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私の出雲古代史研究 第4回

更新日:2023年4月13日


                  代表委員 菊地照夫


大学卒業後、東京都立高校の教員となり、初任の地伊豆諸島の神津島で3年間過ごした後、1985年4月、練馬区の都立石神井高校に異動した。


当時の都立高校には週一日出勤しなくてよい研修日があり、その日は母校の国学院大学で坪井洋文先生や三谷栄一先生の授業を聴講させていただいた。歴史学研究会の古代史部会にも毎回参加できるようになり、国学院で林陸朗先生と鈴木靖民先生が毎月開催している正倉院文書研究会にも参加させていただき、島にいる時とはちがって、勉強の機会は格段に増えた。


1985年の秋に千葉歴史学会の古代史部会が発足し、千葉大学の吉村武彦さんの研究室で月例会が行われることになり、参加させていただくことになった。主なメンバーは吉村さんのほか、伊藤循さん、鈴木英夫さん、丸山理さん、吉井哲さん、加藤公明さんなどであった。例会では類聚三代格の巻19禁制を輪番で読み解釈していくのだが、これが面白く、平日の夜に、勤務先の西武新宿線武蔵関から総武線西千葉の千葉大学まで2時間近くかけて移動するのも全く苦にならず、毎月の研究会を楽しみにして参加した。


この長い移動時間の、特に帰りは貴重な時間だった。研究会のあと西千葉駅周辺で飲んで、それから都心に帰るのだが、帰路は西千葉から御茶ノ水まで、吉村さんと一緒だったのである。当時吉村さんは国家形成期の諸問題に取り組み、記紀の伝承や祭祀にも関心をもっており、電車の中での会話から多くのことを学ぶことができた。


ある時、電車の中で吉村さんにちょっとした質問をしたところ、「君も研究者なんだから、そんなことは自分で考えなさい」と言われたことがあった。この一言は衝撃的だった。それまで自分が研究者などと考えたことは、一度もなかったのである。自分が研究をしているという自覚もなく、勉強をしているのだという意識であった。この一言で、そのような無自覚な姿勢は甘えであることを思い知らされる一方、自分が研究者として見られている、扱われていることを初めて認識した。



 


1986年4月、法政大学院の人文科学研究科日本史学専攻修士課程に入学することとなった。法政大学の日本史専攻の大学院は夜間に開講されており、社会人でも通学することが可能だった。大学時代の指導教員である鈴木靖民先生が法政大学院に出講しており、先生から入学を強く勧められて受験したところ、幸いにも合格し、高校教員と大学院生の二重生活が始まった。


当時、法政大学文学部史学科には文献古代史の専任教員はおらず、考古学専攻の古墳時代を専門とする伊藤玄三教授が文献古代史の院生も指導することになっており、私は伊藤ゼミ(考古学研究室)の所属となった。しかし古代史の直接的な指導は鈴木先生から受け、一年目には、やはり非常勤で出講していた笹山晴生先生にもお世話になった。


大学院入学当初に掲げた研究テーマは「古代王権と新嘗」であった。卒論以来、岡田精司先生の学問を追究して勉強を積み重ねていたが、その中で自分なりに先生の学問を発展的に、あるいは批判的に継承できるのではないかと思える論点がいくつかあった。それに取り組んでみようと考えたのである。


そのひとつが天孫降臨神話と王権の新嘗との関係である。戦前の折口信夫の「大嘗祭の本義」以来、天皇位就任儀礼の中心は大嘗祭であり、天孫降臨神話は大嘗祭の祭儀神話と理解されてきた。しかし岡田先生は、天皇の就任儀礼の中心はレガリア(後の三種の神器)が奉献される即位儀にあり、その祭儀神話が天孫降臨神話であるという見解を提示していた。これに対して私は、天孫降臨の本来の指令神であるタカミムスヒを王権新嘗の神ととらえ、天孫降臨神話の原形は令制前代のヤマト王権の新嘗の祭儀神話ではないかと考えていた。


