Izumo ancient history studies group
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- 私の出雲古代史研究 第1回
代表委員 菊地照夫 このたび、委員がコラム形式のブログ連載するという企画がはじまることになり、その先陣を任されることとなった。何を書けばいいのか、あれこれと考えてみたが、とりあえず「#私の出雲古代史研究」というテーマで、自分がどのようなスタンスで出雲古代史の研究と向き合い、何を研究し、何を明らかにしたのかを、何回かに分けて述べて責めを負うこととしたい。 私は1959年(昭和34年)9月生まれで、翌年2月生まれの現天皇(徳仁親王)とは学年が同期となる。幼いころから同年齢の「徳(なる)ちゃん」なる人物が、テレビ等マスコミで特別扱いされていることが気になり、また小学校2年生の時には前天皇(当時は皇太子、明仁親王)を直接見る機会もあり、かなり早い時期から天皇・天皇制って何だろうという問題関心が芽生えていた。1978年4月に国学院大学文学部史学科に入学したが、史学科に進学したのは、日本の歴史を学んで天皇制の起源を知りたいと思ったからである。 当時の国学院史学科の古代史には、林陸朗教授、鈴木靖民助教授、さらに東大を退官されたあと国学院に移られた学界の重鎮、坂本太郎教授もおられ、日本古代史を学ぶには最高の環境であった。これに加えて考古学には、樋口清之教授、乙益重隆教授、小林達雄助教授がいらしたのである。なんと贅沢な学問の場であったことか。 ところが入学したばかりの私は、このような素晴らしい史学科の先生には全く関心がなかった。入学して真っ先に訪れたのは文学科の尾畑喜一郎教授で、古事記講読の授業に出させていただいた。とにかく天皇制の起源を知るために古事記が読みたかったのである。 この授業では古事記を丁寧に読み、日本書紀と比較し、解釈をめぐる近年までの研究が詳細に紹介され、最後に先生が自説を述べるという要領で展開されたが、この授業で記紀の概要や読み方、解釈や研究上の基本的な論点を学ぶことができた。 『出雲古代史研究』の最新号(第31号)で私は、スサノオは本来出雲の神ではなく紀伊を原郷とする神であるとする松前健氏の説を踏まえてスサノオ神話の形成過程を考察したが(「スサノオ神話の形成に関する一考察」)、この松前説を最初に学んだのは尾畑先生の授業だった。 ただ尾畑先生は松前説を批判して、スサノオの原郷を筑紫の宗像とする独自の説を提示されていたが、私は松前説が妥当と考えている。それにしても一般的にはスサノオは出雲を原郷とする神と考えられており、研究者の間でもその見方は当時も今も根強いが、私の場合、古事記を本格的に勉強した最初の段階から、記紀の出雲神話に登場する神が、必ずしも出雲在来の神ではないというとらえ方を学んでいたのである。 ほかにも中村啓信教授と非常勤で出講されていた三谷栄一先生の記紀の授業を受けた。中村先生からは古事記の一語一語を実に丁寧に綿密に解釈する緻密な読みを学び、三谷先生からは民俗事例を踏まえた記紀の解釈の手法を学んだ。 「記紀神話において出雲が地上世界である葦原中国の中心に位置づけられているのはなぜか」という問題は、日本古代史研究の中の大きなテーマの一つだが、かつては、出雲にヤマト王権と対峙する強大な政治的または宗教的勢力が存在したというのが通説的な理解であり、オオクニヌシの国譲りは王権による出雲制圧と出雲側の服属の史実の反映と考えられていた。 そのような中で、三谷栄一先生は、出雲が特殊な地域として位置づけられるのは、出雲が大和から見て「戌亥(西北)の隅」の方角にあたることに起因するという独自の説を提示していた。先生は古典や民俗から戌亥の方角に祖霊の世界があるという観念の事例を多く指摘し、記紀神話における出雲の位置づけをその世界観に基づいて理解しようとしたのである。 この「戌亥の隅」信仰説そのものについては、私は十分に納得できなかったが、しかし記紀神話の出雲の位置づけの特殊性を、史実の反映としてではなく、王権側からみた世界観の問題ととらえる視点を学んだ。のちに私が、この出雲の特殊性を、王権の宗教的世界観の問題として考えるようになるきっかけは、三谷先生の教えにあったということができる。 国学院入学直後にお世話になった先生がもう一人いる。民俗学の坪井洋文教授である。高校時代、角川文庫で柳田国男の『桃太郎の誕生』『遠野物語』『日本の祭』などを読んで、民俗学にも興味をもつようになったが、高校の日本史の先生が和歌森太郎門下の民俗学者(河上一雄先生)であったことから、私は民俗学が歴史学の一分野と信じて疑わなかった。 そこで柳田がかつて国学院の教授であったことにも魅かれて、国学院の史学科を志望したのだが、入学してみると、国学院では民俗学は史学科でなく、文学科で開講されていたのには驚いた。しかしそんなことはどうでもよく、講義要項を見て、坪井先生の授業に潜り込んだのである。 坪井先生からは、稲作農耕民の信仰の特質、とりわけ稲霊に対する信仰について多く学んだ。私の研究の一番のオリジナルは、記紀、風土記等にみえる神話・伝承や新嘗祭、祈年祭等の祭祀を分析する手法として、「稲霊信仰」という概念を提示してモチーフの構造分析をおこなう点にあると自認しているが、私の「稲霊信仰」論の基本的な考え方は坪井先生から学んだものである(なお構造分析の手法は、大学4年でお世話になる小松和彦先生から学んだ)。 このように、大学入学後、1・2年生の頃は、史学科の勉強はそっちのけで、文学科の古事記・日本書紀や民俗学の授業を熱心に聴講していたのだが、今、あらためて振り返ってみると、この時学んだことや出会いが、自身の学問形成に大きな影響を及ぼしていたんだなあと、これを書きながら実感した次第である。 →11月1日(月)につづきます
- 私の出雲古代史研究 第2回
代表委員 菊地照夫 1978年に国学院大学の史学科に入学したものの、1・2年次には文学科の先生のところにばかりに足を向けて、史学科の先生とはほとんど交流がなかったことを前回述べた。しかし3年次になったばかりの4月、史学科同期の友人から古代史の鈴木靖民助教授の勉強会に誘われて、参加することになった。『岩波講座日本歴史』古代2の論文を参加者で分担してレポートする勉強会だったが、ここで私は岡田精司「記紀神話の成立」を担当することとなり、岡田先生の研究と出会う。 先生の著書『古代王権の祭祀と神話』も購入して併せて熟読し、古代王権の発展や律令国家の形成のプロセスを記紀・風土記等の神話伝承や王権祭祀を手掛かりに解明していく岡田先生の研究手法のおもしろさに魅かれて、卒業論文は岡田先生の研究をベースにしてテーマを探っていこうと心に決めた。 この時担当した「記紀神話の成立」は、古事記・日本書紀の神話の性格や形成過程を歴史学の立場から考察する上での最重要文献で、出雲神話についても貴重な指摘が多くなされている。伴造の奉仕伝承に由来する高天原神話に対し、出雲神話は地方神話の集合体であり、地方豪族が王権の新嘗に際して奏上した古詞(フルゴト)に由来するといい、スサノオのヤマタノオロチ退治は国造制段階、オオナムチの国譲りは国造制が否定された段階を反映するという指摘もある。 また国譲り神話について、オオナムチ服属の神話と邪神討伐の神話は本来別の神話であるという指摘も重要である。この論文が、私の歴史学的な立場からの記紀神話研究、とりわけ出雲神話の研究の原点となった。 岡田論文をレポートした翌月の1980年8月、私は初めて出雲を訪れた。門脇禎二『出雲の古代史』、東森市良・池田満雄『出雲の国』で予習し、『出雲国風土記』を拾い読みして、観光用のガイドブックを手掛かりに、初めての出雲を、案内人もなく、一人で手探りで歩き回った。 一日目は東京から寝台特急『出雲』で松江に到着し、駅前でレンタサイクルを借りて、まず風土記の丘資料館に向かい、国庁跡、神魂神社などを回ったあと、意を決して熊野大社まで足を延ばしたのは無謀だった。 しかも天気は雨。今でも車で熊野大社に向かう道すがら、この時のことを思い出すことがある。二日目もレンタサイクル。佐太神社から恵曇に出て、加賀の潜戸へ。島根半島東部の西半をぐるっと回る。三日目もレンタサイクル。またも雨。