委員 武廣亮平
前回(第2回)取り上げたエミシ移配史料(『類聚国史』延暦17年6月21日条)では、相模・武蔵国など現在の関東地方を中心とした移配先に出雲国も含まれている点に注目しました。今回も『類聚国史』に収録された史料を紹介しようと思いますが、こちらはさらに具体的な内容が書かれたものです。
『類聚国史』延暦19年(800)3月1日条には、出雲介(国司の次官)の石川朝臣清主の俘囚政策に関する「言上」と、それに対する桓武天皇の勅が記されています。清主の言上と桓武天皇の勅に分けて史料の全文(意訳)を掲げます。
(石川朝臣清主の言上)
俘囚らの冬の衣服は、これまでの例によれば絹と布(麻布)を混ぜたものを支給してきました。しかし清主はこれまでの例を改め、すべて絹製としました。また俘囚1人につき乗田(耕作者がなく余った田地)一町を支給して、これを富民(裕福な農民)に耕作させることにしました。新たに来た俘囚60余人は、寒い季節に遠くから来たのですから、優遇すべきです。そこで(私は)各自に絹一疋、綿一屯を支給し、5・6日間隔で饗宴を行い禄を賜い、毎月一日に存問(安否をうかがうこと)しようと思います。また百姓(農民)を使って、俘囚の畑を耕作させようと思います。
(桓武天皇の勅)
俘囚を慰撫(慰め労わること)することについては、先に例を立てて決めたところである。しかし清主は自分の意に任せて本来の主旨を見失い、饗宴・賜禄に多くを費やし、田畑を耕作する農民の負担も増している。これらは皆朝廷で決めたことではい。また夷(エミシ)の性格は貪欲であり、(一度このような優遇をした場合)もし常に手厚く扱わなかったら、怨む心を動かすことがあるので、今後は過剰な優遇をしてはならない。
さまざまな論点を含む史料ですが、ここでは石川朝臣清主という人物に焦点をあててみたいと思います。ただこの人物の事蹟や人物像についてはよくわかりません。なぜ彼はこのようなエミシへの優遇政策を行ったのでしょうか。
清主の出身母体である石川朝臣は、蘇我氏の祖とされる石川宿禰の後裔氏族です。河内国石川郡や大和国高市郡を拠点とし、大化改新の新政府で活躍した蘇我倉山田石川麻呂をはじめとして、奈良時代には中央政界でも要職に就く者がみられます。出雲国司として赴任するのは石川朝臣足麻呂、石川朝臣年足、石川朝臣豊人の3名ですが、この中で注目されるのが石川朝臣年足です。『続日本紀』天平11年(739)6月23日条には
出雲守従五位下石川朝臣年足に、絁卅疋、布六十端、正税三萬束を賜う。善政を賞するなり。
という記事があり、年足の国司としての業績が「善政」として褒賞されています。「善政」の内容は不明ですが、清主と同じ石川朝臣氏の人物が出雲国司としての施政を評価されていることは確認することができます。清主のエミシに対する優遇政策は、年足の善政を意識したものと考えることもできるのではないでしょうか。
そこで出雲介である石川清主の政策の内容について改めてみると、新到の俘囚に対し絹や綿を与えるとともに、数日おきに饗宴や賜禄を行うとあります。現代の私たちの感覚からみても過剰な優遇であることは明らかですが、これは前回にもお話しした「夷狄」に対して仁徳を示す行為として行っているものと考えられます。まさにそれは天皇の徳を示す行為であり、それによってエミシ(夷狄)の野蛮な性格を改めさせる政策ということになります。
清主が過剰なエミシ優遇策を得意げに言上しているのは、自らが天皇の代理として仁徳を施しているという自己アピールであると考えてみたいと思います。またそこには石川朝臣年足の「善政」も重ね合わせることができそうです。
しかし桓武天皇は清主の言上に厳しい評価を下します。先に掲げた史料で注目したいのは、エミシ(俘囚)への優遇策についてはすでに「例」を立てていると天皇が強調している点であり、これは移配先にエミシが定着するための具体的な生活優遇策と思われます。
つまり移配先におけるエミシ政策は、この「例」にもとづいて行われるべきであるにも拘わらず、清主が「例」を超えた過剰な優遇策を行い、さらにそれをエスカレートしようとしていることを天皇は問題視しているのです。過剰な優遇を通常のものに改めた場合、それがエミシの「怨み」に繋がるという桓武天皇の危機意識は、その後の出雲国における移配エミシの動向を考える上でも非常に示唆的です。
ところで延暦19年に出雲守(国司の長官)であったのは藤原緒嗣です。この人物は延暦24年(805)に菅野真道と「徳政相論」を行った人物として知られており、そこで緒嗣は「軍事と造作」、すなわちエミシ社会への軍事行動(征夷)と平安京の造営が多くの人民を苦しめていると主張し、結局、桓武天皇は緒嗣の意見を受け入れて「軍事と造作」を中止しました。
藤原緒嗣は都で右衛門督という重要なポストにも就いていたことから、出雲国には赴任せず、実質的な仕事は介の石川朝臣清主が行っていたと考えられますが、「軍事と造作」を批判した緒嗣ですから、清主のエミシ優遇策に厳しい目を向けていたことは容易に想像できます。清主のエミシ政策に対する桓武天皇の厳しい評価は、緒嗣の考えを反映したものであるのかも知れません。
石川朝臣清主が出雲国の移配エミシ優遇策を言上した翌年、島根郡人大神掃石朝臣継人ら3名の人物が、清主とともに「悪行」を行ったという理由で長門国に流されています(『類聚国史』延暦20年6月27日条)。これも「悪行」の中身はわからず、清主も処分されたかどうかも不明ですが、自らの「善政?」を主張した清主が正反対の評価を与えられてしまったことは何とも皮肉なことだといえます。
→1月15日(日)に続きます