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出雲古代史研究会の思い出 第1回

更新日:10月25日



                   若槻真治



出雲古代史研究会の成り立ちについては、すでに松本岩雄さん(2022年5月1日)菊池照夫さん(2023年4月13日)野々村安浩さん(2023年12月1日)、最近では井上寛司先生(2024年8月1日)がこのブログでお書きになっているとおりである。



 


『出雲国風土記』や「出雲神話」「出雲大社」で広く知られていた" 出雲 ”であったが、研究は考古学が中心であり、文献史学は低迷していて、島根大学にも古代史を専門にする教官や研究室もなかったし、もちろん“ 出雲古代史 ”を正面に掲げた全国的な研究会は存在していなかった。



ところが1984年に荒神谷遺跡で大量の銅剣が、そして翌年にはこともあろうに銅鐸や銅矛も発見されて、まさに天と地がひっくり返るような衝撃を全国に与えた。そこで1987年7月に古代史サマーセミナーを松江で開催することになり、それが発端で1990年初頭から準備を始め、同年7月28日に、「文献を中心として出雲古代史を研究する」(『出雲古代史研究創刊号』)出雲古代研究会の、記念すべき設立大会を開催した。大まかに言うとこういう流れであった。



私が島根県庁に就職したのが1984年である。最初の仕事は、浜田土木事務所で“ 58災(昭和58年度災害) ”という、130名以上の犠牲者を出した未曽有の豪雨災害の復旧事務をすることであった(36協定の適用からも除外され、月100時間以上の残業が常態化していた)。荒神谷での銅剣・銅鐸・銅矛発見のニュースとその後のフィーバーを、私は遠い浜田で呆然と見ていた。



 


その後1987年4月の異動で文化財課に転勤になり、そうしているうちに、松本さんからだったか内田律雄さんからだったか忘れたが、今度松江で古代史サマーセミナーをやるから手伝ってくれと誘われ、会計を任された。古代史サマーセミナーのことは知っていたが、参加したのはこれが初めてだったように思う。ともかく、古代史の最前線で活躍されていた研究者の方たちが松江に大勢集まられたことが新鮮だった。



そして東京の故関和彦さんや瀧音能之さん、島根の井上先生や内田さんが中心となって「出雲古代史研究会」を設立することになり、考古学と比べて段違いに層が薄い島根県古代文献史学では、私のようなものまで島根側の運営委員になった。



ともかく若手(当時)では野々村さんと私だけのような感じで(これ自体驚きであったが)、野々村さんはともかく、半人前もいいところの私は場違いだなあと感じつつもお手伝いをすることになり、古代史サマーセミナーの続きで、研究会の会計をやることになった。



運営に関していえば、ともかく最初のころは東京の皆さんに“ おんぶにだっこ ”だったように思う。当時の大会報告者を見るまでもなく、研究会の中心は明らかに東京にあった。関さんをはじめとする東京の運営委員の皆さんには、お世話になったなあと今更ながら感じている。

→2024年11月1日(金)につづきます

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