忌部神社、須賀神社、玉湯神社、玉作史跡公園。松江駅で自転車を返して、出雲市へ向かう。四日目は出雲大社を参拝し、日御碕神社へ。出雲市に戻って築山古墳、地蔵山古墳を見学する。五日目も雨。バスで須佐神社へ。途中からすごく長い距離を歩いた記憶がある。 このように私の出雲デビューは、天気に恵まれず、効率も悪く、ただ現地に行きましたというだけの旅行で、この時は古代史研究のフィールドとしての出雲の魅力を実感することはなかった。その魅力を知るのはこの10年後のこととなる。 鈴木先生の勉強会に参加していた同期のKさんの高校時代の日本史の先生が、鈴木先生と親しい古代史の研究者で、研究会でもその先生のことがしばしば話題になっていた。その方こそ関和彦さんである。たまたま鈴木先生の勧めで歴史学研究会の古代史部会に顔を出すことになり、行ってみるとそこに関さんがいた。初対面のときにはKさんと同期であることくらいしか話しをしなかったと思うが、この関さんと10年後の1990年に出雲古代史研究会を創設することとなる。この創立大会のために出雲を訪れた時に、関さんに直接出雲を案内していただいて、初めて風土記の世界が実感できる古代史研究のフィールドとしての出雲の魅力を認識したのである。 4年次、いよいよ卒業論文に取り組むこととなり、『大和王権と祭祀担当氏族』というテーマを設定して、王権祭祀を分掌する中臣氏と忌部氏の考察をおこなった。中臣氏と忌部氏の担当する祭祀の性格を検討し、どちらかといえば中臣氏にウエイトを置いた内容だったが、忌部氏についても史料や文献を読みこんだ。私の忌部氏と玉作と出雲の関係についての問題関心は、この卒論が出発点となっている。主査は鈴木先生だったが、卒論ゼミは林陸朗先生と鈴木先生が合同で行っており、両先生からの指導を受けた。 4年次の1981年度の当初、講義要項を見ると、民俗学の坪井洋文先生の肩書が教授でなく、兼任講師となっていたのに驚いて、鈴木先生にうかがったところ、坪井先生は千葉県佐倉市に新設される国立歴史民俗博物館に転出されたとのこと。非常勤での出講はあったが、国学院を去られたのはショックだった。 坪井先生の代わりということではなかったが、4年次に非常勤で出講していた、当時信州大学助教授の小松和彦先生の授業をとった。ちょうど小松先生の「日本神話における占有儀礼」という論文を読んでいたところで、卒論にも関わり質問したいことがあったので、最初の授業のあと、先生のところにうかがった。すると先生から、もう一人来るのでちょっと待ってくれと言われ、しばらくすると現れたのは大学院生の福原敏男さんだった。このあと三人でビールを飲みながら話しをし、この3人の飲み会は小松先生の授業の後の定例となってしまった。 その後、小松先生の提案で、ただ3人で飲んでいるだけではもったいないから、テキストを決めて勉強会をしようということになり、福原さんが大学院生や民俗学のサークルに声をかけて参加者を募り、後期からは10名ほどのメンバーで柳田国男『民間伝承論』とリーンハート『社会人類学』を分担して併読するゼミとなった。 小松先生は先の論文「日本神話における占有儀礼」で、国土占有儀礼と杖立ての問題を考察していたが、このゼミでも杖の呪術的性格が議論されたことがあった。1990年の出雲古代史研究会の第1回大会で、私は「国引き神話と杖」というテーマで報告をおこなったが、この時の報告内容の大半は小松ゼミの成果である。 以上のように大学生活後半の3・4年次では、鈴木先生の下で日本古代史を本格的に勉強するようになり、岡田先生の研究と出会って、自身の研究の方向性を見出して卒論に取り組み、小松先生のゼミで民俗学の方法論も学んだ。出雲との出会い、関さんとの出会いもこの時期だったが、私と関さんと出雲の関係が全面展開するのは、それから10年後のことだった。 →12月1日(水)につづきます
- 私の出雲古代史研究 第3回
代表委員 菊地照夫 大学卒業後の進路については、当初から高校の日本史の教員になりたいと思っていた。古代史の研究にも関心はあったが、高校時代の日本史の先生が教員をしながら研究者としても活躍されていた方で、そういう教員になりたいと考えて東京都の教員採用試験を受けたところ、幸いにも合格し、都立神津高校に採用された。 神津高校は、伊豆諸島の中ほどに位置する神津島の学校で、民俗学を勉強してきた自分にとっては格好の勤務先であった。1982年4月に赴任し、島の歴史や民俗、文化財を調査していきたいという意欲を示したところ、村の教育委員会から文化財専門委員をやらないかという声がかかり、快諾した。委員の中に神津島の歴史・文化の研究の第一人者である山下彦一郎先生がおり、ここで山下先生と面識を得て、神津島の民俗文化について多くの教えを賜った。 教育委員会の事務局にいた梅田武敏さんも郷土史家として活動していたが、神津島で一番お世話になったのは梅田さんだった。梅田さんから島の古老や多くの方をご紹介いただき、聞き取り調査をおこなうことができた。梅田さんの畑を借りて、初めて農業を体験したことも貴重な経験だった。在島中は磯釣りにも明け暮れていたので、島での生活はまさに半農半漁だった。 神津島には、物忌奈命神社と阿波命神社という二つの式内社(延喜式神名帳所載の神社)があった。伊豆諸島には多くの式内社が鎮座しており、それらの祭神は、いずれも後に伊豆国一之宮となる三嶋神社の祭神コトシロヌシの妻子の神々で、神津島の阿波命はコトシロヌシの正后、物忌奈命はその子とされており、ともに名神大社という格式の高い神社であった。ちなみに伊豆諸島の神社で名神大社はこの両社だけである。 このような伊豆諸島の神社のあり方は、火山の噴火活動と関連しており、特に神津島では平安時代初期の承和年間(838年ころ)に大噴火があったことが続日本後紀に詳細に記述されている。神津島の両社の厚遇は、この時の朝廷側の対応に基づくものであろう。 民俗学だけでなく、日本古代史研究の立場からも神津島を研究したいと思っていたので、このテーマは古代国家による伊豆諸島の支配の問題、天変地異と祭祀の問題として取り組むべき課題であった。神社のあり方から、三嶋神社を拠点として島々の神を祭る体制であったことは理解できるが、同社の祭神がコトシロヌシとされるのはなぜかという点が在島中から疑問で、未だに解決していない。 伊豆諸島は伊豆国の賀茂郡に属するが、郡名は大和盆地西南部の葛城の鴨(賀茂)の地に由来し、この地の神こそコトシロヌシであった。コトシロヌシは記紀ではオオナムチの子とされて出雲神話に組み込まれるが、オオナムチは国作りの神として活躍することから、奈良時代以降、噴火などで海中に島が出現するとオオナムチがしばしば官社として祀られている。伊豆諸島の場合も、そのようなオオナムチとの関りで理解していいのかが先ず問われるが、コトシロヌシは国譲りの神であり、国作りには関係しないので、その解釈は無理だろう。とすると記紀神話に組み込まれていない葛城の賀茂のコトシロヌシ本来の属性との関係が問題となるが、この点をめぐっては、伊豆国だけでなく全国各地にみられるカモ地名の歴史的な背景とも関り、一筋縄ではいきそうもない。葛城出身の役小角が伊豆の島に流されたとされることとの関係も考えられるが、よくわからない。今後取り組んでいきたい。 神津島赴任一年目の秋(1982年11月)、京都の立命館大学で開催された日本史研究会の大会に参加した。書籍売り場の塙書房のコーナーで本を見ていたところ、隣の方が書店の人と話をしており、話しの内容から、どうも岡田精司先生ではないかと思われた。勇気を出して声をかけようとしたところに、偶然関和彦さんが現れ、その方に挨拶するとともに、私を紹介してくれた。まさに岡田先生だった。 その後三人で喫茶店に行って話しをし、さらに近くにあった平野神社を訪れて、先生の案内で見学し、そこで関さんと別れた後は先生と京都駅まで同行した。古代史の勉強を始めて以来、学問の師と仰いでいた岡田先生と、いきなりこんなに親しく交流することができたのは、関さんのおかげ以外のなにものでもない。 それから5か月後の1983年4月、姉の結婚式が京都であり、式の前日の土曜日、京都国立博物館で開催されていた特別展を見学していたところ、会場で偶然、神祇祭祀の研究者の西宮秀紀さんに会った。