Izumo ancient history studies group
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- 日本海地域と渤海使 第1回
委員 吉永壮志 皆さま、こんにちは。出雲古代史研究会委員の吉永壮志です。 2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」がスタートして数か月が経ちました。主人公は『源氏物語』の作者で知られる紫式部(むらさきしきぶ)で、平安時代が大河ドラマの舞台となるのは2012年の大河ドラマ「平清盛」(たいらのきよもり)以来のようですから、干支がちょうど一回りしたことになります。 さて、その「光る君へ」には、紫式部が生きた10世紀後半から11世紀前半に活躍した、さまざまな人物が登場しています。そのなかで私が注目するのは中国宋の商人である朱仁聡(しゅじんそう)です。当時、外国との窓口として大宰府が重要な役割を果たしていましたが、朱仁聡は長元元年(995)に若狭に来着し、その後、越前に移っており、長保2年(1000)年頃に大宰府に赴くまで、約5年間、日本海地域に滞在していました。 朱仁聡が日本に来着した翌年の長元2年(996)には紫式部の父である藤原為時(ふじわらのためとき)が越前守に任じられており、在任中に宋人と漢詩のやりとりをしたことが知られています(『 本朝麗藻 』(ほんちょうれいそう)下、贈答)。 学者であった為時は漢詩に通じていたため、宋人の対応役として急遽越前守に任じられた可能性が考えられますが、その為時の越前下向に紫式部も従っており、父為時と宋人との交流の様子を紫式部は間近でうかがい知ることができたかもしれません。 大河ドラマ「光る君へ」において、紫式部と朱仁聡ら宋人との関係がどのように描かれるのか、もし描かれるようなことがあれば、その際は本コラムでも越前における宋人との交流について少し触れてみたいと思います。 やや話が逸れましたが、 宋の商人朱仁聡の存在から、平安時代の外国の商人との窓口として、大宰府を中心とする北部九州だけでなく、若狭・越前を中心とする日本海地域も機能していたことを知っていただくことができたのではないかと思います。ただ、これは宋の商人が登場する平安時代中期以降だけでなく、それ以前からみられていました。その「商人」が本コラムのタイトルにある「渤海使」(ぼっかいし)です。次回、渤海使についてお話します。 ※ 第35回出雲古代史研究会大会が「古代出雲と日本海交通」をテーマとして8月24日(土)に開催されます。平安時代の日本海交通を中心に出雲・石見・隠岐の概要を明らかにするとともに、このような交通が地域社会にいかなる影響を与えたのか、その意義について検討する予定です。 考古学・文献史学などを専門とする4名の報告とパネルディスカッションが行われますので、是非ご参加いただければと思います。なお、大会の詳細ならびに申し込みは、 当ホームページの大会のご案内ページ をご覧ください。 →次回更新2024年6月23日 → 出雲古代史研究会大会ご案内ページ
- 日本海地域と渤海使 第2回
委員 吉永壮志 渤海使(ぼっかいし)について話す前に、まず渤海という国について簡単に紹介すると、高句麗(こうくり)の遺民である大祚栄(だいそえい)が靺鞨(まっかつ)人を統合して7世紀末に建てた国で、中国東北地方東部や朝鮮半島北部を領有しました。 中国の唐に朝貢し、713年に大祚栄が渤海郡王に封じられてから、渤海を称するようになり、唐の文化や制度を取り入れ、9世紀には隆盛を極めるものの、内紛で国力が衰退し、926年に契丹(きったん)により滅ぼされました。 高句麗遺民の大祚栄を始祖とする渤海は高句麗後継ともいうべき国で、朝鮮半島の南下を志向し、それは新羅(しらぎ)との対立をもたらすことになります。そのような状況下で、新羅を牽制するため、渤海は日本との通交を目指し、使者を日本に派遣します。それが渤海使で、727年に大使高仁義(こうじんぎ)ら24名が派遣されたのが初見です。 ただ、このときは出羽に来着し、高仁義ら16名が殺害され、生き残った高斉徳(こうせいとく)ら8名のみが入京し、翌神亀5年(728)、渤海王の書や貢納品を聖武天皇に献上しました(『続日本紀』神亀4年9月21日・12月29日条、神亀5年正月17日条)。これが渤海と日本との通交のはじまりで、その後、33回の渤海使の来日が知られています。 その渤海使の来着地は、8世紀末に大きな変化がおこります(表 渤海使一覧参照)。8世紀末までは出羽が多く、それ以外も越後・能登・越前というように、日本海地域でも東部に来着する傾向がみられるのに対し、8世紀末以降は伯耆・出雲・隠岐といった山陰道諸国に来着する一方、出羽への来着はみられなくなり、能登より西の日本海西部地域への来着が中心となります。 これは、渤海から日本への航海ルートの変化に伴うもので、8世紀末までは日本海を北回りで渡っていたのに対し、それ以降は両国の中間に位置する鬱陵島(ウルルンド)を経由し、直接、あるいは島伝いに日本を目指すようになったことによると考えられます。