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例)出雲国風土記,会誌〇号

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  • 日本史研究会 古代史部会 2023-05

    #日本史研究会(#京都)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり第1回 大会共同研究報告準備会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ぜひご参加くださいませ。 →日本史研究会について →会誌『日本史研究』 日本史研究会 古代史部会 第1回 大会共同研究報告準備会 日 時:2023年5月8日(月)18:30~21:00 報 告:大艸 啓 「平安京と寺院建立」 参 加:無料/事前申込み[5/7 日 正午まで]

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第6回

    委員 武廣亮平 このコラムも早いもので今回で6回目となります。そろそろネタも尽きてきましたが、もう一つ紹介しておきたいのが、出雲国で起きた移配エミシ(俘囚)の反乱が及ぼした影響についてです。 前回述べてきたように、出雲国の「俘囚」反乱に関する記事は弘仁5年(814)に見られますが、その内容は反乱の論功行賞や被害を受けた者に対する救済措置であることから、反乱が起きたのは弘仁4年(813)の暮れから弘仁5年(815)初頭にかけてと考えられます。この点を念頭にまず次の史料に注目してみます(これも漢文のものを現代語訳しました)。 『類聚国史』弘仁4年(813)11月21日条 (嵯峨天皇が)勅して言うには、夷俘の性格は平民と異なっており、朝化(朝廷の教え)に従うといいながら、未だに野心(野蛮な心)を忘れていない。そこで諸国の国司に勤めて教喩(教え諭すこと)を行うように命じた。しかし国司は朝廷の趣旨に反して、夷俘を存恤(慰問救済)することをせず、彼ら(夷俘)が申すところも日を経ても処理しないため、夷俘は愁いや怨みを募らせ、遂には叛逆するに到る。そこで播磨介従五位上藤原朝臣藤成、備前介従五位下高階眞人眞仲、備中守従五位上大中臣朝臣智治麻呂、筑前介正六位上栄井王、筑後守従五位下弟村王、肥前介正六位上紀朝臣三中、肥後守従五位上大枝朝臣永山、豊前介従五位下賀茂懸主立長等に対し、手厚く教喩を加えて、彼らが申す事について、早く処分することを命じる。問題が重大であり、簡単に決することができない場合は、政府に言上して裁定を聴くように。もし撫慰(いつくしみなぐさめ)をせず、夷俘が叛逆したり入京越訴を行った場合は、専当の人(夷俘の教諭に専属的にあたる国司)らを、その罪状に准じて断罪せよ。但しこの政策によって百姓への対応を後回しにしてはならない。 この史料は移配先においても「野心」を改めず、さまざまな問題を引き起こす夷俘に対して、国司の「教喩」の徹底を命じたものです。続いてその対象となっている国々と国司の氏名が挙げられており、例えば「播磨介従五位上藤原朝臣藤成」は、播磨国(兵庫県南部)の介(国司の次官)で従五位の位階である藤原朝臣藤成という人物ということになります。 