この時西宮さんから、ちょうど今、岡田先生が主宰している祭祀史料研究会の例会が行われていると教えていただき、それならばと会場に行ってみた。すでに会ははじまっており、レジュメを受け取って席に着いたが、岡田先生は初対面以来の再会にもかかわらず、すぐに私を認識していただき、うれしかった。 この時の報告は忌部氏の祭祀がテーマで、私も卒論で忌部氏を扱ったことから、基本的な史料や文献には目を通していたので、議論に参加することができた。その場にはなんと松前健先生もいらした。大学時代から松前先生の本は、常に座右に置いていたので、直接お目にかかれたのは夢のようだった。また和田萃先生もおられ、神々の世界を訪れたような気分だった。内田順子さん、土橋誠さんと初めて会ったのもこの時で、お二人とは今にいたるまで交流が続いている。 報告やその後の討論の中で、当時発掘調査中の奈良県橿原市の曽我遺跡のことが取り上げられていた。曽我遺跡は大規模な玉作遺跡で、ヤマト王権の玉作工房とみられ、近くに忌部氏の祖神フトダマの命を祭る天太玉命神社も鎮座することから、ここでの玉作には忌部氏の関与が想定されたのである。岡田先生から、もし時間に余裕があったら是非とも見学するようにと勧められたので、結婚式の翌日に行くことを決心すると、和田先生から「現場に行ったら関川尚功さんを訪ねるように」といわれた。 2日後、大和八木駅からタクシーで曽我遺跡の現場に行ってみた。あいにく関川さんは不在で別の方が案内してくれたが、実は発掘現場の見学は初めてで、曽我遺跡の歴史的な価値の問題よりも、考古学の調査現場を直に見ることができたことの感動が勝っていた。この地に列島各地の玉材と玉作工人が集められて、王権膝下で大規模な玉生産が行われたこと、そこには出雲からも碧玉・瑪瑙とともに工人も出向していたことはなどの説明は、たぶん聞いたはずだと思うが、恥ずかしくも申し訳なくも、その場では知識にも記憶にも定着しておらず、まさかこの遺跡が、私の出雲古代史研究の中核的な位置を占めることになろうとは、当然のことながら、この時には思いもよらなかった。私が曽我遺跡と出雲との関係を論じたのは、1998年の「ヤマト王権の宗教的世界観と出雲」(『出雲古代史研究』7.8合併号)においてであり、この15年後のことであった。 →2022年1月1日(土)に続きます
- 私の出雲古代史研究 第4回
代表委員 菊地照夫 大学卒業後、東京都立高校の教員となり、初任の地伊豆諸島の神津島で3年間過ごした後、1985年4月、練馬区の都立石神井高校に異動した。 当時の都立高校には週一日出勤しなくてよい研修日があり、その日は母校の国学院大学で坪井洋文先生や三谷栄一先生の授業を聴講させていただいた。歴史学研究会の古代史部会にも毎回参加できるようになり、国学院で林陸朗先生と鈴木靖民先生が毎月開催している正倉院文書研究会にも参加させていただき、島にいる時とはちがって、勉強の機会は格段に増えた。 1985年の秋に千葉歴史学会の古代史部会が発足し、千葉大学の吉村武彦さんの研究室で月例会が行われることになり、参加させていただくことになった。主なメンバーは吉村さんのほか、伊藤循さん、鈴木英夫さん、丸山理さん、吉井哲さん、加藤公明さんなどであった。例会では類聚三代格の巻19禁制を輪番で読み解釈していくのだが、これが面白く、平日の夜に、勤務先の西武新宿線武蔵関から総武線西千葉の千葉大学まで2時間近くかけて移動するのも全く苦にならず、毎月の研究会を楽しみにして参加した。 この長い移動時間の、特に帰りは貴重な時間だった。研究会のあと西千葉駅周辺で飲んで、それから都心に帰るのだが、帰路は西千葉から御茶ノ水まで、吉村さんと一緒だったのである。当時吉村さんは国家形成期の諸問題に取り組み、記紀の伝承や祭祀にも関心をもっており、電車の中での会話から多くのことを学ぶことができた。 ある時、電車の中で吉村さんにちょっとした質問をしたところ、「君も研究者なんだから、そんなことは自分で考えなさい」と言われたことがあった。この一言は衝撃的だった。それまで自分が研究者などと考えたことは、一度もなかったのである。自分が研究をしているという自覚もなく、勉強をしているのだという意識であった。この一言で、そのような無自覚な姿勢は甘えであることを思い知らされる一方、自分が研究者として見られている、扱われていることを初めて認識した。 1986年4月、法政大学院の人文科学研究科日本史学専攻修士課程に入学することとなった。法政大学の日本史専攻の大学院は夜間に開講されており、社会人でも通学することが可能だった。大学時代の指導教員である鈴木靖民先生が法政大学院に出講しており、先生から入学を強く勧められて受験したところ、幸いにも合格し、高校教員と大学院生の二重生活が始まった。 当時、法政大学文学部史学科には文献古代史の専任教員はおらず、考古学専攻の古墳時代を専門とする伊藤玄三教授が文献古代史の院生も指導することになっており、私は伊藤ゼミ(考古学研究室)の所属となった。しかし古代史の直接的な指導は鈴木先生から受け、一年目には、やはり非常勤で出講していた笹山晴生先生にもお世話になった。 大学院入学当初に掲げた研究テーマは「古代王権と新嘗」であった。卒論以来、岡田精司先生の学問を追究して勉強を積み重ねていたが、その中で自分なりに先生の学問を発展的に、あるいは批判的に継承できるのではないかと思える論点がいくつかあった。それに取り組んでみようと考えたのである。 そのひとつが天孫降臨神話と王権の新嘗との関係である。戦前の折口信夫の「大嘗祭の本義」以来、天皇位就任儀礼の中心は大嘗祭であり、天孫降臨神話は大嘗祭の祭儀神話と理解されてきた。しかし岡田先生は、天皇の就任儀礼の中心はレガリア(後の三種の神器)が奉献される即位儀にあり、その祭儀神話が天孫降臨神話であるという見解を提示していた。これに対して私は、天孫降臨の本来の指令神であるタカミムスヒを王権新嘗の神ととらえ、天孫降臨神話の原形は令制前代のヤマト王権の新嘗の祭儀神話ではないかと考えていた。 もうひとつ、岡田先生のヤマト王権の新嘗についての理解に大きな疑問があった。律令国家の天皇がおこなうニイナメ(新嘗)の儀礼は、即位後最初におこなう大嘗祭とその後毎年おこなう新嘗祭の二つに区別されており、大嘗祭では畿外の悠紀国・主基国に斎田が卜定されてその稲を用いて神事が行われたが、毎年の新嘗祭では畿内の官田(屯田)の稲が用いられていた。それでは令制以前のヤマト王権の新嘗はどのようにおこなわれていたかというと、これについては岡田先生のニイナメ・ヲスクニ儀礼論という有名な学説があった。先生は、ヤマト王権の新嘗儀は、国造の子女である采女が当地の稲で調理した飯・酒を献上し、聖婚をおこなう服属儀礼として行われたとし、これをニイナメ・ヲスクニ儀礼と称した。そしてそれが律令国家の大嘗祭に継承されるという。 私は、このような岡田先生のヤマト王権の新嘗儀の理解について疑問に思っており、令制前代の新嘗を継承しているのは大嘗祭ではなく、むしろ毎年の新嘗祭ではないかという見通しをもっていた。以上のような岡田先生の古代王権の新嘗をめぐる見解と対峙して、自分なりの見解を打ち出してみようというのが、大学院入学時に掲げた研究テーマだった。 千葉歴史学会の古代史部会7月例会のあと、伊藤循さんから学会誌『千葉史学』に論文を投稿しないかというお話しをいただいた。ちょうどこれから夏休みに入るところだったので、夏休みの宿題のつもりで受諾した。 これまで歴史学の論文は書いたことがなく、どのようなプロセスで論文を作成していくかということもよくわからなかったが、とりあえず史料に即して思考を展開し、それを論理的に整理していった。論文のタイトルは「顕宗三年紀二月条・四月条に関する一考察―大和王権の新嘗と屯田―」で、日本書紀の顕宗紀の記事を手がかりに令制前代のヤマト王権の新嘗のあり方を解明しようとするものだった。同記事は、託宣によって「歌荒樔田(うたのあらすだ)」を月神に、「磐余田(いわれのた)」をタカミムスヒに献上したという内容だが、ここにみえる「歌荒樔田」と「磐余田」は王権の直轄領である屯田であること、この記事は王権の新嘗用の稲を栽培する斎田として「歌荒樔田」と「磐余田」が卜定されたことを示す祭儀伝承であること、令制前代のヤマト王権の新嘗は畿内の屯田から斎田を卜定して行われており、それが令制の毎年の新嘗祭に継承されることを論じた。