年にわたって虎尾先生の下で延喜式を研究することになった。 1987年5月、歴史学研究会古代史部会でお世話になっている加藤友康さんから電話があり、第15回古代史サマーセミナーでの報告を依頼され、引き受けた。古代史サマーセミナーは、全国の古代史研究者が合宿して交流を深めるイベントで、毎年8月に、各地を転々として開催されていたが、その年は島根県で開催されることになっていた。出雲神話の舞台の地での開催であったが、私に課せられた報告の内容は、まさに出雲神話についてであった。 8月、大学3年の時に初めて出雲を訪れて以来(第2回参照)、7年ぶりの出雲、しかも全国の古代史研究者の前で研究発表をするという大きなミッションを抱えての訪問となった。会場は、JR松江駅のひとつ先の乃木駅から徒歩ですぐ、宍道湖に面した国道9号沿いの宿舎だった。2泊3日でおこなわれ、1日目の午後に開会して基調的な報告、夜は懇親会、2日目は午前中にシンポジウム、午後は個別報告、3日目は見学会という日程であった。 1日目、基調的な報告を関和彦さん、内田律雄さんなどが行った。夜の懇親会では、乾杯の発声に島根大学名誉教授で考古学の山本清先生が指名された。この時、山本先生は立ち上がると、いきなり「ウオォー!」という大声を発して参列者を驚かせ、「ヤマタノオロチから皆さんへの歓迎のあいさつです」と述べて、懇親会の雰囲気を一気に和ませた。 2日目のシンポジウムが私の出番だった。パネリストは島根大学の渡辺貞幸さん、学習院大学の遠山美都男さんと私の3人で、渡辺さんが出雲地方の古墳の編年について、遠山さんが岡田山1号墳出土鉄剣銘の「額田部」に絡めて出雲の部民制について、私がヤマタノヲロチ神話形成の歴史的背景について報告した。 私の報告は、スサノオによるヤマタノヲロチ退治の神話を分析して、その背景に国造制・屯倉制に基づく在地の新嘗の祭儀を想定するという内容であった。昨年『出雲古代史研究』第31号に発表した「スサノオ神話の形成に関する一考察―出雲降臨神話をめぐって―」は、この時の報告の内容を発展させたものである。 この報告で、古代の出雲を究明するアプローチとして次の三つの視点を提示した。一点目は古代の出雲地域の様相を明らかにすること、二点目はヤマト王権と出雲との関係の実態を明らかにすること、三点目はヤマト王権の神話的世界観の中での出雲観を明らかにすることの三点である。そしてこのシンポでは渡辺報告が一点目、遠山報告が二点目からの視点であり、私の報告は三点目からのアプローチであることを述べた。この三つの視点は相互に関係しあうものではあるが、記紀神話研究における出雲の問題は、王権の神話的世界観とその前提となる宗教的世界観の問題として検討されるべきであるという三点目の視点が私の研究の基本的な姿勢であり、サマーセミナーはそれを表明する場となった。2016年に刊行した私の論文集の『古代王権の宗教的世界観と出雲』という書名は、この第三の視点そのものなのである。 2日目の夜に、立食での交流会があった。ここで島根県の三宅博士さんから声をかけられて話しが弾み、その会話の中で、私が当時漠然とイメージしていたことを、三宅さんに喋りまくってしまった。記紀神話の世界観における出雲の位相は、古い時代の紀伊の位相が移されたという考え方を力説したのだが、三宅さんには、若造の妄想を聞かされて、さぞ迷惑だったろうと申し訳なく思っている。 この妄想は、後に拙稿「ヤマト王権の宗教的世界観と出雲」(『出雲古代史研究』第7・8合併号)、「出雲国忌部神戸をめぐる諸問題」(岡田精司編『国家と祭祀の歴史学』塙書房)で問題提起して、私の出雲古代史研究の中核的な論点となり、この中でヤマト王権の玉作と出雲との関係が重要なテーマとなった。一方三宅さんは、後に松江市立玉作資料館の館長となられ、私は玉作に関する調査で、たびたび三宅さんのお世話になることとなった。セミナーでの出会いの因縁を感じている。 このセミナーの事務局長は、考古学の松本岩雄さんだった。古代史サマーセミナーの事務局長は、通例では文献史学の研究者が引き受けていたが、当時島根県には文献史学の古代史研究者というと高校教員をしておられた野々村安浩さんくらいしかおらず、松本さんが鈴木靖民先生からの依頼を受けて引き受けたという。 松本さんとは、資料集の原稿やレジュメのことなど、事前に何度も電話で連絡を取り合い、大変お世話になった。松本さんのご尽力により、第15回古代史サマーセミナーは大成功であったが、このセミナーはそのあとが素晴らしかった。 松本さんは、報告者に原稿を依頼して、サマーセミナーの記録集『出雲古代史の諸問題』という立派な冊子を刊行したのである。私の報告も「出雲神話の背景―スサノオの出雲降臨神話を中心に―」という題で掲載されている。サマーセミナーでは、それまでも記録集は作成されていたが、これだけ見事な記録集は、私の知る限りでは(セミナーには第9回から参加しているが)見たことがない。 原稿の依頼から、入稿、校正も、恐らく松本さんがほとんどお一人で担当されたのではないかと思われる。当時はまだ活版印刷だったので、校正はさぞご苦労されたことだろう。セミナーが開催された1987年の年内に刊行されており、その迅速さも驚きである。第15回古代史サマーセミナーは、こうしてしっかりと形に残されているのである。 そしてこのサマーセミナーは、もう一つ大きなものを生み出した。それは当会、すなわち出雲古代史研究会である。このことについては回を改めて述べることとしたい。 →3月1日(火)に続きます

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