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出雲国風土記百景(第34景)

更新日:2023年5月1日

【神門郡の池】

出雲国風土記には多数の池が記載されている。どれも規模が大きく(多くが周り1里以上)、その造営には一定の労働力の投下があったとみられる。すでにいろいろな研究があるが、仁木聡氏などは、今日触れる神門郡の池をはじめとして王権の関与による大規模造営などを想定する。また、近世まで用水確保の難しかった地域(=現代までため池が多い地域)に記述が多いとの理解もある。

 『風土記』の池であるが、これも推定の難しいもののひとつで、その理由は郡家からの方位里程がない、池の固有名称が郷名などと重ならないことによるが、神門郡の池は遺称地名を含め比較的明確に分かっている。その一つが宇賀池(宇加池)である。


【宇賀池の堤体 2019年11月29日撮影】


この池は『風土記』神門郡713に「宇加池 周り三里六十歩」とみえ、全池の中で最大の規模を誇っている。また同郡古志郷条(666)にみえる古志の人が日渕川に作った池と推定されている。現在も地図の赤い部分に堤体が残っており、ここをせき止めることで、谷奥に大きな池を構築することができる(国土地理院の航空写真などを見ると、点線部分も堤体であったことがわかる)。現在は谷奥の小さな池になっているが、これは近世に神門川から十間川用水が引かれることによって、用水池としての機能が縮小したためである。

 同様の池は、規模こそ違え大和国益田池・河内国狭山池などにもみられる。

さて、この宇賀池の堤体がいつ構築されたのかは、明確でないが(仁木氏は欽明朝とみる)、明確な事例もある。それが同じく神門郡の日置郷に築かれた池である。

 



【三田谷の築堤箇所 2016年1月20日撮影】 三田谷は斐伊川放水路によって地形が一変しているが、この辺りには旧地形が残る。堤体は写真中の谷が狭くなっている場所で、この道路建設に伴う発掘調査で確認されれた。



これは、木簡の出土や泉の祭祀で知られる三田谷遺跡の谷の一番狭隘な部分を石を用いて築堤した池であり、築堤時期は12世紀ごろとされる。時期はだいぶん異なるが、神門郡域で谷をせき止める形の池が作られたことを示す事例といえるだろう。(平石 充)


【参考文献】仁木聡2019「『出雲国風土記』神門郡条の池と大念寺古墳の時代」『大阪府立狭山池博物館研究報告』10 


※次回の更新は5月6日土曜日です

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