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私の出雲古代史研究 第5回

更新日:2023年4月13日



                   代表委員 菊地照夫


1986年4月、大学時代の恩師である鈴木靖民先生が非常勤で出講している法政大学院に進学したが、翌年度、鈴木先生は中国の吉林大学に一年間留学することとなったため、大学院の日本古代史は国立歴史民俗博物館教授(歴史研究部長)の虎尾俊哉先生が担当することになった。


虎尾先生といえば、班田収授法延喜式の研究の第一人者で、当時の私の目からは古代史学界の権威的存在で、天上界の大先生という印象であり、指導教授の伊藤玄三先生から虎尾先生が来られると聞かされときには、どんな厳しい指導が待ち受けているかと緊張するとともに、自分の未熟さに呆れられてしまうのではないかと不安になった。


そんな気持ちをいだきつつ、1987年4月、最初のゼミの日を迎えたが、予想通り虎尾先生は厳しかった。延喜式の演習だったが、巻22民部式上を一人が2条ずつ担当し、読み下して、意味を取って解釈し、令との関係や、その式の成立について(弘仁式段階か、貞観式段階か、延喜式で規定されたものか)考察する報告が課せられた。特に史料の読みについては厳格で、助詞の使い方、自動詞・他動詞の別、口語的な言い回しを避けることなど、とにかく厳しい指導を受けた。


先生は時間にも厳格だった。18時30分の始業時ピッタリにゼミを開始し、20時の終業時ピッタリに終わり、すぐにお帰りになる。雑談等余計な話は一切なさらず、ゼミ開始当初しばらくの間は、世間話的な会話もほとんどしたことがなかった。


何回目かのゼミのあと、お帰りになる先生を追いかけて、前年『千葉史学』9号に書いた拙稿「顕宗三年紀二月条・四月条に関する一考察―大和王権の新嘗と屯田―」の抜刷を進呈したところ、先生は驚いた顔をして受け取ってくださった。驚いた理由は掲載誌が『千葉史学』だったからである。同誌を発行する千葉歴史学会は千葉大学に史学科が新設され、千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館がオープンしたことを機に、千葉を新たな歴史学研究の拠点にしようという趣旨で設立された学会で、歴博教授である先生も、同誌に文章を書いたことがあり、縁のある雑誌だったのだ。なぜここに書いたかを問われ、千葉歴史学会の古代史部会に参加している旨を説明して、納得していただいた。


次のゼミの時、前回抜刷を差し上げたことなどすっかり忘れていたのだが、ゼミが終わって先生が立ち上がり、帰りかけた時、立ち止まってこちらを向き、「先週いただいた論文、読ませてもらったけど、面白かった。延喜式の引用もよろしい」というお言葉をいただいた。拙稿では、延喜式の巻30宮内式の官田に関する式を引用して律令制の新嘗祭のありかたに論及していたが、延喜式研究の第一人者からこの点を評価していただけたのはうれしかった。虎尾先生は後に延喜式全巻の訳注に取り組み、私もこのお仕事を手伝うことになるが、私が巻30宮内式の訳注を担当することになったのは、この引用が契機だったのかもしれない。


前期最後のゼミのあと、勇気を出して先生に前期の打ち上げで飲みに行きませんかと誘ってみたところ、意外にも先生は快諾してくれた。そこで先生を飯田橋の居酒屋にお連れして乾杯すると、それまで余談、雑談、世間話もほとんどなかったのがウソのように、先生は饒舌に、いろいろなお話をしてくれた。この飲み会を機に、後期からはすっかり打ち解けて、相変わらず厳しいゼミではあったが、多くの会話が自然に交わされるようになった。


虎尾先生のゼミには、修士課程修了後も参加させていただいた。1993年に先生の法政出講が終わったあと、虎尾ゼミは研究会(法政大学延喜式攷究会)として継続し、その後2010年10月まで、24年にわたって虎尾先生の下で延喜式を研究することになった。



 


1987年5月、歴史学研究会古代史部会でお世話になっている加藤友康さんから電話があり、第15回古代史サマーセミナーでの報告を依頼され、引き受けた。古代史サマーセミナーは、全国の古代史研究者が合宿して交流を深めるイベントで、毎年8月に、各地を転々として開催されていたが、その年は島根県で開催されることになっていた。出雲神話の舞台の地での開催であったが、私に課せられた報告の内容は、まさに出雲神話についてであった。


8月、大学3年の時に初めて出雲を訪れて以来(第2回参照)、7年ぶりの出雲、しかも全国の古代史研究者の前で研究発表をするという大きなミッションを抱えての訪問となった。会場は、JR松江駅のひとつ先の乃木駅から徒歩ですぐ、宍道湖に面した国道9号沿いの宿舎だった。2泊3日でおこなわれ、1日目の午後に開会して基調的な報告、夜は懇親会、2日目は午前中にシンポジウム、午後は個別報告、3日目は見学会という日程であった。