要するにこの論文は岡田先生のニイナメ・ヲスクニ儀礼論への批判でもあった。しかし駆け出しの実績のない身としては、論文の中でそれを正面に据えて主張することはできなかった。 9月上旬に書き上げると、すぐに岡田先生に電話をして、論文を書いたのでご指導をお願いしたいと伝えた。するとすぐに送るようにといわれ、コピーを速達で送った。先生がどのように評価してくれるか不安だったが、数日後先生から電話があり、その第一声は「力作ですね!」というおほめの言葉だったのはうれしかった。電話でいくつかの修正の指示を受け、後日赤入れした原稿が送り返されてきて、それを反映させてより質の高い論文に仕上げることができた。電話の中で、勇気を出してニイナメ・ヲスクニ儀礼論のことにもふれてみたが、先生は「修正しなければいけませんね」と一言おっしゃっただけだった。 こうして初めての論文が完成し、その年(1986年)の12月発行の『千葉史学』第9号に掲載された。本来修士論文となるはずのテーマだったものが、いきがかり上、修士課程の一年目で論文になってしまった。 なおこの論文で、ヤマト王権の屯田として最重要視されていたのが、日本書紀の仁徳即位前紀にみえる「倭屯田」であり、顕宗紀にみえる「磐余田」も倭屯田の一部であることを指摘した。この倭屯田を管掌する屯田司が出雲国造の祖である淤宇宿禰(おうのすくね)であることは、ヤマト王権と出雲との関係を解明する重要なてがかりとなるのだが、そのことに気づくのは、ずっと後のこととなる。 →2月1日(火)に続きます
- 私の出雲古代史研究 第5回
代表委員 菊地照夫 1986年4月、大学時代の恩師である鈴木靖民先生が非常勤で出講している法政大学院に進学したが、翌年度、鈴木先生は中国の吉林大学に一年間留学することとなったため、大学院の日本古代史は国立歴史民俗博物館教授(歴史研究部長)の虎尾俊哉先生が担当することになった。 虎尾先生といえば、班田収授法、延喜式の研究の第一人者で、当時の私の目からは古代史学界の権威的存在で、天上界の大先生という印象であり、指導教授の伊藤玄三先生から虎尾先生が来られると聞かされときには、どんな厳しい指導が待ち受けているかと緊張するとともに、自分の未熟さに呆れられてしまうのではないかと不安になった。 そんな気持ちをいだきつつ、1987年4月、最初のゼミの日を迎えたが、予想通り虎尾先生は厳しかった。延喜式の演習だったが、巻22民部式上を一人が2条ずつ担当し、読み下して、意味を取って解釈し、令との関係や、その式の成立について(弘仁式段階か、貞観式段階か、延喜式で規定されたものか)考察する報告が課せられた。特に史料の読みについては厳格で、助詞の使い方、自動詞・他動詞の別、口語的な言い回しを避けることなど、とにかく厳しい指導を受けた。 先生は時間にも厳格だった。18時30分の始業時ピッタリにゼミを開始し、20時の終業時ピッタリに終わり、すぐにお帰りになる。雑談等余計な話は一切なさらず、ゼミ開始当初しばらくの間は、世間話的な会話もほとんどしたことがなかった。 何回目かのゼミのあと、お帰りになる先生を追いかけて、前年『千葉史学』9号に書いた拙稿「顕宗三年紀二月条・四月条に関する一考察―大和王権の新嘗と屯田―」の抜刷を進呈したところ、先生は驚いた顔をして受け取ってくださった。驚いた理由は掲載誌が『千葉史学』だったからである。同誌を発行する千葉歴史学会は千葉大学に史学科が新設され、千葉県佐倉市に国立歴史民俗博物館がオープンしたことを機に、千葉を新たな歴史学研究の拠点にしようという趣旨で設立された学会で、歴博教授である先生も、同誌に文章を書いたことがあり、縁のある雑誌だったのだ。なぜここに書いたかを問われ、千葉歴史学会の古代史部会に参加している旨を説明して、納得していただいた。 次のゼミの時、前回抜刷を差し上げたことなどすっかり忘れていたのだが、ゼミが終わって先生が立ち上がり、帰りかけた時、立ち止まってこちらを向き、「先週いただいた論文、読ませてもらったけど、面白かった。延喜式の引用もよろしい」というお言葉をいただいた。拙稿では、延喜式の巻30宮内式の官田に関する式を引用して律令制の新嘗祭のありかたに論及していたが、延喜式研究の第一人者からこの点を評価していただけたのはうれしかった。虎尾先生は後に延喜式全巻の訳注に取り組み、私もこのお仕事を手伝うことになるが、私が巻30宮内式の訳注を担当することになったのは、この引用が契機だったのかもしれない。 前期最後のゼミのあと、勇気を出して先生に前期の打ち上げで飲みに行きませんかと誘ってみたところ、意外にも先生は快諾してくれた。そこで先生を飯田橋の居酒屋にお連れして乾杯すると、それまで余談、雑談、世間話もほとんどなかったのがウソのように、先生は饒舌に、いろいろなお話をしてくれた。この飲み会を機に、後期からはすっかり打ち解けて、相変わらず厳しいゼミではあったが、多くの会話が自然に交わされるようになった。 虎尾先生のゼミには、修士課程修了後も参加させていただいた。1993年に先生の法政出講が終わったあと、虎尾ゼミは研究会(法政大学延喜式攷究会)として継続し、その後2010年10月まで、24年にわたって虎尾先生の下で延喜式を研究することになった。 1987年5月、歴史学研究会古代史部会でお世話になっている加藤友康さんから電話があり、第15回古代史サマーセミナーでの報告を依頼され、引き受けた。古代史サマーセミナーは、全国の古代史研究者が合宿して交流を深めるイベントで、毎年8月に、各地を転々として開催されていたが、その年は島根県で開催されることになっていた。出雲神話の舞台の地での開催であったが、私に課せられた報告の内容は、まさに出雲神話についてであった。 8月、大学3年の時に初めて出雲を訪れて以来(第2回参照)、7年ぶりの出雲、しかも全国の古代史研究者の前で研究発表をするという大きなミッションを抱えての訪問となった。会場は、JR松江駅のひとつ先の乃木駅から徒歩ですぐ、宍道湖に面した国道9号沿いの宿舎だった。2泊3日でおこなわれ、1日目の午後に開会して基調的な報告、夜は懇親会、2日目は午前中にシンポジウム、午後は個別報告、3日目は見学会という日程であった。 1日目、基調的な報告を関和彦さん、内田律雄さんなどが行った。夜の懇親会では、乾杯の発声に島根大学名誉教授で考古学の山本清先生が指名された。この時、山本先生は立ち上がると、いきなり「ウオォー!」という大声を発して参列者を驚かせ、「ヤマタノオロチから皆さんへの歓迎のあいさつです」と述べて、懇親会の雰囲気を一気に和ませた。 2日目のシンポジウムが私の出番だった。パネリストは島根大学の渡辺貞幸さん、学習院大学の遠山美都男さんと私の3人で、渡辺さんが出雲地方の古墳の編年について、遠山さんが岡田山1号墳出土鉄剣銘の「額田部」に絡めて出雲の部民制について、私がヤマタノヲロチ神話形成の歴史的背景について報告した。 私の報告は、スサノオによるヤマタノヲロチ退治の神話を分析して、その背景に国造制・屯倉制に基づく在地の新嘗の祭儀を想定するという内容であった。昨年『出雲古代史研究』第31号に発表した「スサノオ神話の形成に関する一考察―出雲降臨神話をめぐって―」は、この時の報告の内容を発展させたものである。 この報告で、古代の出雲を究明するアプローチとして次の三つの視点を提示した。一点目は古代の出雲地域の様相を明らかにすること、二点目はヤマト王権と出雲との関係の実態を明らかにすること、三点目はヤマト王権の神話的世界観の中での出雲観を明らかにすることの三点である。そしてこのシンポでは渡辺報告が一点目、遠山報告が二点目からの視点であり、私の報告は三点目からのアプローチであることを述べた。この三つの視点は相互に関係しあうものではあるが、記紀神話研究における出雲の問題は、王権の神話的世界観とその前提となる宗教的世界観の問題として検討されるべきであるという三点目の視点が私の研究の基本的な姿勢であり、サマーセミナーはそれを表明する場となった。2016年に刊行した私の論文集の『古代王権の宗教的世界観と出雲』という書名は、この第三の視点そのものなのである。 