以下の国をみると備前・備中国(岡山県)、筑前・筑後国(福岡県)、肥前国(佐賀・長崎県)、肥後国(熊本県)、豊前国(大分県北部)となっており、特に九州地域が多いことがわかります。また国司の責任者は守(長官)の場合もありますが、介が任じられるケースの方が多いようです。 もう一つ重要なのは、この史料が播磨国など多くの国々の夷俘(移配エミシ)が「叛逆」や「入京越訴」といった行動に出ることを危惧していることです。まず「叛逆」ですが、出雲国の移配エミシの反乱が、弘仁4年(813)の暮から5年(814)初頭にかけて発生したのだとすれば、この史料と時期的に重なるという点は注目したいと思います。 推測になりますが、ここで紹介した『類聚国史』弘仁4年(813)11月21日条は、出雲国で発生した俘囚の乱をうけて、出雲国と同じように多くの移配エミシが居住する諸国に対して出されたものとみることもできます。だとすれば「叛逆」とはまさに出雲国の移配エミシ(俘囚)の乱を示すということになります。 出雲国で起きた反乱は、延暦年間から政府が行ってきた大規模なエミシ移配政策の問題が表面化したものであることは明らかであり、さらにそれはエミシが移配された他の国々でも起こりうる深刻な課題として受け止められたのではないでしょうか。エミシ移配国の守または介を「夷俘専当」とする政策は、移配政策を進めてきた政府の危機感の表れでもあります。 次に「入京越訴」ですが、こちらは京(平安京)に入って訴えを起こすこと、つまり政府に対して自分たちの訴えや要求を直接伝える行為だと考えられます。実際に「入京越訴」があったことを記す史料を紹介します。 『類聚国史』弘仁7年(816)8月1日条 (嵯峨天皇が)勅して言うには、夷俘の性格は平民と異なっており、皇化(天皇の教え)に従うといいながら、なお野心を存している。そこで先に諸国に仰せて(夷俘を)教喩させた。ところが因幡・伯耆両国の俘囚らは。感情に任せて京に入り、小事(重要ではない事柄)について越訴を行っている。これはまさに国司が撫慰の方法を誤り、その理に反する判断が致すところである。これより以降は手厚く訓導(教え導く)をせよ。もし越訴のようなことがあれば、専当の国司をその状況に応じて罪科に処せ。 こちらはエミシの問題行為が移配された国での反乱ではなく、京での越訴という形で行われているところに特徴があります。出雲国の移配エミシの反乱から約3年後のものですが、注目されるのは入京して越訴に及んでいるのが、因幡・伯耆国(鳥取県)の移配エミシ(俘囚)であるという点です。 因幡国、伯耆国も出雲国と同じく山陰道の国であり、特に伯耆国は出雲国のすぐ東に隣接していることから、出雲国におけるエミシの反乱に何らかの影響をうけた彼らが、新たな手段で国家に対し自分達の生活の保障などを要求したものと見ることもできそうです。 出雲国の移配エミシに関する最後の記録は『日本三代実録』貞観元年(859)8月25日条に見られます。出雲国俘囚の「吉弥侯部黄海」を従六位上から従五位下に叙すというものであり、その位階からしても出雲国内で有力な地位にある人物と思われます。 ただ一方で「俘囚」という差別的な身分が残っているという点も注意したいところです。延暦17年(798)に初めて出雲国に移配エミシが確認されてからすでに60年が経ちますが、彼らはまだ「俘囚」や「夷俘」という特殊な集団とみなされていたことがわかります。 →4月15日(土)に続きます

