代表委員 菊地照夫
1990年1月28日、関和彦さんから飲み会の誘いの電話があった。それに従って2月3日、お茶の水の居酒屋に行ってみると、関さんのほか、瀧音能之さん、小林覚さん、荒井秀規さん、武廣亮平さん、そして島根から内田律雄さんがいらしていた。この集まりは単なる飲み会ではなかった。文献史学の立場から出雲の古代史を究明するための全国規模の研究会を新しく作ろうという、その準備のための会合であった。
このような研究会を作ろうという動きがおこったきっかけは、1987年に松江で開催された第15回古代史サマーセミナーにあったという。同セミナーについては、以前こちらでも紹介したが(第5回)、考古学の松本岩雄さんが事務局長となって盛大に開催され、出雲古代史の諸問題が多角的に議論され立派な報告集も作成されて、成功裏に終わったのであるが、一方でこのセミナーを通して、地元出雲における出雲古代史研究の実情の問題点が省みられることになった。
古代の出雲については、出雲国風土記が地域の情報を詳細に伝えており、正倉院文書に出雲国計会帳や大税賑給歴名帳など文献史料が存在し、何よりも記紀神話の重要な舞台とされ、それと関わる出雲大社も存在しており、出雲は文献史学の研究対象としての絶好の条件が整ったフィールドである。特に出雲大社に関わる問題には、古代国家形成や古代王権の確立という大きなテーマも内在している。
ところがサマーセミナー開催当時、このような古代史研究の魅力あふれる出雲の現地に、文献史学の古代史研究者は、高校教員の野々村安浩さんと県職員の若槻真治さんくらいしかいなかった。島根大学にも文献古代史専門の教員はおらず、中世史を専門とする井上寛司さんが古代史の領域も担当されていたという。
私が聞いたところでは、この状況を憂いた井上さんを中心に、島根に出雲の古代史を文献史学の立場から研究する全国的な組織を作ろうという動きがおこり、東京の関和彦さんにその組織化の依頼があったという。1990年2月の関さんによる招集は、その新しい研究会を立ち上げるための会合だったのだ。
この会合で、出雲古代史研究会を発足させて、7月に島根で創立大会を開催することが決まった。ここに集まったメンバーは、皆委員となって会の運営を担うこととなり、さらに大会の統一テーマを「国引き神話の再検討」と決めて、報告者も割り当てた。なんと私も研究報告をすることになってしまった。
東京側の委員が集まって話し合ったのはこの時だけで、大会開催までの詳細な段取りは、関さんと島根側のスタッフが詰めていった。私は記念すべき最初の大会で報告をすることになってしまったので、どのような視点から国引き神話にアプローチするか、お茶の水の会合の翌日からさっそく文献にあたって検討をはじめた。報告のテーマは、とりあえず「国引き神話の周辺」(仮題)と関さんに伝えた。
国引き神話は、出雲国風土記にみえる出雲の国土創成神話で、ヤツカミズオミズヌという神が朝鮮半島、隠岐、北陸から国土を引っ張ってきて、島根半島の部分が形成されたという壮大な神話である。オミズヌは国引きを終えると、「意宇の杜(おうのもり)」に杖を突きたてて「おえ」を叫び、それでその地を「おう(意宇)」と称すのだという、意宇郡の地名の由来も物語っている。
私が報告で問題にしようと思ったのは、オミズヌによる国引きではなく、それが終わったあとの杖を突きたてるという行為についてであった。なぜオミズヌは杖を突きたてたのか、その行為にはどのような意味があるのか…というような杖にまつわる問題をとおして国引き神話にアプローチしてみようと考えたのである。
杖が、単なる歩行者の介助の道具ではなく、宗教的な性格を有する呪具であることは日本だけでなく世界各地の神話・伝説・昔話にみられ、このような杖の性格については大学4年次の小松和彦先生のゼミで多くを学んでおり(第2回参照)、その時の学習の成果を総て投入して、報告をまとめ上げた。
出雲古代史研究会の第一回大会は、1990年7月29日に島根大学で開催されることになった。さらに30日には見学会も予定された。
東京からこれに参加するメンバーのために、7月28日出発、8月1日帰着の4泊5日の出雲ツアーが関さんによって企画された。大会・見学会の前後にレンタカーでの独自のフィールドワークが組み込まれており、宿の予約や航空券の購入、レンタカーの手配などは、全て関さんが行ってくれた。
7月28日(土)早朝、私は羽田空港に向かった。羽田といっても、今の第1・第2ターミナルではなく、それができる前の、現天空橋にあった旧ターミナルビルに7時に集合した。関さん、瀧音さん、小林さん、荒井さん、武廣さんなどのメンバーがそろっていた。航空会社はJAS(日本エアシステム)で、離陸するとあっという間に出雲空港に着いてしまったのには驚いた。出雲を訪れるのはこの時が3度目だったが、過去の2回はいずれも寝台特急「出雲」で訪れていて、飛行機での来訪は初めてだった。
