委員 武廣亮平
前回(第4回)は、弘仁5年(814)における出雲国の移配エミシ(俘囚)の反乱関連記事について紹介しました。ただそこで少なくとも2つの問題点があることに気付きます。
1つは出雲国におけるエミシの反乱は、当国のエミシが生活面において様々な優遇措置を受けているという事実(第3回)と矛盾するようにみえることです。出雲国で移配エミシに対する国司(石川清主)の優遇策が問題となったのは延暦19年(800)であり、一方エミシの反乱が起きたのは弘仁4年(813)と思われます。それはこの10数年の間に移配されたエミシの人々に対する政策が変わったことと関連するようです。
弘仁年間になると全国に移配されたエミシに対して一般の公民と同じように租税を賦課しようとする政策が出されており、たとえば弘仁2年(811)には諸国に「俘囚計帳」の進上が命じられています(『日本後紀』同年3月11日条)。計帳は調・庸などの租税賦課の基本台帳ですから、俘囚にも租税が課されるようになったことになります。これは移配されたエミシに対する優遇措置から、一般の公民と同じく租税の賦課という方針転換が行われたことを示すものです。
坂上田村麻呂の征夷を契機として行われたエミシの大量移配は、それまでエミシの人々に直接接する地域である陸奥・出羽国が負担していた懐柔政策の財源の確保や、エミシ集団の実効支配といった課題を、そのまま移配された国々に持ち込むことになりました。
延暦年間の移配はエミシの勢力分断とともに、陸奥・出羽国の財政負担の軽減という側面があることも確かであり、その分の財政負担はエミシが移配された国々に新たに課せられることになります。しかし移配された国々も「移配エミシの懐柔」に必要な新たな財源を確保するのは困難だったと推測されます。石川清主の過剰な優遇策が問題視されたのも、このような地方財政の抱える厳しい現状があったのでしょう。
出雲国をはじめ、全国に移配されたエミシの生活が最初は優遇されているのは、あくまでも生活形態の違いなどを考慮した一時的な措置であり、政府は最終的に一般公民と同じような税の賦課を求めたと思われます。「俘囚計帳」の進上はそれを象徴していると言えます。しかしエミシは東北地方の北部に住んでいた人々ですから、その生業も出雲国など西日本とは異なっていたことは容易に想像できます。エミシの中には、狩猟などそれまでの生活形態を維持し続けていた者も少なからず存在していたようであり、10年という歳月を経てもエミシ集団の公民化は容易ではなかったのではないでしょうか。出雲国におけるエミシの反乱にはこのような背景があったと考えられます。
もう1つの問題は、出雲国のエミシ(俘囚)の反乱を討ったのが、同じエミシである遠膽澤公母志という人物であるという点です。これも前回確認しましたが、遠胆沢公母志は延暦年間のエミシ勢力の拠点であった胆沢(岩手県奥州市)よりさらに北方地域における有力なエミシの族長と思われます。ではなぜ彼は同じエミシである「俘囚」の反乱を鎮圧したのでしょうか。移配先におけるエミシ集団の秩序の維持といった観点から探ってみたいと思います。関連するのが次の史料です(漢文の原文を現代語訳しました)。
『日本後紀』弘仁3年(812)6月2日条
(嵯峨天皇が)勅して言うには、諸国の夷俘らは朝廷の法制を守らず、法を犯すものが多い。野性は教化するのが困難であり、教喩の効果は未だにあらわれていない。そこで同類(同じエミシ)の中のうち能力があり、皆から推服される人物一人を選び、その長として捉搦(取り締まり)をさせるように。
この史料は、内国に移配されたエミシ集団の公民化が困難な状況をよく示していると言えます。「野性」(野蛮な性格)という表現は、エミシに対する差別的な認識もありますが、彼らの生活スタイルが一般的な公民と異なるものであることを表しているのでしょう。
また注目されるのは、移配されたエミシ集団の中から、能力があり、エミシの人々から「推服」(尊敬され慕われる)される人物1人を「長」(リーダー)として選出し、「捉搦」(取り締まり)をさせるという新たな政策です。
いわばこれはエミシ集団自身による秩序の安定を目的としたものであり、遠膽澤公母志は出雲国内においてまさにこの「長」(便宜的に「夷俘長」と呼ばれています)という役割を担っていたのではないでしょうか。彼は出雲国に移配されたエミシ集団の秩序と治安を維持することを、政府や出雲国司などからある程度期待されていたのであり、自らの移配地で発生したエミシ(俘囚)の反乱を討伐するという行為は、遠膽澤公母志のそのような立場を明確に示していると考えられます。
このような移配地におけるエミシの長(夷俘長)が任命されたことを具体的に確認できるのは、近江国で尓散南公澤成という人物を「夷長と為す」(『日本文徳天皇実録』天安2年(858)5月19日条)という例が唯一のものですが、多くのエミシが移配された国々では、出雲国の遠膽澤公母志のように有力な族長クラスの人物が、エミシ集団を統括していたのでしょう。また夷俘長とその管理下にあったエミシ集団の関係についても、それぞれ異なる地域から移配されてきた可能性もあり、だとすれば自らの移配先で起きたエミシの反乱に対し、夷俘長が強硬な態度で臨んだとしても不思議ではありません。
なお『日本三代実録』元慶4年(880)11月3日条には、近江国俘囚として「遠胆沢公秋雄」という人物が見られます。出雲国の遠膽澤公母志との関係はわかりませんが、もしかしたら弘仁年間以降に出雲国から移住した集団かも知れません。近江国は有力なエミシの族長が多く居住していることも関連史料から知られており、遠膽澤公母志の「功績」により、その一族が近江国に移住(または再移配)した可能性もあります。
→3月15日(水)に続きます