2日目の夜に、立食での交流会があった。ここで島根県の三宅博士さんから声をかけられて話しが弾み、その会話の中で、私が当時漠然とイメージしていたことを、三宅さんに喋りまくってしまった。記紀神話の世界観における出雲の位相は、古い時代の紀伊の位相が移されたという考え方を力説したのだが、三宅さんには、若造の妄想を聞かされて、さぞ迷惑だったろうと申し訳なく思っている。 この妄想は、後に拙稿「ヤマト王権の宗教的世界観と出雲」(『出雲古代史研究』第7・8合併号)、「出雲国忌部神戸をめぐる諸問題」(岡田精司編『国家と祭祀の歴史学』塙書房)で問題提起して、私の出雲古代史研究の中核的な論点となり、この中でヤマト王権の玉作と出雲との関係が重要なテーマとなった。一方三宅さんは、後に松江市立玉作資料館の館長となられ、私は玉作に関する調査で、たびたび三宅さんのお世話になることとなった。セミナーでの出会いの因縁を感じている。 このセミナーの事務局長は、考古学の松本岩雄さんだった。古代史サマーセミナーの事務局長は、通例では文献史学の研究者が引き受けていたが、当時島根県には文献史学の古代史研究者というと高校教員をしておられた野々村安浩さんくらいしかおらず、松本さんが鈴木靖民先生からの依頼を受けて引き受けたという。 松本さんとは、資料集の原稿やレジュメのことなど、事前に何度も電話で連絡を取り合い、大変お世話になった。松本さんのご尽力により、第15回古代史サマーセミナーは大成功であったが、このセミナーはそのあとが素晴らしかった。 松本さんは、報告者に原稿を依頼して、サマーセミナーの記録集『出雲古代史の諸問題』という立派な冊子を刊行したのである。私の報告も「出雲神話の背景―スサノオの出雲降臨神話を中心に―」という題で掲載されている。サマーセミナーでは、それまでも記録集は作成されていたが、これだけ見事な記録集は、私の知る限りでは(セミナーには第9回から参加しているが)見たことがない。 原稿の依頼から、入稿、校正も、恐らく松本さんがほとんどお一人で担当されたのではないかと思われる。当時はまだ活版印刷だったので、校正はさぞご苦労されたことだろう。セミナーが開催された1987年の年内に刊行されており、その迅速さも驚きである。第15回古代史サマーセミナーは、こうしてしっかりと形に残されているのである。 そしてこのサマーセミナーは、もう一つ大きなものを生み出した。それは当会、すなわち出雲古代史研究会である。このことについては回を改めて述べることとしたい。 →3月1日(火)に続きます
- 私の出雲古代史研究 第6回
代表委員 菊地照夫 1986年4月に入学した法政大学大学院人文科学研究科日本史学専攻修士課程は夜間に開講されており、修了に要する年限は3年であった。この間、文献古代史の中心的な指導は、1年目は鈴木靖民先生、2、3年目は虎尾俊哉先生から受け、このほか1年目には笹山晴生先生(日本書紀)、2年目には山中裕先生(御堂関白記)、平川南先生(出土文字資料)、3年目には阿部猛先生(北山抄)の授業があったが、指導教授が考古学の伊藤玄三先生だったので、伊藤先生の考古学の演習は必ず毎年履修しなければならなかった。 専門外の演習は率直にいって辛かったが、1期上に琉球弧考古学の高梨修さん、1期下に弥生時代の古庄浩明さん、2期下に旧石器時代の佐藤宏之さん、古墳時代の澤田秀実さんなどがおり、現在も考古学の第一線で活躍している方々と狭い研究室のテーブルを囲んで勉強することができたのは、今から振り返ると貴重な時間だった。 2年目の後期の中頃から、修士論文のテーマをどうするかが問題となってきた。入学当初に取り組みたいと構想していたヤマト王権の新嘗祭をめぐる問題については、たまたま1年目に論文として発表することとなり(第4回参照)、これを踏まえて問題点を深めていく方向性もあったが、全体的な構想を描くことができなかったので断念し、律令国家によって行われた新嘗儀礼の一つである相嘗(あいなめ)祭という祭儀をテーマにすることとした。 相嘗祭は、神祇令に規定された恒例の国家祭祀である。神祇令には新嘗の祭儀として、①9月の神嘗祭、②11月上卯日の相嘗祭、③11月下(中)卯日の大嘗祭の三つがある。①神嘗祭は伊勢神宮の新嘗儀礼、③大嘗祭は天皇の行う新嘗儀礼であり、この両者については史料も多く、後世にも継続されることから、祭儀の様相については、だいたいのイメージは共有されている。しかし②の相嘗祭については、神祇令に祭日、延喜式に対象社と幣帛の内容および受領の規定があるが、祭儀の実態や意義については不明な点が多く、対象社が畿内および紀伊の有力社に限られていること、天皇の新嘗儀礼である③大嘗祭の12日前の卯の日に行われることから、天皇の新嘗祭に先立って畿内と紀伊の有力社の新嘗儀に国家が幣帛を奉る儀礼というのが一般的な理解であった。 私が相嘗祭を修論のテーマに選んだ理由は二つある。以前、矢野建一さん、三宅和朗さんとの会話の中で相嘗祭のことが話題になったことがあり、その時、神祇祭祀研究ではトップクラスの両氏が、相嘗祭とはいかなる祭儀かよくわからないと述べていたのが印象に残っていた。そこで修論でこれを解明しようと思ったのが一つ目。 もう一つは、1987年に国学院の大学院で神道史学を専攻している楠本孝行さんが相嘗祭に関する論文を発表し(「相嘗祭班幣と神事」『神道学』134)、それに大きな刺激を受けたことである。同論文で楠本さんは、神祇令が相嘗祭の祭日と規定する11月上卯日には、神祇官で対象社の神主らに幣帛を頒かつ班幣が行われ、12日後の天皇の新嘗祭が行われる下(中)卯日に各社で奉幣と神事がおこなわれたという、これまでにない相嘗祭の祭祀形態を提示し、相嘗祭を、畿内・紀伊の有力神が天皇と相共に新嘗を行う祭儀と理解した。すなわち神祇令に規定された11月上卯日は、神祇官で班幣が行われる日であり、各社での相嘗祭の祭儀は下(中)卯日の天皇の新嘗祭に合わせて行われたというのである。 楠本さんには歴史学研究会古代史部会や国学院でお世話になっており、相嘗祭についても多くのご教示を受けており、当初は楠本さんの相嘗祭の理解を受け容れていた。この楠本説に依拠して相嘗祭の理解を深めていこう考えたのだ。 こうして修士論文のテーマを相嘗祭の研究と定め、1987年の年末頃から具体的な取り組みを始めた。 研究の方向性を見定めようと思い、岡田精司先生に、先生が主宰する京都の祭祀史料研究会の例会での報告をお願いしたところ、1988年の2月例会で報告させていただくこととなった。相嘗祭の自分なりの理解を岡田先生に聴いていただき、ご意見をうかがうことが目的であったのだが、結果は悲惨だった。 私は、自分の研究のスタイルとして、民俗学的なアプローチを用いることにこだわりをもっていた。とりわけ新嘗については、通説的な稲の収穫感謝祭という理解を否定して、農耕儀礼としては稲霊の死と再生の儀礼、王権の新嘗においては天皇の霊威再生儀礼という性格の祭儀であることを強調していたが、ここに大きな落とし穴があった。 私は、相嘗祭では天皇の新嘗に合わせて畿内・紀伊の有力神の新嘗が行われるという楠本説に依拠し、相嘗祭の対象社の神を天皇の霊威(天皇霊)を構成する神ととらえて、相嘗祭とは天皇霊を総体的に再生させる新嘗なのだという、妄想著しい仮説を打ち立ててしまったのだ。そしてこれを引っ提げて京都に遠征したのである。 祭祀研2月例会には岡田先生、松前健先生をはじめ、相嘗祭に取り組むきっかけをくれた三宅和朗さん、内田順子さん、土橋誠さん、榎村寛之さんなど錚々たる顔ぶれが並んでいた。そのような中で、上記の相嘗祭=天皇霊再生儀礼説というとんでもない仮説を報告してしまったのだが、当然のことながら岡田先生はじめ参加者からはボロクソにたたかれた。基本的な史料の読みが甘く、実証に乏しい点が何より批判された。依拠していた楠本説にも批判が及んだ。 本来であれば、これだけダメ出しされれば、全面的に退散してこの方向性は破棄されるべきであったが、愚かな私は楠本説に依拠することはやめたものの、天皇霊説から完全に脱却することができなかった。そして岡田先生にお願いして9月例会でもう一度報告をさせていただいたのだが、二度目の報告は2月よりももっと悲惨だった。