1日目、基調的な報告を関和彦さん、内田律雄さんなどが行った。夜の懇親会では、乾杯の発声に島根大学名誉教授で考古学の山本清先生が指名された。この時、山本先生は立ち上がると、いきなり「ウオォー!」という大声を発して参列者を驚かせ、「ヤマタノオロチから皆さんへの歓迎のあいさつです」と述べて、懇親会の雰囲気を一気に和ませた。


2日目のシンポジウムが私の出番だった。パネリストは島根大学の渡辺貞幸さん、学習院大学の遠山美都男さんと私の3人で、渡辺さんが出雲地方の古墳の編年について、遠山さんが岡田山1号墳出土鉄剣銘の「額田部」に絡めて出雲の部民制について、私がヤマタノヲロチ神話形成の歴史的背景について報告した。


私の報告は、スサノオによるヤマタノヲロチ退治の神話を分析して、その背景に国造制屯倉制に基づく在地の新嘗の祭儀を想定するという内容であった。昨年『出雲古代史研究』第31号に発表した「スサノオ神話の形成に関する一考察―出雲降臨神話をめぐって―」は、この時の報告の内容を発展させたものである。


この報告で、古代の出雲を究明するアプローチとして次の三つの視点を提示した。一点目は古代の出雲地域の様相を明らかにすること、二点目はヤマト王権と出雲との関係の実態を明らかにすること、三点目はヤマト王権の神話的世界観の中での出雲観を明らかにすることの三点である。そしてこのシンポでは渡辺報告が一点目、遠山報告が二点目からの視点であり、私の報告は三点目からのアプローチであることを述べた。この三つの視点は相互に関係しあうものではあるが、記紀神話研究における出雲の問題は、王権の神話的世界観とその前提となる宗教的世界観の問題として検討されるべきであるという三点目の視点が私の研究の基本的な姿勢であり、サマーセミナーはそれを表明する場となった。2016年に刊行した私の論文集の『古代王権の宗教的世界観と出雲』という書名は、この第三の視点そのものなのである。


2日目の夜に、立食での交流会があった。ここで島根県の三宅博士さんから声をかけられて話しが弾み、その会話の中で、私が当時漠然とイメージしていたことを、三宅さんに喋りまくってしまった。記紀神話の世界観における出雲の位相は、古い時代の紀伊の位相が移されたという考え方を力説したのだが、三宅さんには、若造の妄想を聞かされて、さぞ迷惑だったろうと申し訳なく思っている。


この妄想は、後に拙稿「ヤマト王権の宗教的世界観と出雲」(『出雲古代史研究』第7・8合併号)、「出雲国忌部神戸をめぐる諸問題」(岡田精司編『国家と祭祀の歴史学』塙書房)で問題提起して、私の出雲古代史研究の中核的な論点となり、この中でヤマト王権の玉作と出雲との関係が重要なテーマとなった。一方三宅さんは、後に松江市立玉作資料館の館長となられ、私は玉作に関する調査で、たびたび三宅さんのお世話になることとなった。セミナーでの出会いの因縁を感じている。



 


このセミナーの事務局長は、考古学の松本岩雄さんだった。古代史サマーセミナーの事務局長は、通例では文献史学の研究者が引き受けていたが、当時島根県には文献史学の古代史研究者というと高校教員をしておられた野々村安浩さんくらいしかおらず、松本さんが鈴木靖民先生からの依頼を受けて引き受けたという。


松本さんとは、資料集の原稿やレジュメのことなど、事前に何度も電話で連絡を取り合い、大変お世話になった。松本さんのご尽力により、第15回古代史サマーセミナーは大成功であったが、このセミナーはそのあとが素晴らしかった。


松本さんは、報告者に原稿を依頼して、サマーセミナーの記録集『出雲古代史の諸問題』という立派な冊子を刊行したのである。私の報告も「出雲神話の背景―スサノオの出雲降臨神話を中心に―」という題で掲載されている。サマーセミナーでは、それまでも記録集は作成されていたが、これだけ見事な記録集は、私の知る限りでは(セミナーには第9回から参加しているが)見たことがない。


原稿の依頼から、入稿、校正も、恐らく松本さんがほとんどお一人で担当されたのではないかと思われる。当時はまだ活版印刷だったので、校正はさぞご苦労されたことだろう。セミナーが開催された1987年の年内に刊行されており、その迅速さも驚きである。第15回古代史サマーセミナーは、こうしてしっかりと形に残されているのである。

そしてこのサマーセミナーは、もう一つ大きなものを生み出した。それは当会、すなわち出雲古代史研究会である。このことについては回を改めて述べることとしたい。

→3月1日(火)に続きます


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