若槻真治
一方、研究会発足より前に、正式名称は忘れたが、島根県教育委員会では “ 古代文化センター構想 ” が動き始めていた。これも荒神谷発見に端を発し、のちの古代出雲歴史博物館建設につながるものであったが、民間主導による研究会設立の動きと行政による古代文化研究推進の動きが、期せずして同時に動いていたことになる。「期せずして」と書いたが、両者が水面下でつながっていたかいなかったか、実態は知らない。ただ私の印象では別々の動きである。荒神谷の衝撃がそれだけ大きかったということではないだろうか。
古代文化センターは1992年に設立された。当初は体制も十分だったわけではないが、専門職員の採用も始まり、このことは出雲古代史研究会にとっても影響は大きかった。また1997年には島根大学に大日方克己先生が赴任され、古代史の研究室が初めてできた。
その前年の1996年には加茂岩倉遺跡で大量の銅鐸が発見されて、改めて出雲古代史が注目されるようになった。これらの「追い風」によって、出雲古代史研究会が東京のメンバーに “ おんぶにだっこ ” の状態から、より自律的な研究会へと徐々に変化したように感じている。私の会計任務もこのころ終了した。
個人的な思い出としては、若くしてお亡くなりになった小林覚さんと、私も好きだった折口信夫などを肴にして飲み会の席で楽しくおしゃべりしたことが忘れられない。また会誌の裏表紙を見ていただくとわかるが、『出雲古代史研究 第3号』くらいから「しまね文化ファンド」のマークが印刷されている。
私は会計をしていたが、発足当時は会員も少なく、翌年度会誌の売り上げで前年度の印刷費を支払うような自転車操業であった。会誌の印刷代がどうしても滞ってしまう。そこで外部資金の導入を図り、立ち上がったばかりの研究会の経費負担をどうにかして軽くしようとした。私が出雲古代史研究会に貢献したのは唯一このことであろう。
私は学術的な側面では研究会の役に立っていない。大会報告も会誌の「第7・8合併号」に掲載してもらった「聖性とは何か」の1本だけである。こうした概念的・理論的な追及が、出雲古代史に具体化すればよかったのだが、とうとうそれはできなかった。
年齢を重ねることで、私は自分の古代史研究が概念的で理論的なものにとどまることを自覚するようになった。自分が「出雲」を論じることはないと思うようになった。時間が足りなかった。と同時に、退職を機にかかわることになった石見銀山研究会と、戦後史会議・松江という近現代史を中心とした市民グループの活動に時間を割くことになった。島根県内で古代史を研究する人の数も増え、研究会発足当時の手薄だった体制も大幅に充実した。
あれやこれやで、私は出雲古代史研究会を退会させていただくことにした。退会したものがこのような文章を書かせていただいて申し訳ありませんでした。出雲古代史研究会が文献史学を中心にして、考古学や民俗学などとも共同しながら、今後ますます活発な議論を続けられることを心から願っています。(了)
※今まで若槻真治「出雲古代史研究会の思い出」をご覧くださり、ありがとうございました。