top of page

古代出雲国に移配されたエミシ 第6回

更新日:2023年4月16日



                   委員 武廣亮平




このコラムも早いもので今回で6回目となります。そろそろネタも尽きてきましたが、もう一つ紹介しておきたいのが、出雲国で起きた移配エミシ(俘囚)の反乱が及ぼした影響についてです。


前回述べてきたように、出雲国の「俘囚」反乱に関する記事は弘仁5年(814)に見られますが、その内容は反乱の論功行賞や被害を受けた者に対する救済措置であることから、反乱が起きたのは弘仁4年(813)の暮れから弘仁5年(815)初頭にかけてと考えられます。この点を念頭にまず次の史料に注目してみます(これも漢文のものを現代語訳しました)。



『類聚国史』弘仁4年(813)11月21日条
(嵯峨天皇が)勅して言うには、夷俘の性格は平民と異なっており、朝化(朝廷の教え)に従うといいながら、未だに野心(野蛮な心)を忘れていない。そこで諸国の国司に勤めて教喩(教え諭すこと)を行うように命じた。しかし国司は朝廷の趣旨に反して、夷俘を存恤(慰問救済)することをせず、彼ら(夷俘)が申すところも日を経ても処理しないため、夷俘は愁いや怨みを募らせ、遂には叛逆するに到る。そこで播磨介従五位上藤原朝臣藤成、備前介従五位下高階眞人眞仲、備中守従五位上大中臣朝臣智治麻呂、筑前介正六位上栄井王、筑後守従五位下弟村王、肥前介正六位上紀朝臣三中、肥後守従五位上大枝朝臣永山、豊前介従五位下賀茂懸主立長等に対し、手厚く教喩を加えて、彼らが申す事について、早く処分することを命じる。問題が重大であり、簡単に決することができない場合は、政府に言上して裁定を聴くように。もし撫慰(いつくしみなぐさめ)をせず、夷俘が叛逆したり入京越訴を行った場合は、専当の人(夷俘の教諭に専属的にあたる国司)らを、その罪状に准じて断罪せよ。但しこの政策によって百姓への対応を後回しにしてはならない。


この史料は移配先においても「野心」を改めず、さまざまな問題を引き起こす夷俘に対して、国司の「教喩」の徹底を命じたものです。続いてその対象となっている国々と国司の氏名が挙げられており、例えば「播磨介従五位上藤原朝臣藤成」は、播磨国(兵庫県南部)の介(国司の次官)で従五位の位階である藤原朝臣藤成という人物ということになります。


以下の国をみると備前・備中国(岡山県)、筑前・筑後国(福岡県)、肥前国(佐賀・長崎県)、肥後国(熊本県)、豊前国(大分県北部)となっており、特に九州地域が多いことがわかります。また国司の責任者は守(長官)の場合もありますが、介が任じられるケースの方が多いようです。



 


もう一つ重要なのは、この史料が播磨国など多くの国々の夷俘(移配エミシ)が「叛逆」や「入京越訴」といった行動に出ることを危惧していることです。まず「叛逆」ですが、出雲国の移配エミシの反乱が、弘仁4年(813)の暮から5年(814)初頭にかけて発生したのだとすれば、この史料と時期的に重なるという点は注目したいと思います。


推測になりますが、ここで紹介した『類聚国史』弘仁4年(813)11月21日条は、出雲国で発生した俘囚の乱をうけて、出雲国と同じように多くの移配エミシが居住する諸国に対して出されたものとみることもできます。だとすれば「叛逆」とはまさに出雲国の移配エミシ(俘囚)の乱を示すということになります。


出雲国で起きた反乱は、延暦年間から政府が行ってきた大規模なエミシ移配政策の問題が表面化したものであることは明らかであり、さらにそれはエミシが移配された他の国々でも起こりうる深刻な課題として受け止められたのではないでしょうか。エミシ移配国の守または介を「夷俘専当」とする政策は、移配政策を進めてきた政府の危機感の表れでもあります。



 


次に「入京越訴」ですが、こちらは京(平安京)に入って訴えを起こすこと、つまり政府に対して自分たちの訴えや要求を直接伝える行為だと考えられます。実際に「入京越訴」があったことを記す史料を紹介します。



『類聚国史』弘仁7年(816)8月1日条
(嵯峨天皇が)勅して言うには、夷俘の性格は平民と異なっており、皇化(天皇の教え)に従うといいながら、なお野心を存している。そこで先に諸国に仰せて(夷俘を)教喩させた。ところが因幡・伯耆両国の俘囚らは。感情に任せて京に入り、小事(重要ではない事柄)について越訴を行っている。これはまさに国司が撫慰の方法を誤り、その理に反する判断が致すところである。これより以降は手厚く訓導(教え導く)をせよ。もし越訴のようなことがあれば、専当の国司をその状況に応じて罪科に処せ。


こちらはエミシの問題行為が移配された国での反乱ではなく、京での越訴という形で行われているところに特徴があります。出雲国の移配エミシの反乱から約3年後のものですが、注目されるのは入京して越訴に及んでいるのが、因幡・伯耆国(鳥取県)の移配エミシ(俘囚)であるという点です。


因幡国、伯耆国も出雲国と同じく山陰道の国であり、特に伯耆国は出雲国のすぐ東に隣接していることから、出雲国におけるエミシの反乱に何らかの影響をうけた彼らが、新たな手段で国家に対し自分達の生活の保障などを要求したものと見ることもできそうです。


出雲国の移配エミシに関する最後の記録は『日本三代実録』貞観元年(859)8月25日条に見られます。出雲国俘囚の「吉弥侯部黄海」を従六位上から従五位下に叙すというものであり、その位階からしても出雲国内で有力な地位にある人物と思われます。


ただ一方で「俘囚」という差別的な身分が残っているという点も注意したいところです。延暦17年(798)に初めて出雲国に移配エミシが確認されてからすでに60年が経ちますが、彼らはまだ「俘囚」や「夷俘」という特殊な集団とみなされていたことがわかります。

→4月15日(土)に続きます




bottom of page