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私の出雲古代史研究 第6回

更新日:2023年4月13日



                   代表委員 菊地照夫


1986年4月に入学した法政大学大学院人文科学研究科日本史学専攻修士課程は夜間に開講されており、修了に要する年限は3年であった。この間、文献古代史の中心的な指導は、1年目は鈴木靖民先生、2、3年目は虎尾俊哉先生から受け、このほか1年目には笹山晴生先生(日本書紀)、2年目には山中裕先生(御堂関白記)、平川南先生(出土文字資料)、3年目には阿部猛先生(北山抄)の授業があったが、指導教授が考古学の伊藤玄三先生だったので、伊藤先生の考古学の演習は必ず毎年履修しなければならなかった。


専門外の演習は率直にいって辛かったが、1期上に琉球弧考古学の高梨修さん、1期下に弥生時代の古庄浩明さん、2期下に旧石器時代の佐藤宏之さん、古墳時代の澤田秀実さんなどがおり、現在も考古学の第一線で活躍している方々と狭い研究室のテーブルを囲んで勉強することができたのは、今から振り返ると貴重な時間だった。


2年目の後期の中頃から、修士論文のテーマをどうするかが問題となってきた。入学当初に取り組みたいと構想していたヤマト王権の新嘗祭をめぐる問題については、たまたま1年目に論文として発表することとなり(第4回参照)、これを踏まえて問題点を深めていく方向性もあったが、全体的な構想を描くことができなかったので断念し、律令国家によって行われた新嘗儀礼の一つである相嘗(あいなめ)祭という祭儀をテーマにすることとした。


相嘗祭は、神祇令に規定された恒例の国家祭祀である。神祇令には新嘗の祭儀として、①9月の神嘗祭、②11月上卯日の相嘗祭、③11月下(中)卯日の大嘗祭の三つがある。①神嘗祭は伊勢神宮の新嘗儀礼、③大嘗祭は天皇の行う新嘗儀礼であり、この両者については史料も多く、後世にも継続されることから、祭儀の様相については、だいたいのイメージは共有されている。しかし②の相嘗祭については、神祇令に祭日、延喜式に対象社と幣帛の内容および受領の規定があるが、祭儀の実態や意義については不明な点が多く、対象社が畿内および紀伊の有力社に限られていること、天皇の新嘗儀礼である③大嘗祭の12日前の卯の日に行われることから、天皇の新嘗祭に先立って畿内と紀伊の有力社の新嘗儀に国家が幣帛を奉る儀礼というのが一般的な理解であった。


私が相嘗祭を修論のテーマに選んだ理由は二つある。以前、矢野建一さん、三宅和朗さんとの会話の中で相嘗祭のことが話題になったことがあり、その時、神祇祭祀研究ではトップクラスの両氏が、相嘗祭とはいかなる祭儀かよくわからないと述べていたのが印象に残っていた。そこで修論でこれを解明しようと思ったのが一つ目。


もう一つは、1987年に国学院の大学院で神道史学を専攻している楠本孝行さんが相嘗祭に関する論文を発表し(「相嘗祭班幣と神事」『神道学』134)、それに大きな刺激を受けたことである。同論文で楠本さんは、神祇令が相嘗祭の祭日と規定する11月上卯日には、神祇官で対象社の神主らに幣帛を頒かつ班幣が行われ、12日後の天皇の新嘗祭が行われる下(中)卯日に各社で奉幣と神事がおこなわれたという、これまでにない相嘗祭の祭祀形態を提示し、相嘗祭を、畿内・紀伊の有力神が天皇と相共に新嘗を行う祭儀と理解した。すなわち神祇令に規定された11月上卯日は、神祇官で班幣が行われる日であり、各社での相嘗祭の祭儀は下(中)卯日の天皇の新嘗祭に合わせて行われたというのである。


楠本さんには歴史学研究会古代史部会や国学院でお世話になっており、相嘗祭についても多くのご教示を受けており、当初は楠本さんの相嘗祭の理解を受け容れていた。この楠本説に依拠して相嘗祭の理解を深めていこう考えたのだ。


こうして修士論文のテーマを相嘗祭の研究と定め、1987年の年末頃から具体的な取り組みを始めた。


 

研究の方向性を見定めようと思い、岡田精司先生に、先生が主宰する京都の祭祀史料研究会の例会での報告をお願いしたところ、1988年の2月例会で報告させていただくこととなった。相嘗祭の自分なりの理解を岡田先生に聴いていただき、ご意見をうかがうことが目的であったのだが、結果は悲惨だった。


私は、自分の研究のスタイルとして、民俗学的なアプローチを用いることにこだわりをもっていた。とりわけ新嘗については、通説的な稲の収穫感謝祭という理解を否定して、農耕儀礼としては稲霊の死と再生の儀礼、王権の新嘗においては天皇の霊威再生儀礼という性格の祭儀であることを強調していたが、ここに大きな落とし穴があった。


私は、相嘗祭では天皇の新嘗に合わせて畿内・紀伊の有力神の新嘗が行われるという楠本説に依拠し、相嘗祭の対象社の神を天皇の霊威(天皇霊)を構成する神ととらえて、相嘗祭とは天皇霊を総体的に再生させる新嘗なのだという、妄想著しい仮説を打ち立ててしまったのだ。そしてこれを引っ提げて京都に遠征したのである。