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第7回

    委員 武廣亮平 出雲国における移配エミシの反乱のその後を追っていきたいと思います。『類聚国史』弘仁9年(818)正月30日条に「使を遣わして出雲国の賊の焼く官物を検じ、兼ねて百姓に賑給せしむ。」とあり「賊」(俘囚)の乱がその後数年にわたって「官物」(国や郡などの役所で管理する物品)の欠損という影響を及ぼしていたことが見て取れます。 ただその後移配エミシに関する記録は見られなくなり、貞観元年(859)に出雲国の俘囚である「吉弥候黄海」に従五位下の位を授けるという記事が最後になります。では移配されたエミシの人々は公民(百姓)として出雲国に定着したのかというと、これもそう単純な問題ではなかったようです。 延長5年(927)に完成した『延喜式』の主税式には、全国に移配された俘囚の生活を支える財源である「俘囚料」が計上されていたことが確認され、出雲国は「一万三千束」が俘囚料に充てられています。具体的にいつ頃までかははっきりしませんが、出雲国の移配エミシに対するさまざまな政策は9世紀を通して行われていたと思われます。それは見方を変えれば、彼らが依然として「夷俘」や「俘囚」という差別的な身分として扱われてきたことを示しているのではないでしょうか。 今回の計7回にわたる出雲国の移配エミシの話を簡単に整理してまとめに代えます。出雲国の移配エミシに関する史料は、出雲国司石川朝臣清主の移配エミシ政策を記したものと、俘囚の反乱に関するものに大別されます。 清主の対工ミシ政策は、当時の内国におけるエミシの処遇を具体的に示す貴重な事例であるのと同時に、それが実質的には陸奥、出羽国司の職掌である饗給(撫慰)と同じ内容を持つことが確認されます。ただし出雲国の事例が特記されているのは、国司である石川清主のエミシ政策が当時の通常の規定を逸脱したものであったからであり、その背景には清主自身の独自の政治観念が存在する可能性も指摘しました。 一方俘囚の反乱については、特に反乱の鎮圧に同じエミシ(夷=蝦夷)である遠膽澤公母志が関与しているという点に注目し、そこから移配エミシの中でも「夷(蝦夷)」と「俘囚」とでは、移配先における生活環境などについても差がある可能性を述べました。これらの理解は、あくまでも出雲国というある一地域の例から導き出されたものでありますが、実は全国的に見ても移配エミシに関する史料は限られており、これが8世紀末から9世紀初頭にかけての大規模なエミシ移配政策の実態を解明する上でも重要なものであることは間違いないと思います。 最後に今回の話も含めた古代のエミシに関する文献(書籍・論文)を紹介します。エミシをテーマとした文献は非常に多く、中世の「エゾ」との関係や(実はエゾも漢字では「蝦夷」と表記されます。エミシとの違いについて説明するとさらにあと5回ほど話をしなければならないのでご容赦ください…)、アイヌ民族との繋がりなどに言及したものも含めると、その数は膨大なものになります。 ただその中には筆者の独善的な説に基づくものや、文献史料の解釈に問題があるものも少なからず認められ、タイトルに「蝦夷(エミシ)」とあれば何でも良いというわけでもありません。ここでは私の専攻分野である文献史学の古代史を中心に、このコラムに関連する文献(単行本・論文)を紹介します。 <古代のエミシ全般に関する単行本> 1,工藤雅樹『古代蝦夷』(吉川弘文館、2000年) エミシに関する研究の歴史や、アイヌ民族との関係についての研究動向がまとめられている有益な文献です。 2,熊谷公男『蝦夷の地と古代国家』(山川出版社、2004年) 熊谷氏のエミシ・古代東北史研究は多岐にわたりますが、その中からエミシとはどのような人々かという問題を簡潔に述べたこの本を紹介します。 3,鈴木拓也『蝦夷と東北戦争』(吉川弘文館、2008年) 奈良時代(8世紀前半)から平安時代初期(9世紀前半)にかけての古代国家(律令国家)とエミシ社会との関係を、「征夷」という軍事行動を中心にまとめたものです。 4,樋口知志『阿弖流為』(ミネルヴァ書房、2013年) 阿弖流為(アテルイ)というタイトルからもわかるように、エミシ社会の観点からの古代国家との関係を論じた意欲的な著作です。上記の鈴木氏の本と読み比べると両者の関係についての理解がさらに深まると思います。 5,八木光則『古代蝦夷社会の成立』(同成社、2010年) 考古学の立場からのエミシ研究も枚挙に暇がありませんが、その中からこの本をあげたいと思います。北海道、東北地域のさまざまな考古学的素材から、古代エミシ社会の成立を見通しています。 <移配エミシ全般を扱った論文> 1,関口 明「八、九世紀における移配蝦夷の支配」 (『古代東北の蝦夷と北海道』吉川弘文館、2003年) 2,熊谷公男「蝦夷移配策の変質とその意義」 (『九世紀の蝦夷社会』高志書院、2007年) 3,武廣亮平「エミシの移配と律令国家」 (『古代国家と東国社会』高科書店、1994年) <出雲国の移配エミシに関する論文> 1,大日方克己「弘仁期の出雲とエミシ」 (『古代山陰と東アジア』(同成社、2022年) 国府財政への影響といった視点も含めて出雲国の移配エミシを論じています。なお『古代山陰と東アジア』は古代の山陰地域と東アジアとの関係を包括的に論じた最初の研究成果であり、このたび高麗日本浪漫学会 高麗澄雄記念「第5回渡来文化大賞」を受賞しました。 2,鈴木拓也「蝦夷の入京越訴」 (前掲『九世紀の蝦夷社会』高志書院、2007年) 出雲国の移配エミシの反乱とも関連する俘囚の「入京越訴」に注目した興味深い論文です。 3,武廣亮平「古代出雲国の移配エミシとその反乱」 (『出雲古代史研究』7・8号、1998年、同「古代のエミシ移配政策と出雲国の移配エミシ」(『歴史評論』802号、2017年) このコラムのもとになっている論文です。 →5月15日(月)に続きます