そして、そのルート変更の背景としては新羅の弱体化が挙げられるのですが、それは渤海の日本との通交の目的である新羅を牽制する必要性が小さくなったことを意味します。しかし、それでもなお、渤海使は日本に派遣され続けます。 その目的は一体なんなのでしょうか。その答えのヒントが、藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)の渤海使に対する認識です。緒嗣は延暦24年(805)に菅野真道(すがののまみち)と征夷・造都の二大事業の継続・廃止を巡って議論した、いわゆる「徳政相論」で有名な人物ですが、その8年前の延暦16年(797)に出雲守であったことが確認できます(『公卿補任』(くぎょうぶにん)延暦21年条)。 もちろん、当時、右衛門督として京で勤務していたため、出雲に常駐していたわけではありませんが、延暦17年(798)、出雲の隣国である隠岐に渤海使が来着しており、渤海使の内情や実態を知ることができた可能性はあります。 そのような緒嗣は、天長2年(825)に隠岐に来着し、出雲に安置された渤海使を「商旅」(『類聚国史』(るいじゅうこくし)巻194渤海下、天長3年(826)3月1日条)、つまり商人と述べ、入京させずに出雲から渤海に帰国させることを主張します。時の右大臣の発言であったものの、結局、渤海使は入京していますが、9世紀はじめ、渤海使が商人とみなされていたことがわかります。 やや冗長な説明になりましたが、8世紀末以降、渤海使が商人、つまり貿易目的で来日すると認識されていたことを皆さんに知ってもらえたのではないかと思います。次回は、渤海使が日本海地域のどのようなところに滞在していたのかお話したいと思います。 →次回更新2024年7月21日 → 出雲古代史研究会大会ご案内ページ
- 日本海地域と渤海使 第3回
委員 吉永壮志 渤海使(ぼっかいし)が8世紀末を境に出羽を中心とする東日本海地域から山陰を含む西日本海地域に来着するようになったこと、その渤海使の来日目的が通交というよりも貿易にかわると考えられることを、前回のコラムで紹介しました。 今回のコラムでは、渤海使が日本海地域に来着した際、どのようなところに滞在していたのかお話したいと思います。 渤海使は34回の来日が確認できますが、そのうち、具体的に日本海地域で滞在先がわかるのが、延喜19年(919)、若狭に来着し、越前の「松原駅館」に移された大使裴璆(はいきゅう)です(『扶桑略記』(ふそうりゃくき)延喜19年11月18日・12月24日条)。 『延喜式』(えんぎしき)雑式21松原客館条に「越前国松原客館」とみえ、駅館と客館は同一のもので、松原客館は松原駅に併設されていたと考えられます。ちなみに、『延喜式』兵部式81北陸道駅伝馬条に「越前国駅馬」として最初に「松原八疋」と記され、敦賀市松島町には国名勝に指定されている「気比松原」が存在することから、松原駅はその近辺にあったと思われます。 また、近くには気比神宮があり、先に挙げた『延喜式』雑式21松原客館条に気比神宮司が松原客館を検校するとみえることも、当地に松原客館ならびに松原駅があったことを示唆します。そもそも、外国使節は国家間の通交のため、京に赴き、国書を渡す役目を帯びています。 そのため、駅を利用しながら陸路で京にむかうことが想定され、駅の近くに客館を設け、そこに滞在することは便宜的な面があったと考えられます。越前においては、船の停泊可能な敦賀湾に面する松原客館(駅館)が渤海使の滞在施設として機能していたといえます。 ただし、渤海使の滞在施設は越前だけでなく、他にもあったと考えられます。前回のコラムに掲載した表(渤海使一覧)をみると、来着地として能登が確認でき、その能登には渤海使を迎接するための「客院」の建設が命じられています(『日本後紀』(にほんこうき)延暦23年(804)6月27日条)。 その「客院」、いわゆる能登客院がどこにあったのか、確定しているわけではありませんが、先の松原客館の立地がヒントになるのではないかと思います。つまり、船が停泊可能で駅に近く、神社が近在しているところです。 『延喜式』兵部式81北陸道駅伝馬条には「能登国駅馬」として撰才・越蘇の2駅しか確認できませんが、『日本後紀』大同3年(808)10月19日条に越蘇・穴水・三井・大市・待野・珠洲の6駅を廃止したと記されていることから、越蘇駅は大同3年以降に復されたとして、もともと7駅存在していたことが判明します。 このうち、撰才駅のみが一度も廃止されることがなく、『延喜式』にも記され、交通の要衝にある駅として能登において特に重要視されていたと考えられます。その比定地は現在の石川県羽咋市飯山町周辺とされており(三浦純夫「能登邑智潟周辺の古代交通路」(東四柳史明編『 地域社会の文化と史料 』同成社、2017年))、かつては邑智潟と呼ばれるラグーンが近くに広がっていた水上交通においても重要な場所でした。 しかも、越中守大伴家持(おおとものやかもち)が国内を巡行した時(このとき能登は越中に併されている時期)の歌である『万葉集』4025番の題詞に「気太神宮」とみえる気多大社が撰才駅比定地の近くに存在しており、先の松原客館と気比神宮と同様な関係がうかがえます。 すなわち、能登における渤海使の滞在先としての客院は邑智潟に近く、水陸交通の要衝として機能した撰才駅周辺に置かれ、その客院には近在する気多大社がかかわっていたかもしれません。 以上、来日した渤海使の日本海地域における滞在先について紹介してきましたが、越前や能登だけでなく、隠岐や出雲といった山陰地域にも渤海使は来着しています。次回は「出雲古代史研究会」の会員コラムに相応しく、出雲における渤海使についてお話したいと思います。 →次回更新2024年8月18日 → 出雲古代史研究会大会ご案内ページ