もうひとつ、岡田先生のヤマト王権の新嘗についての理解に大きな疑問があった。律令国家の天皇がおこなうニイナメ(新嘗)の儀礼は、即位後最初におこなう大嘗祭とその後毎年おこなう新嘗祭の二つに区別されており、大嘗祭では畿外の悠紀国・主基国に斎田が卜定されてその稲を用いて神事が行われたが、毎年の新嘗祭では畿内の官田(屯田)の稲が用いられていた。それでは令制以前のヤマト王権の新嘗はどのようにおこなわれていたかというと、これについては岡田先生のニイナメ・ヲスクニ儀礼論という有名な学説があった。先生は、ヤマト王権の新嘗儀は、国造の子女である采女が当地の稲で調理した飯・酒を献上し、聖婚をおこなう服属儀礼として行われたとし、これをニイナメ・ヲスクニ儀礼と称した。そしてそれが律令国家の大嘗祭に継承されるという。


私は、このような岡田先生のヤマト王権の新嘗儀の理解について疑問に思っており、令制前代の新嘗を継承しているのは大嘗祭ではなく、むしろ毎年の新嘗祭ではないかという見通しをもっていた。以上のような岡田先生の古代王権の新嘗をめぐる見解と対峙して、自分なりの見解を打ち出してみようというのが、大学院入学時に掲げた研究テーマだった。



 


千葉歴史学会の古代史部会7月例会のあと、伊藤循さんから学会誌『千葉史学』に論文を投稿しないかというお話しをいただいた。ちょうどこれから夏休みに入るところだったので、夏休みの宿題のつもりで受諾した。


これまで歴史学の論文は書いたことがなく、どのようなプロセスで論文を作成していくかということもよくわからなかったが、とりあえず史料に即して思考を展開し、それを論理的に整理していった。論文のタイトルは「顕宗三年紀二月条・四月条に関する一考察―大和王権の新嘗と屯田―」で、日本書紀の顕宗紀の記事を手がかりに令制前代のヤマト王権の新嘗のあり方を解明しようとするものだった。同記事は、託宣によって「歌荒樔田(うたのあらすだ)」を月神に、「磐余田(いわれのた)」をタカミムスヒに献上したという内容だが、ここにみえる「歌荒樔田」と「磐余田」は王権の直轄領である屯田であること、この記事は王権の新嘗用の稲を栽培する斎田として「歌荒樔田」と「磐余田」が卜定されたことを示す祭儀伝承であること、令制前代のヤマト王権の新嘗は畿内の屯田から斎田を卜定して行われており、それが令制の毎年の新嘗祭に継承されることを論じた。要するにこの論文は岡田先生のニイナメ・ヲスクニ儀礼論への批判でもあった。しかし駆け出しの実績のない身としては、論文の中でそれを正面に据えて主張することはできなかった。


9月上旬に書き上げると、すぐに岡田先生に電話をして、論文を書いたのでご指導をお願いしたいと伝えた。するとすぐに送るようにといわれ、コピーを速達で送った。先生がどのように評価してくれるか不安だったが、数日後先生から電話があり、その第一声は「力作ですね!」というおほめの言葉だったのはうれしかった。電話でいくつかの修正の指示を受け、後日赤入れした原稿が送り返されてきて、それを反映させてより質の高い論文に仕上げることができた。電話の中で、勇気を出してニイナメ・ヲスクニ儀礼論のことにもふれてみたが、先生は「修正しなければいけませんね」と一言おっしゃっただけだった。

こうして初めての論文が完成し、その年(1986年)の12月発行の『千葉史学』第9号に掲載された。本来修士論文となるはずのテーマだったものが、いきがかり上、修士課程の一年目で論文になってしまった。


なおこの論文で、ヤマト王権の屯田として最重要視されていたのが、日本書紀の仁徳即位前紀にみえる「倭屯田」であり、顕宗紀にみえる「磐余田」も倭屯田の一部であることを指摘した。この倭屯田を管掌する屯田司が出雲国造の祖である淤宇宿禰(おうのすくね)であることは、ヤマト王権と出雲との関係を解明する重要なてがかりとなるのだが、そのことに気づくのは、ずっと後のこととなる。

→2月1日(火)に続きます



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