代表委員 菊地照夫
大学卒業後の進路については、当初から高校の日本史の教員になりたいと思っていた。古代史の研究にも関心はあったが、高校時代の日本史の先生が教員をしながら研究者としても活躍されていた方で、そういう教員になりたいと考えて東京都の教員採用試験を受けたところ、幸いにも合格し、都立神津高校に採用された。
神津高校は、伊豆諸島の中ほどに位置する神津島の学校で、民俗学を勉強してきた自分にとっては格好の勤務先であった。1982年4月に赴任し、島の歴史や民俗、文化財を調査していきたいという意欲を示したところ、村の教育委員会から文化財専門委員をやらないかという声がかかり、快諾した。委員の中に神津島の歴史・文化の研究の第一人者である山下彦一郎先生がおり、ここで山下先生と面識を得て、神津島の民俗文化について多くの教えを賜った。
教育委員会の事務局にいた梅田武敏さんも郷土史家として活動していたが、神津島で一番お世話になったのは梅田さんだった。梅田さんから島の古老や多くの方をご紹介いただき、聞き取り調査をおこなうことができた。梅田さんの畑を借りて、初めて農業を体験したことも貴重な経験だった。在島中は磯釣りにも明け暮れていたので、島での生活はまさに半農半漁だった。
神津島には、物忌奈命神社と阿波命神社という二つの式内社(延喜式神名帳所載の神社)があった。伊豆諸島には多くの式内社が鎮座しており、それらの祭神は、いずれも後に伊豆国一之宮となる三嶋神社の祭神コトシロヌシの妻子の神々で、神津島の阿波命はコトシロヌシの正后、物忌奈命はその子とされており、ともに名神大社という格式の高い神社であった。ちなみに伊豆諸島の神社で名神大社はこの両社だけである。
このような伊豆諸島の神社のあり方は、火山の噴火活動と関連しており、特に神津島では平安時代初期の承和年間(838年ころ)に大噴火があったことが続日本後紀に詳細に記述されている。神津島の両社の厚遇は、この時の朝廷側の対応に基づくものであろう。
民俗学だけでなく、日本古代史研究の立場からも神津島を研究したいと思っていたので、このテーマは古代国家による伊豆諸島の支配の問題、天変地異と祭祀の問題として取り組むべき課題であった。神社のあり方から、三嶋神社を拠点として島々の神を祭る体制であったことは理解できるが、同社の祭神がコトシロヌシとされるのはなぜかという点が在島中から疑問で、未だに解決していない。
伊豆諸島は伊豆国の賀茂郡に属するが、郡名は大和盆地西南部の葛城の鴨(賀茂)の地に由来し、この地の神こそコトシロヌシであった。コトシロヌシは記紀ではオオナムチの子とされて出雲神話に組み込まれるが、オオナムチは国作りの神として活躍することから、奈良時代以降、噴火などで海中に島が出現するとオオナムチがしばしば官社として祀られている。伊豆諸島の場合も、そのようなオオナムチとの関りで理解していいのかが先ず問われるが、コトシロヌシは国譲りの神であり、国作りには関係しないので、その解釈は無理だろう。とすると記紀神話に組み込まれていない葛城の賀茂のコトシロヌシ本来の属性との関係が問題となるが、この点をめぐっては、伊豆国だけでなく全国各地にみられるカモ地名の歴史的な背景とも関り、一筋縄ではいきそうもない。葛城出身の役小角が伊豆の島に流されたとされることとの関係も考えられるが、よくわからない。今後取り組んでいきたい。
神津島赴任一年目の秋(1982年11月)、京都の立命館大学で開催された日本史研究会の大会に参加した。書籍売り場の塙書房のコーナーで本を見ていたところ、隣の方が書店の人と話をしており、話しの内容から、どうも岡田精司先生ではないかと思われた。勇気を出して声をかけようとしたところに、偶然関和彦さんが現れ、その方に挨拶するとともに、私を紹介してくれた。まさに岡田先生だった。
その後三人で喫茶店に行って話しをし、さらに近くにあった平野神社を訪れて、先生の案内で見学し、そこで関さんと別れた後は先生と京都駅まで同行した。古代史の勉強を始めて以来、学問の師と仰いでいた岡田先生と、いきなりこんなに親しく交流することができたのは、関さんのおかげ以外のなにものでもない。
それから5か月後の1983年4月、姉の結婚式が京都であり、式の前日の土曜日、京都国立博物館で開催されていた特別展を見学していたところ、会場で偶然、神祇祭祀の研究者の西宮秀紀さんに会った。この時西宮さんから、ちょうど今、岡田先生が主宰している祭祀史料研究会の例会が行われていると教えていただき、それならばと会場に行ってみた。すでに会ははじまっており、レジュメを受け取って席に着いたが、岡田先生は初対面以来の再会にもかかわらず、すぐに私を認識していただき、うれしかった。
この時の報告は忌部氏の祭祀がテーマで、私も卒論で忌部氏を扱ったことから、基本的な史料や文献には目を通していたので、議論に参加することができた。その場にはなんと松前健先生もいらした。大学時代から松前先生の本は、常に座右に置いていたので、直接お目にかかれたのは夢のようだった。また和田萃先生もおられ、神々の世界を訪れたような気分だった。内田順子さん、土橋誠さんと初めて会ったのもこの時で、お二人とは今にいたるまで交流が続いている。
報告やその後の討論の中で、当時発掘調査中の奈良県橿原市の曽我遺跡のことが取り上げられていた。曽我遺跡は大規模な玉作遺跡で、ヤマト王権の玉作工房とみられ、近くに忌部氏の祖神フトダマの命を祭る天太玉命神社も鎮座することから、ここでの玉作には忌部氏の関与が想定されたのである。岡田先生から、もし時間に余裕があったら是非とも見学するようにと勧められたので、結婚式の翌日に行くことを決心すると、和田先生から「現場に行ったら関川尚功さんを訪ねるように」といわれた。
2日後、大和八木駅からタクシーで曽我遺跡の現場に行ってみた。あいにく関川さんは不在で別の方が案内してくれたが、実は発掘現場の見学は初めてで、曽我遺跡の歴史的な価値の問題よりも、考古学の調査現場を直に見ることができたことの感動が勝っていた。この地に列島各地の玉材と玉作工人が集められて、王権膝下で大規模な玉生産が行われたこと、そこには出雲からも碧玉・瑪瑙とともに工人も出向していたことはなどの説明は、たぶん聞いたはずだと思うが、恥ずかしくも申し訳なくも、その場では知識にも記憶にも定着しておらず、まさかこの遺跡が、私の出雲古代史研究の中核的な位置を占めることになろうとは、当然のことながら、この時には思いもよらなかった。私が曽我遺跡と出雲との関係を論じたのは、1998年の「ヤマト王権の宗教的世界観と出雲」(『出雲古代史研究』7.8合併号)においてであり、この15年後のことであった。
→2022年1月1日(土)に続きます