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私の出雲古代史研究 第1回

更新日:2023年4月13日

                                代表委員 菊地照夫


このたび、委員がコラム形式のブログ連載するという企画がはじまることになり、その先陣を任されることとなった。何を書けばいいのか、あれこれと考えてみたが、とりあえず「#私の出雲古代史研究」というテーマで、自分がどのようなスタンスで出雲古代史の研究と向き合い、何を研究し、何を明らかにしたのかを、何回かに分けて述べて責めを負うこととしたい。



 


私は1959年(昭和34年)9月生まれで、翌年2月生まれの現天皇(徳仁親王)とは学年が同期となる。幼いころから同年齢の「徳(なる)ちゃん」なる人物が、テレビ等マスコミで特別扱いされていることが気になり、また小学校2年生の時には前天皇(当時は皇太子、明仁親王)を直接見る機会もあり、かなり早い時期から天皇・天皇制って何だろうという問題関心が芽生えていた。1978年4月に国学院大学文学部史学科に入学したが、史学科に進学したのは、日本の歴史を学んで天皇制の起源を知りたいと思ったからである。



当時の国学院史学科の古代史には、林陸朗教授、鈴木靖民助教授、さらに東大を退官されたあと国学院に移られた学界の重鎮、坂本太郎教授もおられ、日本古代史を学ぶには最高の環境であった。これに加えて考古学には、樋口清之教授、乙益重隆教授、小林達雄助教授がいらしたのである。なんと贅沢な学問の場であったことか。



ところが入学したばかりの私は、このような素晴らしい史学科の先生には全く関心がなかった。入学して真っ先に訪れたのは文学科の尾畑喜一郎教授で、古事記講読の授業に出させていただいた。とにかく天皇制の起源を知るために古事記が読みたかったのである。



この授業では古事記を丁寧に読み、日本書紀と比較し、解釈をめぐる近年までの研究が詳細に紹介され、最後に先生が自説を述べるという要領で展開されたが、この授業で記紀の概要や読み方、解釈や研究上の基本的な論点を学ぶことができた。



出雲古代史研究』の最新号(第31号)で私は、スサノオは本来出雲の神ではなく紀伊を原郷とする神であるとする松前健氏の説を踏まえてスサノオ神話の形成過程を考察したが(「スサノオ神話の形成に関する一考察」)、この松前説を最初に学んだのは尾畑先生の授業だった。



ただ尾畑先生は松前説を批判して、スサノオの原郷を筑紫の宗像とする独自の説を提示されていたが、私は松前説が妥当と考えている。それにしても一般的にはスサノオは出雲を原郷とする神と考えられており、研究者の間でもその見方は当時も今も根強いが、私の場合、古事記を本格的に勉強した最初の段階から、記紀の出雲神話に登場する神が、必ずしも出雲在来の神ではないというとらえ方を学んでいたのである。



 


ほかにも中村啓信教授と非常勤で出講されていた三谷栄一先生の記紀の授業を受けた。中村先生からは古事記の一語一語を実に丁寧に綿密に解釈する緻密な読みを学び、三谷先生からは民俗事例を踏まえた記紀の解釈の手法を学んだ。



「記紀神話において出雲が地上世界である葦原中国の中心に位置づけられているのはなぜか」という問題は、日本古代史研究の中の大きなテーマの一つだが、かつては、出雲にヤマト王権と対峙する強大な政治的または宗教的勢力が存在したというのが通説的な理解であり、オオクニヌシの国譲りは王権による出雲制圧と出雲側の服属の史実の反映と考えられていた。



そのような中で、三谷栄一先生は、出雲が特殊な地域として位置づけられるのは、出雲が大和から見て「戌亥(西北)の隅」の方角にあたることに起因するという独自の説を提示していた。先生は古典や民俗から戌亥の方角に祖霊の世界があるという観念の事例を多く指摘し、記紀神話における出雲の位置づけをその世界観に基づいて理解しようとしたのである。



この「戌亥の隅」信仰説そのものについては、私は十分に納得できなかったが、しかし記紀神話の出雲の位置づけの特殊性を、史実の反映としてではなく、王権側からみた世界観の問題ととらえる視点を学んだ。のちに私が、この出雲の特殊性を、王権の宗教的世界観の問題として考えるようになるきっかけは、三谷先生の教えにあったということができる。



 


国学院入学直後にお世話になった先生がもう一人いる。民俗学の坪井洋文教授である。高校時代、角川文庫で柳田国男の『桃太郎の誕生』『遠野物語』『日本の祭』などを読んで、民俗学にも興味をもつようになったが、高校の日本史の先生が和歌森太郎門下の民俗学者(河上一雄先生)であったことから、私は民俗学が歴史学の一分野と信じて疑わなかった。



そこで柳田がかつて国学院の教授であったことにも魅かれて、国学院の史学科を志望したのだが、入学してみると、国学院では民俗学は史学科でなく、文学科で開講されていたのには驚いた。しかしそんなことはどうでもよく、講義要項を見て、坪井先生の授業に潜り込んだのである。



坪井先生からは、稲作農耕民の信仰の特質、とりわけ稲霊に対する信仰について多く学んだ。私の研究の一番のオリジナルは、記紀、風土記等にみえる神話・伝承や新嘗祭、祈年祭等の祭祀を分析する手法として、「稲霊信仰」という概念を提示してモチーフの構造分析をおこなう点にあると自認しているが、私の「稲霊信仰」論の基本的な考え方は坪井先生から学んだものである(なお構造分析の手法は、大学4年でお世話になる小松和彦先生から学んだ)。



このように、大学入学後、1・2年生の頃は、史学科の勉強はそっちのけで、文学科の古事記・日本書紀や民俗学の授業を熱心に聴講していたのだが、今、あらためて振り返ってみると、この時学んだことや出会いが、自身の学問形成に大きな影響を及ぼしていたんだなあと、これを書きながら実感した次第である。

→11月1日(月)につづきます




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