前回と同様に批判されたのだが、前回批判されたところが修正されていないことも批判され、祭祀研メンバーを呆れさせてしまった。 研究会修了後、京都駅まで岡田先生と一緒だったが、京都駅で先生とお別れするとき、先生は厳しい言葉で私を叱責した。まさにお説教だった。今回の報告も前回の報告も、私の研究姿勢も、今のままではだめだと怒られ、時間にして5分くらいだったろうか、当時の印象ではもっと長く感じたが、立ったまま先生のお話を延々と拝聴したのである。お言葉の中には「君を見損なった」というきついフレーズもあった。どうしようもない報告を二度も行った私に対する怒りが爆発したのだろう。 これによって、修論に向けてのこれまでの自分の研究姿勢や取り組み内容が無意味であったことにようやく気づいたのだった。修論の提出まで残り3か月ちょっとしかなかったが、ここで0からの出発となった。 この時が人生最大の“どん底”だった。しかしどん底まで沈み切ると、あとは浮上するのみである。岡田先生から実証の不足をきつく叱責されたのだが、それを肝に銘じて、今後はとにかく史料をとにかく丁寧に読み込んで、実証に徹していこうと決意し、民俗学的アプローチは封印した。 まず相嘗祭を理解する上でもっとも基本となる延喜四時祭式下の相嘗祭条の徹底的な分析をおこなった。これが第1章となる。 次に相嘗祭の幣物が調の初物=荷前(のさき)であることを論証し、また相嘗祭の対象社の神が王権、国家の守護神であることを明らかにして、相嘗祭は調の荷前を王権、国家の守護神の新嘗儀に合わせて供献し、律令国家の人民支配の無事を報告する祭儀であったと説き、これが第2章となる。 そして相嘗祭の構成や日程的な問題について楠本説を批判し、対象社の神主らは11月上卯日以前に個別に神祇官に出向いて各社所定の幣帛を受領し、上卯日の朝に各社で奉幣儀、夜に神事が行われ、狭義の相嘗祭は朝の奉幣儀礼を指すと説き、これが第3章となる。 こうした内容をまとめている最中に、鈴木靖民先生が、国学院大学の国史学会12月例会で報告をする機会を与えてくれた。そこで相嘗祭の構成や祭祀形態について報告することにしたが、当日にはなんと神道学科の岡田莊司先生と高森明勅さんが最前列に陣取っておられた。報告は楠本説批判の内容となったが、当時の国学院の神道史研究者の間では楠本説が評価されており、質疑では岡田莊司先生や高森さんから、楠本説擁護の立場で多くの質問が寄せられた。例会のあとも高森さんから自宅に何度かお電話をいただいて、多くのご教示を賜りありがたかった。 年が明けて1989年1月9日に、無事修士論文を提出することができた。なおこの2日前の1月7日に昭和天皇が亡くなり、元号は昭和から平成に改まっていた。 その後、修論の第1章は「相嘗祭の基礎的考察」(『法政考古学』20)、第2章は「律令国家と相嘗祭」(虎尾俊哉編『律令国家の政務と儀礼』)、第3章は「相嘗祭の祭祀形態について」(『延喜式研究』15)という形で論文化することができた。 修論に由来する、この相嘗祭三部作は、民俗学的アプローチの全くない、実証に重きをおいた論文で、私の論文の中では異質といえるのだが、このような論文が生み出された背景には、京都駅における岡田先生の厳しい叱責があったのである。私の修論体験は、まさに“死と再生”そのものだった。 延喜四時祭式下に掲げられた相嘗祭の対象社の最末尾に紀伊国の鳴神社がある。この神社の相嘗祭用の酒を醸造する稲は、延喜式によれば神税を用いることになっているので、鳴神社には神戸があったことがわかる。ところが平安初期の神戸をリストアップしている大同元年牒神封部という史料には、紀伊国で神戸を持つことが明らかな神社のうち、この鳴神社だけが見えない。一方大同元年牒には紀伊国に神戸を有する神社として忌部神社があり、紀伊国ではこの神社のみが対応社不明であることから、この忌部神社が鳴神社である可能性が高い。 この論点は修士論文の第1章でも取り上げていたが、この忌部神社には、紀伊国だけでなく出雲国にも神戸があった。それが出雲国風土記の意宇郡に見える忌部神戸であるが、忌部神社が紀伊国の鳴神社とすると、なぜ紀伊の神社の神戸が出雲にあるのかが問題となる。 後にこの問題に正面から取り組んだ成果が「出雲国忌部神戸をめぐる諸問題」である。この論文は岡田精司先生の古稀を記念して刊行された論文集『祭祀と国家の歴史学』に寄稿したものだが、岡田先生にお世話になって作成した修論から派生したテーマを先生への献呈論文とすることができたことは感慨深い。それに加えて岡田先生がこの論文をとても高く評価してくださったこともうれしかった。 →4月1日(金)に続きます
- 私の出雲古代史研究 第7回
代表委員 菊地照夫 1990年1月28日、関和彦さんから飲み会の誘いの電話があった。それに従って2月3日、お茶の水の居酒屋に行ってみると、関さんのほか、瀧音能之さん、小林覚さん、荒井秀規さん、武廣亮平さん、そして島根から内田律雄さんがいらしていた。この集まりは単なる飲み会ではなかった。文献史学の立場から出雲の古代史を究明するための全国規模の研究会を新しく作ろうという、その準備のための会合であった。 このような研究会を作ろうという動きがおこったきっかけは、1987年に松江で開催された第15回古代史サマーセミナーにあったという。同セミナーについては、以前こちらでも紹介したが(第5回)、考古学の松本岩雄さんが事務局長となって盛大に開催され、出雲古代史の諸問題が多角的に議論され立派な報告集も作成されて、成功裏に終わったのであるが、一方でこのセミナーを通して、地元出雲における出雲古代史研究の実情の問題点が省みられることになった。 古代の出雲については、出雲国風土記が地域の情報を詳細に伝えており、正倉院文書に出雲国計会帳や大税賑給歴名帳など文献史料が存在し、何よりも記紀神話の重要な舞台とされ、それと関わる出雲大社も存在しており、出雲は文献史学の研究対象としての絶好の条件が整ったフィールドである。特に出雲大社に関わる問題には、古代国家形成や古代王権の確立という大きなテーマも内在している。 ところがサマーセミナー開催当時、このような古代史研究の魅力あふれる出雲の現地に、文献史学の古代史研究者は、高校教員の野々村安浩さんと県職員の若槻真治さんくらいしかいなかった。島根大学にも文献古代史専門の教員はおらず、中世史を専門とする井上寛司さんが古代史の領域も担当されていたという。 私が聞いたところでは、この状況を憂いた井上さんを中心に、島根に出雲の古代史を文献史学の立場から研究する全国的な組織を作ろうという動きがおこり、東京の関和彦さんにその組織化の依頼があったという。1990年2月の関さんによる招集は、その新しい研究会を立ち上げるための会合だったのだ。 この会合で、出雲古代史研究会を発足させて、7月に島根で創立大会を開催することが決まった。ここに集まったメンバーは、皆委員となって会の運営を担うこととなり、さらに大会の統一テーマを「国引き神話の再検討」と決めて、報告者も割り当てた。なんと私も研究報告をすることになってしまった。 東京側の委員が集まって話し合ったのはこの時だけで、大会開催までの詳細な段取りは、関さんと島根側のスタッフが詰めていった。私は記念すべき最初の大会で報告をすることになってしまったので、どのような視点から国引き神話にアプローチするか、お茶の水の会合の翌日からさっそく文献にあたって検討をはじめた。報告のテーマは、とりあえず「国引き神話の周辺」(仮題)と関さんに伝えた。 国引き神話は、出雲国風土記にみえる出雲の国土創成神話で、ヤツカミズオミズヌという神が朝鮮半島、隠岐、北陸から国土を引っ張ってきて、島根半島の部分が形成されたという壮大な神話である。オミズヌは国引きを終えると、「意宇の杜(おうのもり)」に杖を突きたてて「おえ」を叫び、それでその地を「おう(意宇)」と称すのだという、意宇郡の地名の由来も物語っている。 私が報告で問題にしようと思ったのは、オミズヌによる国引きではなく、それが終わったあとの杖を突きたてるという行為についてであった。なぜオミズヌは杖を突きたてたのか、その行為にはどのような意味があるのか…というような杖にまつわる問題をとおして国引き神話にアプローチしてみようと考えたのである。 