会員 松本岩雄
「出雲」といえば、「神々の国」「神話の国」とイメージされる方が多いのではないでしょうか。『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)にみえる神話の舞台の多くが出雲であるからでしょう。日本統一の由来を物語る記紀神話のなかで、なぜ出雲が多く登場するのでしょうか。
それを証明する出雲の考古学的資料は、長い間全国的に注目されるものがなく、「記紀は大和朝廷が、支配を合理化するためにつくりだした政治的な所産」であることから、実態とはおよそ無縁のものとされてきました。出雲の古墳の規模をみても100mを超えるものはなく、考古学的な資料から全国的な議論の対象とされることはありませんでした。
ところが1983年12月、松江市大草町の岡田山1号墳出土の円頭大刀にX線を照射したところ、「額田部臣」という人名を記した銘文が発見されました。実は、当時私は八雲立つ風土記の丘担当であり、展示品を観察しているなかで、金属製品の保存処理を行う必要があると思っておりました。なかでも岡田山1号墳の遺物は1915年(大正4)に出土したものであり、早急に実施すべきであると県財政課と何度も交渉して予算確保を行い、元興寺文化財研究所へ保存処理を委託していたものだったのです。そうした中で銘文が発見され、銘文解読検討会では古代史研究者の岸俊男先生・狩野久先生・鬼頭清明先生にお世話になりました。全国的に注目されることになったことから、財政課の対応も大きく変わりました。
1984年度予算として岡田山古墳及び出土品の調査費(国庫補助事業)をつけていただき、着々と事業を進めていたところ、7月12日に荒神谷遺跡(現:出雲市斐川町)で銅剣が発見されました。この遺跡は、農道建設計画に伴い、1982年4月12日に斐川町教育委員会の金築基さんと私が農道予定地の分布調査を行い、須恵器片を採集したことからマークしていたものでした。遺跡の範囲確認を行うために、島根県教委の足立克己さんが試掘調査を行っている際に発見されたものです。
銅剣発見日の夜から県職員が交代で現地に宿泊して調査雄を継続し、8月30日に銅剣358本の取り上げを終了しました。当時、全国各地から出土した銅剣は総数約300本でしたから、1か所から358本の出土は驚異的な数です。調査にあたっては、青銅器研究のエキスパートである岩永省三さん(奈良文化財研究所)をはじめ多数のスタッフが加わりました。調査中には連日多くの見学者が訪れたほか、全国の研究者の来訪もひっきりなしという状況でした。
荒神谷遺跡では、1985年7月から銅剣出土地の周辺の調査を行うこととなり、島根県教委の宮澤明久さんが担当されました。電探調査・試掘調査がほぼ終了したので、7月18日に指導会(山本清先生・池田満雄先生・田中義昭先生)が開催されました。
ところが、19日に宮澤さんから文化課本庁にいた私のところに「銅鐸らしいものが出た」との電話連絡がはいり、現地へ急行しました。まぎれもない銅鐸であり、急遽略測図を作成するとともに写真撮影を行い、夕刻帰庁しました。課内協議の結果、翌日記者会見をすることになり、発表資料を作成するとともに、夜間に写真店(井上松影堂)へ駆け込み、今夜中に現像と焼き付けをお願いして、なんとか記者発表までに資料を整えました。
実は、院友会(國學院大學卒業生会)島根県支部では、出雲で大発見が続いていることから大規模な講演会を企画し、7月21日に島根県民会館で開催予定になっており、私はその世話役を仰せつかっていました。青銅器は乙益重隆先生、岡田山鉄刀銘文は平野邦雄先生、出雲国造火継ぎ神事は平井直房先生にお願いしていました。乙益先生と平野先生は20日の昼に空港到着ということで、午後は荒神谷遺跡へご案内し、出土したばかりの銅鐸を見学していただきました。
その後、銅鐸6個が確認され、その東側で8月16日には銅矛16本が出土しました。これまで、銅鐸と銅矛は一緒に出土することはないとされていましたが、またまた常識をくつがえす発見となったわけです。
そのころ、國學院大學の林陸朗先生、今江廣道先生、鈴木靖民先生と院生約8名ご一行が隠岐・出雲巡見をされており、千家和比古さんと私と妻の車で出雲の遺跡を案内することになったのです。ちょうど銅鐸・銅矛の調査中であった荒神谷遺跡もご案内しました。
その折に鈴木先生から突然、来年の夏に出雲で「古代史サマーセミナー」を開催してほしいとの依頼がありました。出雲は古代史に関して特に注目されている地域でありながら、当地には文献史学の古代史研究者がほとんどいないばかりか、古代史の学会もないうえ、大学の講座もないので、その時は躊躇しました。ただ、鈴木先生の依頼を簡単に断るわけにもいきません。
当地は、『出雲国風土記』(733年)・『出雲国計会帳』(734年)・『出雲国賑給歴名帳』(739年)・『優婆塞貢進解』(743年)など、ほぼ同じ時代の各種の史料が残存している稀有な地域でもあります。それにもかかわらず、こうした史料を踏まえてきちんと「古代の出雲像」が構成されているかといえば、はなはだ心もとない限りです。
岡田山古墳鉄刀銘文の発見や荒神谷遺跡での大量青銅器発見などにより、にわかに古代出雲に関する論議が沸騰していた時期でもあり、私自身出雲の古代社会について文献史料も見据えながら基礎的な作業を行う必要性を痛感していました。当時は、そもそも「古代史サマーセミナー」なるものがどのような会で、どのように運営されているのかさえ知らなかったので、来年度(1986年)は状況視察として参加し、1987年度開催ということでお引き受けすることにしました。