  • 大阪歴史学会 例会 2023-01

    #大阪歴史学会(#大阪)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり例会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ご都合がつきそうな方はご参加をなにとぞよろしくお願いいたします。 →大阪歴史学会について →会誌『ヒストリア』 大阪歴史学会 日本古代史部会(続日本紀研究) 1月例会 日 時:2023年1月20日(金)18:30~21:00 参 加:無料/事前申込み[1/19 木まで] 報 告:村上 菜菜 「日本古代の国郡行政と村落社会」

  • 大阪歴史学会 例会 2023-02

    #大阪歴史学会(#大阪)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり例会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ご都合がつきそうな方はご参加をなにとぞよろしくお願いいたします。 →大阪歴史学会について →会誌『ヒストリア』 大阪歴史学会 日本古代史部会(続日本紀研究) 2月例会 日 時:2023年2月17日(金)18:30~21:00 参 加:無料/事前申込み[2/16 木まで] 報 告:上村 正裕 「仮)宇多源氏の親族秩序-仁和寺宝蔵管理をめぐる諸問題-」 日 時:2023年2月24日(金)18:30~21:00 参 加:無料/事前申込み[2/23 木まで] 報 告:増成 一倫 「八世紀後半~九世紀前半における公廨稲制度の展開過程について -補填機能と得分機能の関係に着目して-」

  • 大阪歴史学会 例会 2023-03

    #大阪歴史学会(#大阪)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり例会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ご都合がつきそうな方はご参加をなにとぞよろしくお願いいたします。 →大阪歴史学会について →会誌『ヒストリア』 大阪歴史学会 日本古代史部会(続日本紀研究) 3月例会 日 時:2023年3月17日(金)18:30~21:00→4月21日(金)変更 参 加:無料/事前申込み[4/20 木まで] 報 告:村上 菜菜 「日本古代の国郡行政と村落社会」

  • 大阪歴史学会 例会 2023-04

    #大阪歴史学会(#大阪)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり例会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ご都合がつきそうな方はご参加をなにとぞよろしくお願いいたします。 →大阪歴史学会について →会誌『ヒストリア』 大阪歴史学会 日本古代史部会(続日本紀研究) 4月例会 日 時:2023年4月21日(金)18:30~21:00 参 加:無料/事前申込み[4/20 木まで] 報 告:村上 菜菜 「日本古代の国郡行政と村落社会」

  • 出雲国風土記百景(第28景のつづき3)