杖が、単なる歩行者の介助の道具ではなく、宗教的な性格を有する呪具であることは日本だけでなく世界各地の神話・伝説・昔話にみられ、このような杖の性格については大学4年次の小松和彦先生のゼミで多くを学んでおり(第2回参照)、その時の学習の成果を総て投入して、報告をまとめ上げた。 出雲古代史研究会の第一回大会は、1990年7月29日に島根大学で開催されることになった。さらに30日には見学会も予定された。 東京からこれに参加するメンバーのために、7月28日出発、8月1日帰着の4泊5日の出雲ツアーが関さんによって企画された。大会・見学会の前後にレンタカーでの独自のフィールドワークが組み込まれており、宿の予約や航空券の購入、レンタカーの手配などは、全て関さんが行ってくれた。 7月28日(土)早朝、私は羽田空港に向かった。羽田といっても、今の第1・第2ターミナルではなく、それができる前の、現天空橋にあった旧ターミナルビルに7時に集合した。関さん、瀧音さん、小林さん、荒井さん、武廣さんなどのメンバーがそろっていた。航空会社はJAS(日本エアシステム)で、離陸するとあっという間に出雲空港に着いてしまったのには驚いた。出雲を訪れるのはこの時が3度目だったが、過去の2回はいずれも寝台特急「出雲」で訪れていて、飛行機での来訪は初めてだった。 到着すると、まずレンタカーで荒神谷遺跡、次に鰐淵寺、一畑薬師、玉作資料館を見学して、14時半に宿泊するホテル一畑にチェックインした。そしてすぐにタクシーで島根大学に向かい、15時ちょうどに島根大学の井上寛司さんの研究室に到着した。そこで井上さん、野々村さん、内田さん、若槻さんという島根側の委員と、われわれ東京側の委員が合流し、出雲古代史研究会の委員が顔をそろえ、委員会を開催して翌日の進行や役割分担を打ち合わせ、レジュメ・資料のセットづくりをおこなった。西日の差し込む島大史学資料室でのこの時の作業の光景が、印象深く記憶の片隅に残っている。 7月29日(日)、いよいよ大会の当日を迎えた。9時に島根大学に集合して、会場のセッティングをおこなった。会場は法文棟2階会議室。10時に総会が始まったが、総会の議長は小林覚さんが務めた。小林さんはその後も毎年総会議長を務めており、それは小林さんが急逝する前年の2013年まで続いた。 総会では、出雲の古代史を文献中心に明らかにすることを目指す研究会としての出雲古代史研究会の発足が宣言され、会則を審議し、役員の選任がおこなわれた。選出された役員は次のとおり。 事務局長を井上寛司さんが務め、事務局を島根大学法文学部の井上さんの研究室とした。 こうして出雲古代史研究会は無事に発足し、引き続き研究会が開催され、『国引き神話の再検討』を統一テーマとして、次の5人の研究報告が行われた。 野々村安浩「出雲古代史研究と国引き神話」 武廣 亮平「国引き神話研究史」 内田 律雄「国引き神話の舞台裏」 瀧音 能之「八束臣津野命の神名について」 菊地 照夫「国引き神話の周辺―杖をめぐって―」 報告に続いて、活発な質疑討論が行われ、研究会は盛況であった。これらの報告は、後日論文にまとめられ、翌年に創刊された『出雲古代史研究』第1号に掲載されている。 翌日(7月30日)には見学会が開催され、9時に島根大学に集合し、地元の方の乗用車に参加者が分乗して巡検を行った。見学会のテーマも「国引き神話」で、まず八雲立つ風土記の丘資料館で出雲国風土記の写本をみて、前日の研究会で私が指摘した国引き神話の写本、校訂の問題を確認し、次に国引き神話の最後でヤツカミズオミズヌが杖を突きたてた「意宇の杜」の2つの比定地を訪れた。さらに風土記の「朝酌の渡」に相当する矢田の渡を渡って国引きされた島根半島側に移動して、「北門の良波国」から引っ張ってきたとする「闇見(くらみ)国」の地名が遺る久良弥神社、「高志の都都の三埼」から引っ張ってきたとする「美保の埼」の美保神社、地蔵崎をまわった。 前日の研究会で熱く議論された国引き神話の舞台の現地をフィールドワークするというのは、まさに出雲古代史研究会ならではの醍醐味であった。 こうして二日にわたって行われた出雲古代史研究会の第一回大会は無事終了した。 関さんに連れられてやってきた私たち一行は、翌日(7月31日)、内田律雄さんの案内で、さらに国引き神話に関わるフィールドワークを行った。 内田さんの研究報告で、国引き神話の舞台となる島根半島の浦・浜で現在行われている祭礼として鷺浦の柏島権現祭が紹介されたが、この祭礼が7月31日であり、これを見学した。 鷺浦は出雲大社の北側に位置し、風土記の「鷺濱」に当たる。湾内の港から数百メートル沖に見える小島が柏島で、風土記の「脳嶋」とみられる。祭礼は港近くの小祠を祀る神域に総代等関係者が参集し、18時ちょうどに神主の太鼓の合図で神事が始まり、柏島に向かって祝詞奏上や玉串奉奠を終えると、船に乗り込み柏島に向かった。 私たちもその船に乗船させていただき、きれいな夕日をながめながら、船はお囃子に合わせてゆっくりと柏島に向かった。この時、村のすべての漁船も一緒に大漁旗を掲げて出港した。日没に合わせて島に到着し、数名がお神酒と赤飯をもって島に渡り、島の頂上に祭られている権現様(石造物のご神体)にお供えして、そのまわりを何度か回って船に戻る。その後船は柏島を右廻りして神事は終了し、船に明かりを灯して複数の船を横につないで、海上での直会が盛大に行われた。 研究会での内田さんの報告は、こうした現在の漁村の祭祀から古代村落のあり方を解明するてがかりを見出そうという意欲的な問題提起であったが、その報告を聴いた二日後に、まさか自分がその祭礼に参加しているとは、これも出雲古代史研究会の凄さであった。 その晩は鷺浦の民宿に泊まり、翌8月1日は日御碕神社、出雲大社などをじっくり見学した。出雲大社では運営委員の千家和比古さんに案内していただいた。ほかにも多くの遺跡や神社をまわって、夕刻、出雲空港に到着し、18時10分発のJAS機に搭乗した。 たまたま私の左の座席が関さんだった。席に着いて少し会話をしていたが、すぐに関さんからの応答がなくなったので、お顔をのぞいてみると眠りについていた。あたかも、関さんは、この5日間で、出雲古代史研究会を立ち上げを達成するとともに、私たち東京から参加した出雲初心者に、古代史研究のフィールドとしての出雲の魅力を伝えるのに全力を尽くし、全精力を使い切ったかのようであった。(終) 今まで菊地照夫「#私の出雲古代史研究」をご覧くださりありがとうございました。
- 八雲立つ風土記の丘の展覧会
連休の真っただ中です。旅行やお出かけする方もいることでしょう。そこで、古代出雲歴史博物館(島根県出雲市)につづき、島根県の歴史博物館の企画展などをご紹介してまいります。今回は、八雲立つ風土記の丘(島根県松江市)の展覧会 です。 →ご入館ページはこちらから →アクセスページはこちらから 展覧会①平成30年度風土記の丘地内発掘調査速報展 展覧会②新元号記念~出土品・古文書に見る元号~ イベント「こどもまつり(2019.5.5)」 #八雲立つ風土記の丘 #島根県松江市 #博物館 #展覧会 #イベント #歴史学 #考古学 #遺跡 #古代 #中世 #ピクニック #旅行
- 企画展「古墳文化の珠玉」
島根県立古代出雲歴史博物館で企画展「古墳文化の珠玉 玉は語る出雲の煌めき」がはじまりました。古墳出土の数多くの出雲産の玉類のほか、後期にはこれまでほとんど知られていなかった新たな #出雲国風土記の写本(#菅野雅雄氏旧蔵本)が展示されるようです。 →ご利用案内のページ →出品目録(PDFファイル) #古代出雲歴史博物館 #古墳 #玉 #野見宿禰像 #荒川嶺雲 #延喜式写本
- 出雲国風土記百景(第33景)