祭祀研2月例会には岡田先生、松前健先生をはじめ、相嘗祭に取り組むきっかけをくれた三宅和朗さん、内田順子さん、土橋誠さん、榎村寛之さんなど錚々たる顔ぶれが並んでいた。そのような中で、上記の相嘗祭=天皇霊再生儀礼説というとんでもない仮説を報告してしまったのだが、当然のことながら岡田先生はじめ参加者からはボロクソにたたかれた。基本的な史料の読みが甘く、実証に乏しい点が何より批判された。依拠していた楠本説にも批判が及んだ。


本来であれば、これだけダメ出しされれば、全面的に退散してこの方向性は破棄されるべきであったが、愚かな私は楠本説に依拠することはやめたものの、天皇霊説から完全に脱却することができなかった。そして岡田先生にお願いして9月例会でもう一度報告をさせていただいたのだが、二度目の報告は2月よりももっと悲惨だった。前回と同様に批判されたのだが、前回批判されたところが修正されていないことも批判され、祭祀研メンバーを呆れさせてしまった。


研究会修了後、京都駅まで岡田先生と一緒だったが、京都駅で先生とお別れするとき、先生は厳しい言葉で私を叱責した。まさにお説教だった。今回の報告も前回の報告も、私の研究姿勢も、今のままではだめだと怒られ、時間にして5分くらいだったろうか、当時の印象ではもっと長く感じたが、立ったまま先生のお話を延々と拝聴したのである。お言葉の中には「君を見損なった」というきついフレーズもあった。どうしようもない報告を二度も行った私に対する怒りが爆発したのだろう。


これによって、修論に向けてのこれまでの自分の研究姿勢や取り組み内容が無意味であったことにようやく気づいたのだった。修論の提出まで残り3か月ちょっとしかなかったが、ここで0からの出発となった。


この時が人生最大の“どん底”だった。しかしどん底まで沈み切ると、あとは浮上するのみである。岡田先生から実証の不足をきつく叱責されたのだが、それを肝に銘じて、今後はとにかく史料をとにかく丁寧に読み込んで、実証に徹していこうと決意し、民俗学的アプローチは封印した。


まず相嘗祭を理解する上でもっとも基本となる延喜四時祭式下の相嘗祭条の徹底的な分析をおこなった。これが第1章となる。


次に相嘗祭の幣物が調の初物=荷前(のさき)であることを論証し、また相嘗祭の対象社の神が王権、国家の守護神であることを明らかにして、相嘗祭は調の荷前を王権、国家の守護神の新嘗儀に合わせて供献し、律令国家の人民支配の無事を報告する祭儀であったと説き、これが第2章となる。


そして相嘗祭の構成や日程的な問題について楠本説を批判し、対象社の神主らは11月上卯日以前に個別に神祇官に出向いて各社所定の幣帛を受領し、上卯日の朝に各社で奉幣儀、夜に神事が行われ、狭義の相嘗祭は朝の奉幣儀礼を指すと説き、これが第3章となる。


こうした内容をまとめている最中に、鈴木靖民先生が、国学院大学の国史学会12月例会で報告をする機会を与えてくれた。そこで相嘗祭の構成や祭祀形態について報告することにしたが、当日にはなんと神道学科の岡田莊司先生と高森明勅さんが最前列に陣取っておられた。報告は楠本説批判の内容となったが、当時の国学院の神道史研究者の間では楠本説が評価されており、質疑では岡田莊司先生や高森さんから、楠本説擁護の立場で多くの質問が寄せられた。例会のあとも高森さんから自宅に何度かお電話をいただいて、多くのご教示を賜りありがたかった。


年が明けて1989年1月9日に、無事修士論文を提出することができた。なおこの2日前の1月7日に昭和天皇が亡くなり、元号は昭和から平成に改まっていた。


その後、修論の第1章は「相嘗祭の基礎的考察」(『法政考古学』20)、第2章は「律令国家と相嘗祭」(虎尾俊哉編『律令国家の政務と儀礼』)、第3章は「相嘗祭の祭祀形態について」(『延喜式研究』15)という形で論文化することができた。


修論に由来する、この相嘗祭三部作は、民俗学的アプローチの全くない、実証に重きをおいた論文で、私の論文の中では異質といえるのだが、このような論文が生み出された背景には、京都駅における岡田先生の厳しい叱責があったのである。私の修論体験は、まさに“死と再生”そのものだった。


 

延喜四時祭式下に掲げられた相嘗祭の対象社の最末尾に紀伊国の鳴神社がある。この神社の相嘗祭用の酒を醸造する稲は、延喜式によれば神税を用いることになっているので、鳴神社には神戸があったことがわかる。ところが平安初期の神戸をリストアップしている大同元年牒神封部という史料には、紀伊国で神戸を持つことが明らかな神社のうち、この鳴神社だけが見えない。一方大同元年牒には紀伊国に神戸を有する神社として忌部神社があり、紀伊国ではこの神社のみが対応社不明であることから、この忌部神社が鳴神社である可能性が高い。


この論点は修士論文の第1章でも取り上げていたが、この忌部神社には、紀伊国だけでなく出雲国にも神戸があった。それが出雲国風土記の意宇郡に見える忌部神戸であるが、忌部神社が紀伊国の鳴神社とすると、なぜ紀伊の神社の神戸が出雲にあるのかが問題となる。


後にこの問題に正面から取り組んだ成果が「出雲国忌部神戸をめぐる諸問題」である。この論文は岡田精司先生の古稀を記念して刊行された論文集『祭祀と国家の歴史学』に寄稿したものだが、岡田先生にお世話になって作成した修論から派生したテーマを先生への献呈論文とすることができたことは感慨深い。それに加えて岡田先生がこの論文をとても高く評価してくださったこともうれしかった。

→4月1日(金)に続きます

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