    【塩栯島 しおたてじま】 (2022年11月6日撮影) 10月下旬からぐっと朝晩の冷え込みがきつくなってきた。11月6日は霧の朝となったの で、早速朝酌に撮影に。大橋川にある塩楯島を撮影してきた。 この島は細川家本では「塩栯島」だが、現在は塩楯島で、こちらの表記で見たことのある人も多いだろう。山川『風土記』以前では塩楯島が用いられてきた。ただし、栯には「たて」の訓があるので(山川は「しおすき」と訓じる)、読みは同じ「しおたてじま」と理解している。 この島は川の中にある島で、最初島根県にJRで赴任した時に、松江に入る前の車窓からみて、こんな島があるんだと、感動した記憶がある。 さて、この島のある朝酌促戸は美保湾・中海と宍道湖・大社湾の分水嶺に当たる箇所で、宍道湖が閉鎖的な環境になり、美保湾・中海側からが海水が流入する段階でもネックになっており、塩栯の名称はまさにそのこと(海水の遡上を妨げる)に由来するとみられる(高安2000)。 現在は1930年代の工事(汽船を松江に入れるため)によって、この島の北側の水路が掘り下げられ水深4.5mほどとなっているが、これには岩盤を掘り下げた結果であり、これにより現代の宍道湖川の汽水化が進みシジミが繁殖するようになった。 八雲立つ風土記の丘の出雲国府復元模型では、この辺りが北端となるが、もう少し浅く、岩盤が見える(おそらく水深3mより浅かったとみられる)で表現するべきであった。 【 【2022年10月23日撮影】 さて、島の上には現在手間天神社が鎮座しており、『雲陽誌』では、この付近に歌枕手間剗(てまのせき)があったと考えられるようになっている(本来は伯耆-出雲国堺にある)。 手間の地名がいつ頃ついたかは要検討で、中世歌学書などにみえるスサノオの「手摩島」の神話と併せて考える必要がある。 『風土記』では安来市飯島町の羽島の次がこの塩栯島で、その間に島はないことになっている。安来平野については前回記したとおりだが、意宇川河口ぶはどうであろうか。 まず一つは②現在の八幡町浜分である。この部分は微高地(地名通り砂浜)を形成しており、意宇川の河口があったことを推測させる。もう一つが③亀井塚と呼ばれる高まりである。 【亀井塚 旧出雲街道より 2022年11月16日撮影 南側にヤマダ電機があり、これを入れずに撮るのがコツ】 現在、頂部には尼子毛利合戦で戦死した亀井秀綱の墓がある。塚状を呈しているが、地図を見ると旧出雲街道(旧9号線)沿いが連続する微高地となっており、意宇川河口部に形成された砂丘の残り丘陵である可能性があるだろう。この辺りは、市向に流れる意宇川旧流路があったとの説も併せて検討する必要がありそうだ。 意宇郡の島については、一応今回で終了とし、次回からはつぎなる百景に移行したい。 (平石 充) 参考文献 高安克己2000「大橋川・中海・宍道湖の自然史」『出雲国風土記の研究Ⅱ 島根郡朝酌郷調査報告書』島根県教育委員会 (次回は12月3日に更新予定です)

  • 出雲国風土記百景(第29景)

    【長台寺付近寺跡】 【2022年11月27日撮影】 今回は安来市伯太町安田関の長台寺付近寺跡を紹介する。今は比較的はっきりしている古代寺院にかかわる遺跡という認識だが、最初に知ったのは関和彦さんの『出雲国風土記註論』で、驚いたのを覚えている。 写真はわかりづらい、円形の柱座と舎利孔がみえ、古代の塔心礎とみてよい。なお、『註論』にも写真が載っているが、そちらには全く苔が生えていない。月日の流れは速い。 【2022年11月27日撮影】 現在の長台寺もなかなか雰囲気のあるお寺である。鳥取島根県堺、すなわち伯耆出雲国境にある要害山の西斜面に平坦地を作り出し、本堂と護摩堂・薬師堂、鐘楼などがある。 問題の塔心礎は、この平坦面の下の庫裏の庭にある。いわゆる庭石なので、原位置にあるとは考えられない。瓦の出土地はさらに西側に下った場所にあるとされるが、出土瓦については実見できていない。 さて、寺伝によると、当初この寺院はさらに山奥の坊床にあったものが移転したとされる。似たような伝承は、松江の澄水寺にもあり、検討が必要だろう。 また所在地安田関は手間剗の推定地、下の地図の黄色の道がおおむね古代山陰道と考えられている(中村太一説)。すでに指摘のあるいわゆる関寺にあたる可能性もあるといえるだろう。 ※次回の更新は12月20日 (平石 充)

  • 出雲国風土記百景(第31景)