【立石原の立石】 みなさま、おひさしぶりです。 第32景の更新が1月21日だったので、それから2ヶ月以上経つ。この間は、本ブログでも紹介のあった、『出雲国風土記 校訂・注釈編』の編集の大詰めで。おかげさまでなんとか3月31日に刊行できました。 出雲国風土記百景の記事も、今後はこの『出雲国風土記 校訂・注釈編』を参考として、そこに書ききれなかったことなどを取り上げたい。 本日は、神門郡729にみえる石見の国安農郡川相郷への通道についてふれたい。 この通道は里程や目標地点から見て、山陰道駅路のとは別に、三瓶山山麓を通過し安農郡の南部(川相郷は今の大田市河合町)に抜ける別経路である。 推定にはいろいろあるが、中村太一氏の、出雲市一窪田を抜けるルートが妥当と思う。このような国境を超える道路は複数あるのが通例だが、災害時の迂回路の意味があると考えられる。 出雲-石見国堺の難所は、出雲に住んでいる人ならすぐに思いつくと思うが、実は海岸沿いの国道9号である。小さな親知・子知のような場所で、斜面が崩壊すると、国道・JRともに通行禁止になる。一時石見に勤務していた私も、何度もここが通れない(ないし片側通行などになって)苦労した記憶がある。なんと、自動車では飯石郡の国道54号線に誘導されるのだ(迂回距離は50kmくらいはある)。 そして、国道9号(古代山陰道も同じルート)が断絶した時、一番近い迂回路が上記の一窪田から大田市山口町に抜けるルートとなる。 さて、このルート上の出雲-石見国堺は現在の大田市山口町内にある。 この部分は、近世の神門郡の一部が大田市に編入されている場所で、市町村堺と旧国堺が異なっている。 現地に行くと、高さ1.5mあまりの立石が、立石神社の御祭神としてまつられている。なお、史料によっては石上明神などと出てくるが、石上=石神とみられる。 【山口町の立石 2021年6月24日撮影】 これは本ブログ(第17景)でもすでに紹介している古代交通路に関連する立石とみるのが妥当で、出雲-石見国堺に置かれた事例だろう。 さて、この場所を地図で見ると上図の通りで、河川争奪の行われている典型的な片峠である。左の石見国の側は三瓶川の深い渓谷沿いの道だが、右の出雲国側になると伊佐川の谷底平野なので、石見国側から峠を上ると平地なのだ。 立石の位置は現代の主要道(黄色)から見ると不自然な場所であるあ、三瓶川の渓谷を迂回するルートを取ると、おのずからこの辺りになるのではないか(点線が想定通道)。 (平石 充) 次回の更新は4月22日土曜日です
- 出雲国風土記デジタル公開 2023-03
8世紀に成立した日本初の地理書となる『#出雲国風土記』の原本は残念ながら伝わっていません。江戸時代の人びとが写本したおかげで記事が伝わりました。#島根県古代文化センター は、その『出雲国風土記』の写本を調査・研究し、島根県教育委員会が所有する写本の画像3点をデジタル公開しているところです。 このたび、島根県古代文化センターは、2023年3月24日に個人蔵の写本2点を新たに追加しました。[島根県報道発表資料 令和5年3月24日 3072『出雲国風土記』写本画像の公開について]追加された写本は、下のとおりとなります。 『出雲国風土記』倉野家本 『出雲国風土記』郷原家 写本の画像は、下の島根県古代文化センターのページにある、国書データベース(#国文学研究資料館)リンクからみることができます。 トップ > 文化財課 > 古代文化C > ライブラリ > データベース > 風土記写本 →いずもけんブログ2023年3月31日 古代出雲を学ぶ~おススメ書籍紹介(1)~ 島根県は、どこの地域であろうと学べる歴史文化コンテンツのデジタル化を進めています。 島根県古代文化センター 島根県古代文化センターFacebookページ →「フォロー」なにとぞよろしくお願いします 出雲古代史研究会も、希望する誰もが研究ができるよう、おすすめの本や、研究用のデジタルツールなどをデジタルにてご紹介しているところです。ご一緒に古代出雲の最前線をつくりませんか?2023年大会のご参加心よりお待ち申し上げます。
- 古代出雲を学ぶ~おススメ書籍紹介(1)~
委員 吉松大志 みなさんこんにちは。出雲古代史研究会委員の吉松です。 出雲の古代史をさまざまな角度から学べる本をおススメするブログを担当します。 第1回目はいま旬の一冊をご紹介します。 島根県古代文化センター編 『出雲国風土記ー校訂・注釈編ー』 (八木書店、2023年3月、740ページ、税込5500円) (画像はともに八木書店HPより) 『出雲国風土記』は奈良時代に出雲で作られた地誌で、現存する唯一の完本(欠落や省略がほとんどなく全体が現在まで伝わる)の風土記です。約17,000字の漢文からなり、地名の由来を語る神話や399もの神社といった出雲らしい記述だけでなく、自然景観や生息する動植物など古代出雲に関するあらゆる情報が細かく記されており、1300年前の出雲の姿が手に取るように分かる貴重な史料です。 この本はその『出雲国風土記』の内容について、主に歴史学的な視点から解説を加えています。さらに考古学・地質学・地理学・文学などさまざまな分野の研究成果も盛り込んでおり、まさに風土記研究の集大成となる一書です。 島根県の歴史研究をリードしてきた古代文化センターの長年の研究成果に基づき、この3月に完成しました。昨年刊行された地図・写本編と合わせて眺めることで、古代出雲のすべてが分かると言っても過言ではないでしょう。700ページを超えるボリュームで税込5,500円は破格です。ぜひお手に取ってみてください。
- 第5回 渡来文化大賞 受賞
このたび、出雲古代史研究会の会員の著書が、下のとおり #日本高麗浪漫学会 高麗澄雄記念第5回 #渡来文化大賞 を受賞しました。おめでとうございます。日本高麗浪漫学会と一般社団法人高麗1300は、2016年の高麗郡建郡1300年記念事業を推進するために設立された民間団体であり、この賞は国内外の優れた古代渡来文化研究を表彰するものです。 高麗1300 > トピックス > 2023年3月27日【お知らせ】第5回渡来文化大賞 三賞が決定! 大賞は 大日方克己著『古代山陰と東アジア』(同成社) 高麗1300 > トピックス > 2022年12月20日【応募受付は終了しました】古代渡来文化研究の成果を広く募集します 日本高麗浪漫学会 高麗澄雄記念「第5回(2022年度)渡来文化大賞」 大日方克己 『古代山陰と東アジア』同成社、2022年、本体7000円 古代出雲は神話だけではありません。古代出雲に東アジアとつなげた新しい歴史の一ページを加えた本です。これを機にぜひご覧くださいませ。
- 日本史研究会 古代史部会 2023-04
#日本史研究会(#京都)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり部会をひらくことになりました。年度末のご多用の折かと存じますが、ぜひご参加くださいませ。 →日本史研究会について →会誌『日本史研究』 日本史研究会 古代史部会 大会共同研究報告者業績検討会 日 時:2023年4月10日(月)18:30~21:00 報 告:鷲見 涼太 矢島 朋弥 参 加:無料/事前申込み[4/9 日 12:00まで]
- 古代天皇研究会 勉強会1
【ハイブリッド】#古代天皇研究会(#東京)は、日本古代の天皇とその周辺を検討する研究会です。天皇を中心に、①天皇と天皇を支える身位、②天皇という存在の影響力(天皇権力を背景におこなわれる統治行為なども含みます)などを研究していきます[2020年6月6日 古代天皇研究会の活動方針より]。 「古代」と「天皇」をつけていますが、古代天皇研究会は、この二つにとどまりません。古代に続く中世などほかの時代、太上天皇・女院・三后(皇后・皇太后・太皇太后)・皇太子・摂関など天皇以外の身位、日本以外の国家の君主、文化人類学などほかの分野、といった様々な縦割りをこえ、天皇をトータルにとらえることをめざしています。 このたび、次のとおり研究報告会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ご関心がある方はお誘いあわせのうえ、お申込みくださいませ。 第1回 勉強会 アメリカ合衆国における国家形成論・国家論 佐々木憲一(明治大学 文学部 教授) 日 時:2023年3月25日(土)15:00~18:00 会 場:①明治大学 駿河台キャンパス 猿楽町校舎 考古学実習室 →交通アクセスのページ ②オンラインZoom 参 加:対面300円(資料代こみ)/オンライン・資料のみ無料 事前申込み[3/23 木まで] 振込み:三菱UFJ銀行 普通口座 柏支店(店番454)口座番号 0676657 名義 古代天皇研究会 里舘翔大 (コダイテンノウケンキュウカイ サトダテショウダイ) 共 催:NPO法人文化遺産