到着すると、まずレンタカーで荒神谷遺跡、次に鰐淵寺、一畑薬師、玉作資料館を見学して、14時半に宿泊するホテル一畑にチェックインした。そしてすぐにタクシーで島根大学に向かい、15時ちょうどに島根大学の井上寛司さんの研究室に到着した。そこで井上さん、野々村さん、内田さん、若槻さんという島根側の委員と、われわれ東京側の委員が合流し、出雲古代史研究会の委員が顔をそろえ、委員会を開催して翌日の進行や役割分担を打ち合わせ、レジュメ・資料のセットづくりをおこなった。西日の差し込む島大史学資料室でのこの時の作業の光景が、印象深く記憶の片隅に残っている。
7月29日(日)、いよいよ大会の当日を迎えた。9時に島根大学に集合して、会場のセッティングをおこなった。会場は法文棟2階会議室。10時に総会が始まったが、総会の議長は小林覚さんが務めた。小林さんはその後も毎年総会議長を務めており、それは小林さんが急逝する前年の2013年まで続いた。
総会では、出雲の古代史を文献中心に明らかにすることを目指す研究会としての出雲古代史研究会の発足が宣言され、会則を審議し、役員の選任がおこなわれた。選出された役員は次のとおり。
事務局長を井上寛司さんが務め、事務局を島根大学法文学部の井上さんの研究室とした。
こうして出雲古代史研究会は無事に発足し、引き続き研究会が開催され、『国引き神話の再検討』を統一テーマとして、次の5人の研究報告が行われた。
野々村安浩「出雲古代史研究と国引き神話」
武廣 亮平「国引き神話研究史」
内田 律雄「国引き神話の舞台裏」
瀧音 能之「八束臣津野命の神名について」
菊地 照夫「国引き神話の周辺―杖をめぐって―」
報告に続いて、活発な質疑討論が行われ、研究会は盛況であった。これらの報告は、後日論文にまとめられ、翌年に創刊された『出雲古代史研究』第1号に掲載されている。
翌日(7月30日)には見学会が開催され、9時に島根大学に集合し、地元の方の乗用車に参加者が分乗して巡検を行った。見学会のテーマも「国引き神話」で、まず八雲立つ風土記の丘資料館で出雲国風土記の写本をみて、前日の研究会で私が指摘した国引き神話の写本、校訂の問題を確認し、次に国引き神話の最後でヤツカミズオミズヌが杖を突きたてた「意宇の杜」の2つの比定地を訪れた。さらに風土記の「朝酌の渡」に相当する矢田の渡を渡って国引きされた島根半島側に移動して、「北門の良波国」から引っ張ってきたとする「闇見(くらみ)国」の地名が遺る久良弥神社、「高志の都都の三埼」から引っ張ってきたとする「美保の埼」の美保神社、地蔵崎をまわった。
前日の研究会で熱く議論された国引き神話の舞台の現地をフィールドワークするというのは、まさに出雲古代史研究会ならではの醍醐味であった。
こうして二日にわたって行われた出雲古代史研究会の第一回大会は無事終了した。
関さんに連れられてやってきた私たち一行は、翌日(7月31日)、内田律雄さんの案内で、さらに国引き神話に関わるフィールドワークを行った。
内田さんの研究報告で、国引き神話の舞台となる島根半島の浦・浜で現在行われている祭礼として鷺浦の柏島権現祭が紹介されたが、この祭礼が7月31日であり、これを見学した。
鷺浦は出雲大社の北側に位置し、風土記の「鷺濱」に当たる。湾内の港から数百メートル沖に見える小島が柏島で、風土記の「脳嶋」とみられる。祭礼は港近くの小祠を祀る神域に総代等関係者が参集し、18時ちょうどに神主の太鼓の合図で神事が始まり、柏島に向かって祝詞奏上や玉串奉奠を終えると、船に乗り込み柏島に向かった。
私たちもその船に乗船させていただき、きれいな夕日をながめながら、船はお囃子に合わせてゆっくりと柏島に向かった。この時、村のすべての漁船も一緒に大漁旗を掲げて出港した。日没に合わせて島に到着し、数名がお神酒と赤飯をもって島に渡り、島の頂上に祭られている権現様(石造物のご神体)にお供えして、そのまわりを何度か回って船に戻る。その後船は柏島を右廻りして神事は終了し、船に明かりを灯して複数の船を横につないで、海上での直会が盛大に行われた。
研究会での内田さんの報告は、こうした現在の漁村の祭祀から古代村落のあり方を解明するてがかりを見出そうという意欲的な問題提起であったが、その報告を聴いた二日後に、まさか自分がその祭礼に参加しているとは、これも出雲古代史研究会の凄さであった。
その晩は鷺浦の民宿に泊まり、翌8月1日は日御碕神社、出雲大社などをじっくり見学した。出雲大社では運営委員の千家和比古さんに案内していただいた。ほかにも多くの遺跡や神社をまわって、夕刻、出雲空港に到着し、18時10分発のJAS機に搭乗した。
たまたま私の左の座席が関さんだった。席に着いて少し会話をしていたが、すぐに関さんからの応答がなくなったので、お顔をのぞいてみると眠りについていた。あたかも、関さんは、この5日間で、出雲古代史研究会を立ち上げを達成するとともに、私たち東京から参加した出雲初心者に、古代史研究のフィールドとしての出雲の魅力を伝えるのに全力を尽くし、全精力を使い切ったかのようであった。(終)
今まで菊地照夫「#私の出雲古代史研究」をご覧くださりありがとうございました。