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私の出雲古代史研究 第2回

更新日:2023年4月13日

代表委員 菊地照夫


1978年に国学院大学の史学科に入学したものの、1・2年次には文学科の先生のところにばかりに足を向けて、史学科の先生とはほとんど交流がなかったことを前回述べた。しかし3年次になったばかりの4月、史学科同期の友人から古代史の鈴木靖民助教授の勉強会に誘われて、参加することになった。『岩波講座日本歴史』古代2の論文を参加者で分担してレポートする勉強会だったが、ここで私は岡田精司「記紀神話の成立」を担当することとなり、岡田先生の研究と出会う。



先生の著書『古代王権の祭祀と神話』も購入して併せて熟読し、古代王権の発展や律令国家の形成のプロセスを記紀・風土記等の神話伝承や王権祭祀を手掛かりに解明していく岡田先生の研究手法のおもしろさに魅かれて、卒業論文は岡田先生の研究をベースにしてテーマを探っていこうと心に決めた。



この時担当した「記紀神話の成立」は、古事記・日本書紀の神話の性格や形成過程を歴史学の立場から考察する上での最重要文献で、出雲神話についても貴重な指摘が多くなされている。伴造の奉仕伝承に由来する高天原神話に対し、出雲神話は地方神話の集合体であり、地方豪族が王権の新嘗に際して奏上した古詞(フルゴト)に由来するといい、スサノオのヤマタノオロチ退治は国造制段階、オオナムチの国譲りは国造制が否定された段階を反映するという指摘もある。



また国譲り神話について、オオナムチ服属の神話と邪神討伐の神話は本来別の神話であるという指摘も重要である。この論文が、私の歴史学的な立場からの記紀神話研究、とりわけ出雲神話の研究の原点となった。




 


岡田論文をレポートした翌月の1980年8月、私は初めて出雲を訪れた。門脇禎二出雲の古代史』、東森市良・池田満雄『出雲の国』で予習し、『出雲国風土記』を拾い読みして、観光用のガイドブックを手掛かりに、初めての出雲を、案内人もなく、一人で手探りで歩き回った。



一日目は東京から寝台特急『出雲』で松江に到着し、駅前でレンタサイクルを借りて、まず風土記の丘資料館に向かい、国庁跡神魂神社などを回ったあと、意を決して熊野大社まで足を延ばしたのは無謀だった。



しかも天気は雨。今でも車で熊野大社に向かう道すがら、この時のことを思い出すことがある。二日目もレンタサイクル。佐太神社から恵曇に出て、加賀の潜戸へ。島根半島東部の西半をぐるっと回る。三日目もレンタサイクル。またも雨。忌部神社須賀神社玉湯神社玉作史跡公園。松江駅で自転車を返して、出雲市へ向かう。四日目は出雲大社を参拝し、日御碕神社へ。出雲市に戻って築山古墳、地蔵山古墳を見学する。五日目も雨。バスで須佐神社へ。途中からすごく長い距離を歩いた記憶がある。



このように私の出雲デビューは、天気に恵まれず、効率も悪く、ただ現地に行きましたというだけの旅行で、この時は古代史研究のフィールドとしての出雲の魅力を実感することはなかった。その魅力を知るのはこの10年後のこととなる。



鈴木先生の勉強会に参加していた同期のKさんの高校時代の日本史の先生が、鈴木先生と親しい古代史の研究者で、研究会でもその先生のことがしばしば話題になっていた。その方こそ関和彦さんである。たまたま鈴木先生の勧めで歴史学研究会の古代史部会に顔を出すことになり、行ってみるとそこに関さんがいた。初対面のときにはKさんと同期であることくらいしか話しをしなかったと思うが、この関さんと10年後の1990年に出雲古代史研究会を創設することとなる。この創立大会のために出雲を訪れた時に、関さんに直接出雲を案内していただいて、初めて風土記の世界が実感できる古代史研究のフィールドとしての出雲の魅力を認識したのである。



 


4年次、いよいよ卒業論文に取り組むこととなり、『大和王権と祭祀担当氏族』というテーマを設定して、王権祭祀を分掌する中臣氏と忌部氏の考察をおこなった。中臣氏と忌部氏の担当する祭祀の性格を検討し、どちらかといえば中臣氏にウエイトを置いた内容だったが、忌部氏についても史料や文献を読みこんだ。私の忌部氏と玉作と出雲の関係についての問題関心は、この卒論が出発点となっている。主査は鈴木先生だったが、卒論ゼミは林陸朗先生と鈴木先生が合同で行っており、両先生からの指導を受けた。



4年次の1981年度の当初、講義要項を見ると、民俗学の坪井洋文先生の肩書が教授でなく、兼任講師となっていたのに驚いて、鈴木先生にうかがったところ、坪井先生は千葉県佐倉市に新設される国立歴史民俗博物館に転出されたとのこと。非常勤での出講はあったが、国学院を去られたのはショックだった。



坪井先生の代わりということではなかったが、4年次に非常勤で出講していた、当時信州大学助教授の小松和彦先生の授業をとった。ちょうど小松先生の「日本神話における占有儀礼」という論文を読んでいたところで、卒論にも関わり質問したいことがあったので、最初の授業のあと、先生のところにうかがった。すると先生から、もう一人来るのでちょっと待ってくれと言われ、しばらくすると現れたのは大学院生の福原敏男さんだった。このあと三人でビールを飲みながら話しをし、この3人の飲み会は小松先生の授業の後の定例となってしまった。



その後、小松先生の提案で、ただ3人で飲んでいるだけではもったいないから、テキストを決めて勉強会をしようということになり、福原さんが大学院生や民俗学のサークルに声をかけて参加者を募り、後期からは10名ほどのメンバーで柳田国男民間伝承論』とリーンハート『社会人類学』を分担して併読するゼミとなった。



小松先生は先の論文「日本神話における占有儀礼」で、国土占有儀礼と杖立ての問題を考察していたが、このゼミでも杖の呪術的性格が議論されたことがあった。1990年の出雲古代史研究会の第1回大会で、私は「国引き神話と杖」というテーマで報告をおこなったが、この時の報告内容の大半は小松ゼミの成果である。



以上のように大学生活後半の3・4年次では、鈴木先生の下で日本古代史を本格的に勉強するようになり、岡田先生の研究と出会って、自身の研究の方向性を見出して卒論に取り組み、小松先生のゼミで民俗学の方法論も学んだ。出雲との出会い、関さんとの出会いもこの時期だったが、私と関さんと出雲の関係が全面展開するのは、それから10年後のことだった。

→12月1日(水)につづきます

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