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私の出雲古代史研究会夜話1

更新日:2月18日



                    内田律雄



1.西川津遺跡


出雲古代史研究会が今年(2025年)で36回を迎えようとしている。36年前と言うと、私は松江市の島根大学近くにある西川津遺跡の発掘調査をしていた。その海崎地区の発掘調査報告書をまとめていたころだったと思う。


西川津遺跡は、朝酌川(『出雲国風土記』では水草河)の流域に展開された大規模な弥生時代を中心とする低湿地遺跡である。島根大学名誉教授の山本清先生は、その存在を早くから指摘されていた。遺跡が大学やご自宅の近くだったこともあってか、山本先生は遺跡周辺の電柱や水道工事の現場に注意を向けられ、弥生土器や石器を採集されていた。西川津遺跡の調査には、遺跡の極一部であったが、発掘調査に3年、報告書作成に3年かかってしまった。駆け出しの私には手に負えない遺跡だった。現在も報告できなかったことを整理し続けている。



 


2.嶋根郡山口郷

西川津遺跡のある朝酌川流域は、古代の嶋根郡山口郷に比定される郡家所在郷であった。溥井原古墳(横穴式石室が二つある前方後方墳)や金崎古墳群などの有名な古墳があるが、その前後の歴史はあまりわからなかった。


そこで、朝酌川流域の、原始・古代・中世の歴史を知る必要があると感じたので、報告書作成にあたり、原始・古代を私が担当し、そのころ島根大学で教鞭をとっていらした井上寛司先生に中世をお願いした。井上先生は快く引き受けて下さり、先生と私の共同研究(?)が始まった。その成果は西川津遺跡海崎地区Ⅰの報告書に掲載した。


『出雲国風土記』が記す山口郷は、


山口郷 郡家正南四里二百九十八歩。須佐能烏命の御子、都留支日子命、詔りたまひしく、「吾が敷き坐す山口の處」と詔りたまひて、故、山口負せ給ひき。

とあり、水草河は、


水草河 源は二つ。一つの水源は郡家東北三里一百八十歩、毛志山に出で、一つの水源は郡家西北六里一百六十歩、同じ毛志山に出でる。

とある。


郡家の位置は記されていないが、福原町の芝原遺跡とその周辺の遺跡が有力な候補地である。『出雲国風土記』によれば、山口郷には三つの「里」があった。しかし、「里」名は分からない。そこで、流域に残る条里遺構の痕跡をもとに、三つの「里」の位置関係を復元した。それが中世になると、東長田郷・西長田郷・持田荘に再編されることを井上先生の研究から学んだ。


こうして朝酌川流域の研究を進める中で、井上先生はいつも、島根県には、考古学、中世史、近世史、近・現代史の研究会はあるけど古代史がないので何とかしなければならないと仰っていた。私も古代山口郷の復元作業を通して、その必要性を感じるようになっていった。


そんな矢先、若手の古代史研究者が集う古代史サマーセミナーの出雲大会が開催されることになった。1987年7月のことである。何回かの準備委員会で、古代史は研究の最前線で活躍されていた関和彦先生、考古学は地元の私が基調講演を行うことになった。古代史には門外漢の私には一抹の不安があったがレジュメ原稿作成にあたっては朝酌川流域の山口郷の復原の経験が大いに役に立った。

→2025年3月1日(土)につづきます




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