委員 野々村安浩
1990年7月29日に出雲古代史研究会は、第1回の研究大会を島根大学法文学部法文棟2階会議室で開催し、その産声を上げました。
研究会の発足の前夜までの歩みについては、この「会員コラム」のなかで、1987年7月の第15回古代史サマーセミナーの松江市での開催をきっかけであったことは、すでに会員の菊地照夫氏(2022年4月13日)や松本岩雄氏(2022年7月22日)により触れられています。
ここでは、研究会の発足にかかわりました委員の一人として、発足前後のことを思い出して述べてみます。
研究会発足までの詳しい動きについては、菊地氏のブログに譲り、そのほかのことを落穂拾い風に記します。30余年前のメモがすぐには見つからず、あいまいな記憶のままです。ご了承ください。
7月29日の研究会発足に先立ち、7月の半ば、研究会準備のメンバーであった島根大学教授の井上寛司氏と野々村二人で、島根県庁の記者室で、マスコミ各社へ研究会発足の意義などについて記者レクチャーを行いました。
この記者レクへの段取りについては、研究会準備メンバーのなかに文化財関係で記者レクを経験している島根県職員もいましたし、井上氏は島根県内の遺跡保存活動のなかで記者レクもされていましたので、おそらくその方々によって準備されたと思います。
わたしはその場に出かけ、少し説明しただけの感じでした。その場ではマスコミ各社の記者からは特段の質問もなく、はたして研究会の広報はどうだっただろうか、との記憶があります。
研究会の当日の7月29日、研究会のテーマの「国引き神話」に関わる30日の見学会の様子は、前記の菊地氏のブログに譲ります(写真1参照、『出雲古代史研究』第1号 57頁)。
翌30日の山陰中央新報の紙上に、この研究大会の様子が取り上げられました(写真2)。また、29日研究会会場に参加していた山陰中央新報社の文化部の記者O氏の方から、この研究会の概要について新聞原稿の執筆を求められました(8月11日の掲載記事は写真3)。
掲載写真には報告者の武廣亮平氏、研究会の横幕、懸垂幕の文字は井上氏の手作り(なお、この記者の方は研究会にまもなく入会され、その後、時々研究会誌の新刊情報を新聞記事にしていただきました)。
また、研究会発足時の運営委員の一人の井上氏が、島根史学会の事務局メンバーでもあった関係で、この新聞記事と同趣旨の内容(野々村筆)を、『島根史学会会報』第19・20号(1990年12月9日刊)に掲載していだたきました。それを島根史学会の許可を得て、1991年5月刊行の『出雲古代史研究』第1号(54~55頁)に転載しています(写真4)。
ところで、研究会誌『出雲古代史研究』の表紙などの体裁が1991年5月刊行の第1号と翌年の第2号以降が違っています(写真5,写真6)。
これは、研究大会当日・見学会などの運営の負担が島根県側の運営委員に多く依っていると、当時、代表委員であった関和彦氏が中心となり、東京の委員の方々によって編集・刊行されたためです(写真7、第1号の奥付)。
そのため、巻末の研究会概要の割り付け(写真8)などは、関氏独特の、一瞬、縦書きと間違えそうになるワープロの文字配列です。第2号は、島根の運営委員(当時)であった内田律雄氏を中心として編集、松江市の業者による印刷で行いました。その後、現在では会誌の編集作業、印刷業者とのやり取りなどは島根の運営委員が担当しています。
研究会発足時の、遠い思い出のいくつかを拾穂し、備忘のために記してみました。(このブログ作成にあたっては、今夏に委員の竹廣亮平氏から資料を賜ったことがヒントになりました。)