    【塔の石】 【2022年1月27日撮影】 皆様 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 一昨年の12月に開始したこの連載も約1年でようやく30景。先は長い。 今回は雲南市木次町の木次駅構内廃寺の礎石を取り上げる。『風土記』では大原郡の909にみえる斐伊郷南新造院に当たるとされる。塔の石はこの寺院の塔心礎と考えられており、長径2mを超える大規模なもので、第18景でも紹介したように、緩やかふくらんだ柱座がある(直径60㎝)。 この斐伊郷南新造院は厳堂と住僧5人の記載があり、これは新造院中最多である。また、現在は斐伊川堤防との間にあまり平坦地がないが、斐伊川の河道はかつては西側にあったと想定されており(木次、三刀屋町堺は近年に至るまで変動しているが現斐伊川流路の西にある)、それなりの規模があったとみることもできる。 この礎石は源一を保っておらず、遺跡名のように現在の木次駅のプラットホームにある屋根(トレインシェイドというらしい)の北側端のあたりにあったとされ、明治6年に現在の場所に移動された。このあたりの経緯は新修木次町誌編集委員会2004『新修木次町誌』に詳しい。 大原郡の仏教文化を伝える文化財である。 【平石 充】 (次回は1月21日掲載予定です)

  • 出雲国風土記百景(第32景)

    【冥土さん】 【撮影2023年3月7日】 今回は出雲郡の黄泉の穴、通称冥土さんを紹介する。22年の1月に『出雲国風土記地図・写本編』の制作にあたり、GPSを持って現地を確認しに行った。やはりGPSは威力があって、それ以前に想定した場所と、斜面の向きが違っていた。 その時は落ち葉などによってだいぶん埋まっていたが今年の3月に再訪すると、穴の中などだいぶ掃除されていた。手前の石柱の後ろの石には「黄泉穴」と刻まれている。 この穴について、『風土記鈔』は出雲郡540宇賀郷の地名起源伝承を記した後、「即ち…」としてつづく海辺の窟、黄泉の穴に比定する。 一方、『雲陽誌』では楯縫郡口宇賀(近世にはこの場所は楯縫郡である)の宇賀明神,奥宇賀の籠守明神・窟にその由緒がみえる。こちらでは話は複雑になっており、『風土記』の「即ち」より前の郷名起源伝承部分が取り入れられ、大己貴命が隠れた綾門姫(『風土記』宇賀郷状に見える神)を覗ったから宇賀郷、隠れた穴が黄泉の穴だとされる。 この間の経過については髙橋周氏が、佐草自清・千家延俊によって『風土記』の神話が宇賀神社に提供されたのではないかとしているが、妥当であろう。 さて、この穴にあった伝承とはどのようなものであったろうか。 この穴については本居宣長の『玉勝間』10巻に、宣長門人である浜田藩士小篠御野が、寛政6年ごろ弟子の斎藤秀満に実地調査させた話としてみえ、入り口付近の様子が細かく描写されているほか、穴について70歳ばかりの古老に聞いた話が記されている。 その内容は、穴は冥途の穴と呼ばれ、最近は訪れる人もいない、この穴からは毒気が出ることがあってそれに当たると息絶える、また鰐淵寺の智證上人(ママ)が入定した、などというもので、宇賀郷の郷名起源にみえる大穴持や綾門日女は全く登場しない。 神官などではなくあくまで古老の談であり、こちらが近世の地域社会にあった穴の伝承を伝えているとみるべきであろう。この毒気がでてそれに当たると死ぬという話は、実は伯耆国の弓ヶ浜にも夜見島と黄泉とを引き付けて伝わっていることがわかっており、中世以降の展開としてそれはそれで興味深い。 なお、『玉勝間』の最後は、この穴は海辺にあるとされる『風土記』の黄泉の穴ではないと結ばれている(宣長の解釈と思われる)。 (平石 充) 参考文献 髙橋周2021「中近世出雲における『出雲国風土記』の受容と『日本書紀』」『日本書紀と出雲観』島根県教育委員会 ※アラビア数字は『山川出版 風土記』所収出雲国風土記の本文行数です。 ※『出雲国風土記 校訂・注釈編』編集のため、2月3月は連載をお休みします。次の更新は、4月9日土曜日になります。 ※写真を差し替えました(4月13日)。

