委員 武廣亮平
出雲国における移配エミシの記録は、延暦17年(798)から確認されることはこれまで述べた通りですが、それから16年後の弘仁5年(814)に出雲国の移配エミシ(俘囚)の反乱に関する史料が4点みられます。
ただその内容は反乱の鎮圧に功績があった者への処遇など、すべて乱後の処置に関するものであり、反乱が起きた原因や具体的な経過などについては残念ながら不明です。情報量も限られていますが、今回は関連史料をもとに、出雲国の移配エミシの反乱の実態を出来る限り探りたいと思います。
『類聚国史』弘仁5年2月10日条
夷第一等の遠胆沢公母志に外従五位下を授く。出雲の叛俘を討つの功を以てなり。
最初の史料は「夷第一等」という身分・地位にある「遠膽澤公母志」に対する授位記事です。「夷第一等」の「夷」とは「蝦夷」の省略表記であり、「第一等」はエミシの有力者に与えられた特殊な爵位を示し、蝦夷爵と呼ばれています。エミシには「蝦夷」と「俘囚」という2つの身分表記があることは第1回目に説明しましたが、遠胆沢公母志は「夷(蝦夷)」という国家側からみれば異民族的な、言い方を変えれば自立性の強い身分を維持し、かつ爵位を与えられているのです。
「遠胆沢公」は、遠胆沢(地名)+公(カバネ)に分けられるこの人物の姓です。「遠胆沢」が具体的にどの地域を指すのかはっきりしませんが、「胆沢」は延暦8年(789)に行われた大規模な征討の時の激戦地であったことはよく知られており、その時の指揮官であった征東将軍紀古佐美が「胆沢の地は、賊奴の奥区なり」(『続日本紀』延暦8年6月9日条)と報告したように、古代国家による征討に激しく抵抗したエミシ勢力の中心地ともいえる場所でした。結局延暦8年の征夷は、エミシ勢力のリーダーであったアテルイらの巧みな戦術に翻弄されて惨敗を喫し、紀古佐美は桓武天皇から厳しく叱責されます。
この敗戦を機に朝廷は懐柔策も交えたエミシ社会の分断化という政策転換を行ったようであり、その後延暦11年(792)正月には「胆沢公阿奴志己」という人物が国家への帰服を請願するなどの記録(『類聚国史』延暦11年正月11日条)も見られます。
さらに延暦16年以降には坂上田村麻呂による征討が行われ、その結果アテルイらが投降し、エミシ勢力の中心地であった胆沢には、国家の支配の拠点となる胆沢城も築かれました。遠胆沢公母志は「遠胆沢」という姓を持つことから、この胆沢よりさらに北方の奥地に居住していた有力なエミシの族長であることは間違いなく、田村麻呂の征討以降に出雲国に移配されたと考えられます。
ところでこの史料は遠胆沢公母志が「出雲の叛俘(叛乱を起こした俘囚)」を討ったことに対する論功行賞記事であり、彼はその功績により「外従五位下」という位を授けられています。ここからは反乱そのものの経緯を知ることはできず、発生した時期についても定かではありませんが、論功行賞が弘仁5年3月に行われていることからすれば、俘囚の乱は弘仁4年の暮れから弘仁5年の初めにかけて起きたと推測することができます。
『類聚国史』弘仁5年2月15日条
出雲国の俘囚吉弥侯部高来、吉弥侯部年子に各稲三百束を賜う。荒橿の乱に遇いて妻孥を害さるるを以てなり。
次に紹介する史料は、最初の史料から5日後の日付があるものです。「俘囚」の吉弥侯部高来と吉弥侯部年子が「妻孥(妻子)」を殺害されたという理由で稲三百束を下賜されており、こちらは反乱による被害者への救済または慰問という性格を持つ史料です。「吉弥侯部」は俘囚の姓として最も多く見られます。注目したいのは「荒橿の乱」(俘囚の反乱)によって、同じ俘囚身分の人々が被害を受けているという点であり、ここからは反乱時に移配された俘囚の間でも何らかの対立関係があったことが窺われます。
『類聚国史』弘仁5年5月18日条
出雲国の意宇、出雲、神門三郡の未納稲十六万束を免除す。俘囚の乱有るに縁るなり。
『日本後紀』弘仁5年11月9日条
出雲国の田租を免ず。賊乱有り及び蕃客に供するに縁るなり。
3・4点目の史料は反乱による被害地域に対する租税免除措置です。まず3点目の史料では意宇、出雲、神門三郡の「未納の稲十六万束」、すなわち本来であれば税として納入すべき十六束の稲が免除されており、ここからは反乱の規模がある程度推測できます。
税(未納の稲)を免除された意宇郡、出雲郡、神門郡は、特に反乱の被害が大きかった地域であると考えられますが、いずれも山陰道が通る地域であることから、俘囚の反乱は山陰道に沿って広がっていった可能性も指摘できます。あるいはこの3郡に移配俘囚が分散して居住していたのかも知れません。
4点目の史料は出雲国全体の田租を免除するというものです。免除の理由である「賊乱」とは言うまでもなく俘囚の反乱のことですが、それとともに蕃客(同年に来朝した渤海使)への対応があげられている点が興味深いです。
最後にこの反乱の痕跡と思われる事例を紹介します。出雲郡家の正倉とされる後谷Ⅴ遺跡(出雲市斐川町大字出西)は、発掘調査により2度にわたり火災で焼失していることが確認されましたが、このうち2度目の奈良時代後期~平安時代前期の火災は俘囚の反乱によるものと考えられています。また意宇郡山代郷正倉(松江市大庭町)でも、俘囚の反乱により正倉が火災に遭った可能性が指摘されており、いずれも3点目の史料と符合するものといえます。
→2月15日(水)に続きます