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古代出雲国に移配されたエミシ 第8回

更新日:2023年6月2日



                   委員 武廣亮平




今回私(武廣亮平)が担当するコラムも最後になりました。前回の菊地照夫さんのコラムが面白かったので、私もこの研究会の初期の頃の思い出を少し書いてみようと思います。


第1回の大会は島根大学で「国引神話」をテーマに開催しました。開催にあたっては当時島根大学に勤められていた井上寛司先生のご尽力によるところが大きかったと思います。個別の発表内容については菊地照夫さんのコラム「私の出雲古代史研究 第7回」を参照してください。第1回目の発表レジュメ集を手元に保存してあったので、今回PDFにしました。私のレジュメは手書きであるなど、まさに隔世の感があります。







 


出雲古代史研究会の特徴と魅力は、研究テーマの現地における活動という点であり、大会の翌日に行われた巡検や見学会も非常に意義深いものでした。特に印象深いものを2つほど挙げてみます。第1回大会では、会の2日後に鷺浦(出雲市大社町)での柏島権現の祭礼に参加しました。祭礼の詳細についても菊地照夫さんのコラム(第7回)が専門的な見地から詳しく報告しています。


鷺浦は出雲大社のほぼ真裏(真北)に位置する日本海の小さな湾に面した漁村であり、『出雲国風土記』にも「鷺浜。廣二百歩。」と記されています。祭礼が行われる柏島は鷺浦の沖合にある小島で、中世の「出雲大社境内図」に描かれていることから、祭礼の開始は中世頃まで遡る可能性があるようです。祭りは夕方から日没にかけて行われるもので、島を望む浜辺に近い祠でお祓いなどを行った後に、神事の参加者が漁船に分乗して柏島に向かい、代表者が上陸して島の神に供物を供えるものでした。


島に向かう漁船には私たち「よそ者」も乗船が許されてお酒などが振舞われ、神聖な中にも勇壮さがあふれる祭りでした。ちょうど日没時の日本海をバックに、操船する漁師や参加者の皆さんと一緒に大漁唄を歌いながら港に戻った時の一体感と高揚感は、生涯忘れることはないと思います。隣に座っていた関和彦さんに「共同体とはこういうものなんですね。」と少し興奮気味に話したのが昨日のように思い出されます。



 


また第2回大会の翌日の見学会だったと記憶していますが、天字平廃寺(簸川郡斐川町下阿宮)を訪れた時の事もよく覚えています。この廃寺は1980年代に遺跡の確認調査は行われたものの、正式な発掘調査がまだ行われていない古代寺院で、標高200mにある遺跡までの道も当然整備されていません。


道案内をする内田律雄さんの「すぐそこですから」という言葉に騙されて?、陽もささない山道をひたすら登り続けました。最初は楽しく話をしながら歩き続けた一行も、時間が経つにつれて無口になり、30分以上(個人的には1時間近く歩いたという印象でした)登り続けて、ようやく目的地に到着しました。全く手つかずの廃寺は木立と落ち葉に覆われていましたが、よく見ると堂塔の跡地にはおびただしい軒平瓦が積み重なっており、それに混ざって文様なども確認できる軒丸瓦もありました。


現在ではこの天字平廃寺は『出雲国風土記』に記される新造院よりも後世の建立ではないかと考えられているようですが、それでもおそらく「廃寺」となった時の状況を伝える遺跡の光景は、見る者に歴史の重みを十分に伝えるものでした。内田さんの「すぐそこですから」という言葉は、遺跡までの道のりは大変だけど、何とか皆に見せたあげたいという思いの表れなのだろうと後になって気付きました。ちなみにその後の見学会でも内田さんの「すぐそこですから」、「すぐ着きますから」は何回かありましたが、そのいくつかはやはり過酷なものでした。



 


出雲古代史研究会は発足してから今年で34年目になります。「古代」の「出雲」という時代も地域も特定した中で、これほど長い活動を継続している研究会は非常に貴重だと思います。会員の一人として今後も本研究会が発展するよう願いながら、私のコラムを閉じたいと思います。読んで頂いた皆さん、どうも有難うございました。(終)





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