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私の出雲古代史研究会夜話2

更新日:6 日前



                    内田律雄



3.出雲古代史研究会の発足


古代史サマーセミナー出雲大会終了後、井上寛司先生の提案で出雲古代史研究会発足に向けて準備が進められることになった。何回か、出雲と東京で発足に向けて会議を行い、サマ―セミナーから3年をかけて、1990年7月29日、第1回の研究会が島根大学の一室で開催された。出雲古代史研究会が産声を上げた瞬間であった。



第1回のテーマは「国引き神話の再検討」で、様々な視点から研究報告がなされ、白熱した議論が飛び交った。それは夜の懇親会でもさらに続き、遅くまで語り合った。会場の準備や設営、備品、懇親会の手配まで、すべて井上先生が手配して下さった。



懇親会の中で、近世史がご専門の小林俊二先生が、近世文書の研究の面白さを熱心に語っておられたのも印象的であった。晩年、先生は実家のある仁摩町で毎日自転車で仁摩町立図書館に通われノートをとっておられた。偶然、仁摩町で二年間仕事をする機会があり、時々、図書館の小林先生の指定席で邇摩の歴史についてお話を伺った。発足の頃は古代史に限らず様々な分野の研究者からも研究報告をしていただいた。



 


4.出雲古代史ブーム


こうして何とか船出した出雲古代史研究会であった。しかし、偶然か必然化はわからないが、前後して大東町の神原神社古墳の景初三年鏡、松江市の岡田山古墳の「額田部臣」銀象嵌の大刀、斐川町の荒神谷遺跡の銅剣・銅矛・銅鐸、加茂町の加茂岩倉遺跡の39個の銅鐸、大社町の出雲大社境内の中世出雲大社の巨大柱遺構が次々と発見され、出雲古代史ブームが巻き起こった。出雲神話が見直され、古代出雲王国論が飛び交った。



しかし、出雲古代史研究会はそのようなブームとは一線を画し、冷静にコツコツと研究会を続けた。とりわけ『出雲国風土記』の近世の諸研究を正しく批判継承していくことが重要であることを導き出したことは成果の一つであった。



 


5.レクエイムを越えて


しかし、順調に続けてきた出雲古代史研究会であったが、会の中心的メンバーで、研究会を引っぱってこられていた、小林覚先生(上代文学)と関和彦先生(古代史)を相次いで失ったのは大きな衝撃であった。これから古代出雲の総まとめに入られるところだったのに違いないからだ。


ただ、両先生が蒔かれた出雲古代史研究という種は、現在、新メンバーとなった幹事会を中心に確実に芽を吹きだそうとしているように思える。私はささやかながらその肥やしになれば幸いと思っている。



 


6.再び朝酌川流域へ


今、私は再び朝酌川流域の古代・中世へ目を向けている。その後の発掘調査で、新しい遺跡の調査成果が蓄積され、大幅に見直さなければならなくなってきたからである。牛歩の如くであるが、もし、成果があれば少しずつ『出雲古代史研究』に投稿したいと考えている。(了)


※今まで内田律雄「私の出雲古代史研究会夜話」をご覧くださり、ありがとうございました。




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