  • いずもけんブログ連載ご案内1

    平素は、#出雲古代史研究会(#島根県)への格別のご高配を賜りありがとうございます。皆さまにお知らせです。 出雲古代史研究会は、皆さまとご一緒に「#古代出雲」の謎をときあかすことをめざしています。そこで、このたび出雲古代史研究会は、#いずもけんブログ をさらに充実させることにいたしました。2021年(令和3年)10月1日(金)より新しく当会の会員によるコラム連載をはじめます。 コラムは毎月1日にブログに掲載されます。皆さまぜひご覧くださいませ。出雲古代史研究会は、今後も皆さまとともによりよい会をめざしますので、変わらぬご厚情を賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

  • いずもけんブログ連載ご案内4

    平素は、#出雲古代史研究会(#島根県)への格別のご高配を賜りありがとうございます。皆さまにお知らせです。 出雲古代史研究会は、皆さまとご一緒に「#古代出雲」の謎をときあかし、歴史学の楽しさをわかちあうことをめざしています。そこで出雲古代史研究会は、#いずもけんブログ で会員コラムをはじめたところです。 これまで #菊地照夫 の「#私の出雲古代史研究」(2021年10月1日~2022年4月1日)、#平石充 の「#出雲国風土記百景」(2021年12月4日~連載中)、#松本岩雄 の「「古代史サマーセミナー」出雲開催の頃の思い出」をのせました。 このたび、2022年(令和4年)10月15日(土)より新しい会員コラムの連載をはじめます。今度のコラムは、毎月15日にブログに掲載されます。皆さまぜひご覧くださいませ。 出雲古代史研究会は、皆さまとともによりよい会をめざしたく、引き続きなにとぞよろしくお願い申し上げます。

  • いずもけんブログ連載ご案内3

    平素は、#出雲古代史研究会(#島根県)への格別のご高配を賜りありがとうございます。皆さまにお知らせです。 出雲古代史研究会は、皆さまとご一緒に「#古代出雲」の謎をときあかし、歴史学の楽しさをわかちあうことをめざしています。そこで出雲古代史研究会は、#いずもけんブログ で会員コラムをはじめました。 初めての会員コラムは、#菊地照夫 代表委員による「#私の出雲古代史研究」です。「私の出雲古代史研究会」は、2021(令和3年)年10月1日から連載スタート、2022(令和4年)年4月1日をもって7回の連載をひとまず終えました。皆さま楽しんでいただけたでしょうか? 今度は、2022年(令和4年)5月1日(日)より新しい会員コラムの連載をはじめます。コラムは毎月1日にブログに掲載されます。皆さまぜひご覧くださいませ。 出雲古代史研究会は、皆さまとともによりよい会をめざしたく、引き続きなにとぞよろしくお願い申し上げます。