1986年は、第14回古代史サマーセミナーということで、栃木県で開催されました。7月24日朝米子空港を出発し、東京から栃木の会場へ向かう列車の中で通路を挟んだ席の女性がゲラ刷りを手に校正をされていた。もちろんどなたか知らない方であったがその隣の席の男性との会話から、古代史研究者であることは容易に知ることができました。このお二人について行けば、会場に無事にたどり着けるななどと思っていたところ、会話から男性の方が原秀三郎先生であるこが分かった。あの有名な原先生なんだ!・・・、と驚愕しました。案の定、お二人はセミナー参加者であり、会場に到着したところ、女性の方は武田佐知子先生であることが判明しました。
とりあえず午後の研究会に参加して、セミナーの雰囲気を視察したのですが、分厚い整った研究報告資料には驚きました。また、テーマもⅠ東国における首長墓の変遷、Ⅱ在地社会と文字資料、Ⅲ分科会研究報告(A・B・C)となっており、とても充実したものであり、島根でお引き受けしたものの、このようなセミナーは開催できないなあと不安になりました。
二日目の研究会は参加せず、芹沢清八さん(栃木県文化振興事業団)の案内により、上侍塚古墳・下侍塚古墳・那須国造碑・駒形大塚古墳などを見学し、三日目はセミナー主催の見学会に参加して帰途につきました。東国の遺跡を見学できたのはとても良かったのですが、栃木県と同等なセミナー開催はなかなか困難だろうな、という印象でした。
セミナー開催準備にあたっては、関心がありそうな方にお声がけして、実行委員会つくることにしました。メンバーとして島根大学の田中義昭先生・渡邊貞幸先生、古代史を研究されている野々村安浩さん(松江東高校)・若槻真治さん(県文化財課)・内田猛さん(島根大学学生)のほか、埋文調査に携わっている内田律雄さん・川原和人さん・宮沢明久さん・三宅博士さん・柳浦俊一さんに加わっていただいた。実行委員会(11名)の委員長には田中先生に引き受けていただき、事務局を私が担当することになりました。
1987年の1月以降は、ほぼ月に1度の打ち合わせ会を開催して準備を進めました。文献史料と考古学的な知見を総合することを念頭におき、古代「出雲国」の成立とその在地構造を明らかにすることを統一テーマとして方向と討論を設定しました。
第15回古代史サマーセミナーは、1987年7月23日~25日にホテル宍道湖(松江市西嫁島町)で開催しました。どのような大会になるのか不安でしたが、156名(内島根県参加者56名)の参加者がありました。
第15回 古代史サマーセミナー
1日め | |
基調講演1 | 関 和彦 「『出雲国風土記』と古代社会」 |
基調講演2 | 内田 律雄 「『出雲国風土記』の考古学」 |
遺跡紹介 | 三宅 博士 「出雲の古代遺跡」 |
2日め | |
シンポジウム1 | 出雲国の成立をめぐる諸問題 |
| 遠山美都男 「岡田山鉄刀銘と部民制の構造」 |
| 菊地 照夫 「出雲神話の背景」 |
| 渡辺 貞幸 「古墳からみた出雲国の成立」 |
シンポジウム2 | 『出雲国風土記』をめぐる諸問題 |
| 中村 聡 「『出雲国風土記』にみえる「村落」史料の性質について」 |
| 大浦 元彦 「意宇郡における郡司と国造」 |
| 野々村安浩 「出雲国出身の仕丁の動向」 |
| 山下 有美 「出雲国計会帳に関する基礎的考察」 |
| 柳浦 俊一 「大井産須恵器の流通について」 |
3日め | |
現地見学会 | 史跡出雲玉作跡・出雲玉作資料館→神原神社古墳→荒神谷遺跡 今市大念寺古墳→上塩冶築山古墳 |
一応の統一テーマを設定したものの、他地域の研究者の見解を伺いたいとの希望から特に地元で関心のある事柄を独断で選択した面も否めません。そのため、一つのテーマについて深く議論できなかったこともあり、反省しております。
なお、当時は出雲地域の古代史研究がきわめて低調だったこともあり、「古代史サマーセミナー」を契機に少しでも機運が高まればと思い、発表記録を作成することにしました。記録集作成にあたっては、平野芳英さん(八雲立つ風土記の丘)をチーフに島根大学の学生さん(内田猛さん、新海正博さん、大西貴子さん、柴尾由美さん、岡本悦子さん、松尾晴司さん、有富雪子さん、間野大丞さん、物部茂樹さん)にテープ起こしを行っていただきました。発表者との交渉と編集は松本が担当し、1987年12月30日に刊行しました。
印刷費は無かったのですが、156名の参加者プラス50~60名の方に購入していただければ、なんとか赤字にはならないだろうという目論見で刊行しました。幸い、すぐに完売となり、印刷屋さんに支払うことができました。現在では、個人情報保護のため考えられないことですが、この記録集には参加者の氏名・住所をすべて掲載しました。「学問は出会い」であろうと思っており、たとえばこのセミナーに集った人々が何かの繋がりを持てば、様々な化学反応をおこして発展するのではないかと思います。そうした思いから参加者名簿を掲載したのですが、今となっては発禁本といういことでしょうね。
ただし、この第15回古代史サマーセミナーに集った人々の想いが一つの契機となって1990年7月29日に『出雲古代史研究会』が発足したことは、大きな意義があったのではないかと思います。
『出雲古代史研究会』の益々の発展を祈念しております。