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第2回

    委員 武廣亮平 今回から出雲国の移配エミシについて、関連史料をもとに具体的に述べてみたいと思います。第2回目は出雲国の移配エミシを考える出発点となる史料を紹介します。(実際の記事は漢文ですが、内容がわかりやすいように現代語訳しました)。 (桓武天皇が)勅して言うには、相模、武蔵、常陸、上野、下野、出雲などの国の帰降した夷俘(蝦夷と俘囚)は徳沢(仁徳のめぐみ)により生活している。事あるごとに撫恤(いつくしみ)を加え、帰郷を願うことが無いようにすべきである。時服、禄物は毎年これを給い、その資糧(生活資材と食糧)が絶えた時にも優恤(情けと憐み)をすべきである。季節ごとの饗宴や禄などの類は、国司に命じて行わせるとともに報告させよ。その他の必要と思われる施策は、まず申請してから行うように。 (『類聚国史』延暦17年(798)6月21日条) 桓武朝における主要な政策が「軍事と造作」(エミシの征討と造都事業)であったことは知られていますが、このうちエミシの征討(征夷)は、前回も触れたように延暦13年(794)の征夷大将軍大伴弟麻呂・副将軍坂上田村麻呂により行われたものと、延暦16年(797)から20年頃にかけて坂上田村麻呂を征夷大将軍として行われたものが大きな成果をあげたと考えられています。上記の史料は延暦17年という年からすれば、延暦13年の征夷により帰降したエミシを中心とする人々と理解してよいでしょう。 史料の内容についてもう少し掘り下げてみます。これは桓武天皇の勅として出されたもので、相模国以下の6ヵ国に対し、それらの国に移配されたエミシ(夷俘)の扱いについて指示しています。 また後半部の内容からは、移配エミシが非常に厚遇されていた様子を見て取ることができます。たとえば「時服」とは毎年春・秋に支給される服料のことで、本来は国家の官人を対象としたものですが、これがエミシにも支給されているのです。「禄物」が具体的に何をさすのか明らかではありませんが、おそらく生活に必要な物品であったと思われます。 さらに彼らは季節ごとの「饗宴」に伴う禄物の賜与にもあずかっていたようであり、これも異例の待遇です。このように延暦17年段階における各国への移配エミシへの待遇は、やや過剰といえるほどの手厚いものであったことがわかります。 ではなぜこのような厚遇がなされていたのでしょうか。それは史料の「帰郷を願うことが無いようにすべきである」という文言がヒントになっているようです。一般的に移配されるエミシは国家による征討(征夷)により投降した集団であると考えられていますが、その実態は軍事行動による捕虜とともに、自らの意志で移配を希望する地域の住人など多様なものであったと思われます。 史料では「移配」という二文字で簡単に説明されていますが、それはエミシの人々にとっては、それまでの居住地から遠く離れた土地への移住であり、その移動手段も徒歩であった可能性が高いようです。そのような厳しい条件のもとで移配という政府の政策を受け入れた(もちろん「強制」されたケースもあったと思いますが)人々への処遇を意識するのは当然のことといえるでしょう。 さらに移配は国家・天皇の支配が及ばない「夷狄」=エミシに対し、その仁徳を示すことで支配に取り込むという政治的な意図を持っており、前掲の史料にある「徳沢」や「撫恤」、「優恤」といった言葉はまさにそれを象徴しています。 移配先における手厚い待遇は、実質的にはその土地への定着をはかるための措置ともいえますが、理念的には、天皇の徳により「夷狄」を国家の支配のもとに従わせるという側面があることも確認しておきたいと思います。『類聚国史』延暦19年(800)5月21日条には、「夷狄を招いて中州(陸奥・出羽以南の内国)に入れるのは、野俗を変えさせて風化に靡かせるためである」とあります。「風化」とは徳により人を感化・教化するという意味であり、ここにもエミシ移配の理念的な側面が表れています。 この記事でもう一つ注目されるのは、彼らが移配された地域です。史料を見ると相模(神奈川県)、武蔵(埼玉県・東京都・神奈川県東部)、常陸(茨木県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)という東国の地名が多く見られ、いずれも現在の関東地方であることがわかります。 エミシの本来の居住地域は東北北部なので、そこから距離的にもあまり遠くない関東地方への移配が中心になっているのだと推測されますが、移配される人数が多かったことから、長距離の移動はエミシに支給する食料の調達や、移動を管理する部領使と呼ばれる役人の確保が難しいという判断などもあったのかも知れません。 そうするとここに出雲国が含まれているというのはやはり非常に気になります。出雲国は、多くのエミシが移配された関東地方から西に大きく離れており、何らかの理由があったことを窺わせます。ではその理由は一体なんでしょうか。新たな史料を紹介しながら次回考えてみたいと思います。 →12月15日(火)に続きます

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