- 出雲国に流されることになった藤原隆家
委員 大日方克己 2024年大河ドラマ「光る君へ」で第19話「放たれた矢」が放送された。出雲国ともかかわりがあるため、「長徳の変」のことを書いてみよう。「長徳の変」は藤原伊周・隆家兄弟の政治的な失脚であり、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷された。実質的な流罪である。 きっかけは、長徳2年(996)正月16日の花山法皇狙撃事件だとされる。事件の状況は『栄花物語』では、伊周は故太政大臣源為光の娘のもとに通っていたが、花山法皇も同じく通っていると誤解して、従者に法皇の乗っている車に矢を射かけさせたとする。『小右記』は、伊周・隆家と花山法皇が故為光邸ではちあわせし、闘乱になって童子2人が殺害されたという藤原道長の手紙を載せている。 この事件と、東三条院詮子を呪詛したこと、大元帥法(たいげんのほう)を行ったことの罪が問われたのである。大元帥法とは、鎮護国家や敵の調伏(まじないによってのろい殺す)のために行われる密教の強力な修法であり、朝廷・国家のみが行うことのできるもので、個人が私的に行うことは禁止されていた。 隆家は、長徳2年(996)4月24日に、中納言から出雲権守に左遷され、5月1日に出雲へ向けて出発した。『後拾遺和歌集』には、隆家が出雲の国に流される道で詠んだ次の歌が収められている。 さもこそは 都のほかに 宿りせめ うたて露けき 草枕かな ところが、隆家は病気だということで、途中の但馬国にとどまった。10月7日には許されて都にもどしてほしいと願う申文という文書を朝廷に出している。この申文は高階成忠が代筆した。成忠はあの高階貴子の父である。貴子は道隆の妻で定子・伊周・隆家の母。つまり成忠は隆家の祖父である。 そして翌長徳3年4月5日、東三条院詮子の病気による恩赦で許されて、都にもどった。結局、隆家は出雲にはこなかった。 隆家は公卿の地位にもどり、その後中納言に復帰している。その間、大宰権帥を兼任し、眼の病気を唐人医師に診察してもうために大宰府に下っていた時に起ったのが寛仁2年(1019)の「刀伊の襲来」である。「刀伊」と呼ばれた東女真人の船団が、朝鮮半島(高麗)東岸を襲撃し、さらに南下して対馬・壱岐・博多周辺を襲撃した事件で、隆家が陣頭指揮を執って撃退したとされる。このため、出雲など日本海沿海地域にも警備体制がとられ、緊張が走っていた。 《参 考》 『 松江市史 通史編1自然環境・原始・古代 』(松江市史編集委員会、2015年、本体5000円)、pp.744-745、p.789
- 出雲古代史研究会の発足ごろの思い出
委員 野々村安浩 1990年7月29日に出雲古代史研究会は、第1回の研究大会を島根大学法文学部法文棟2階会議室で開催し、その産声を上げました。 研究会の発足の前夜までの歩みについては、この「 会員コラム 」のなかで、1987年7月の第15回古代史サマーセミナーの松江市での開催をきっかけであったことは、すでに会員の 菊地照夫氏 (2022年4月13日)や 松本岩雄氏 (2022年7月22日)により触れられています。 ここでは、研究会の発足にかかわりました委員の一人として、発足前後のことを思い出して述べてみます。 研究会発足までの詳しい動きについては、菊地氏のブログに譲り、そのほかのことを落穂拾い風に記します。30余年前のメモがすぐには見つからず、あいまいな記憶のままです。ご了承ください。 7月29日の研究会発足に先立ち、7月の半ば、研究会準備のメンバーであった島根大学教授の井上寛司氏と野々村二人で、島根県庁の記者室で、マスコミ各社へ研究会発足の意義などについて記者レクチャーを行いました。 この記者レクへの段取りについては、研究会準備メンバーのなかに文化財関係で記者レクを経験している島根県職員もいましたし、井上氏は島根県内の遺跡保存活動のなかで記者レクもされていましたので、おそらくその方々によって準備されたと思います。 わたしはその場に出かけ、少し説明しただけの感じでした。その場ではマスコミ各社の記者からは特段の質問もなく、はたして研究会の広報はどうだっただろうか、との記憶があります。 研究会の当日の7月29日、研究会のテーマの「国引き神話」に関わる30日の見学会の様子は、前記の菊地氏のブログに譲ります(写真1参照、『出雲古代史研究』第1号 57頁)。 翌30日の山陰中央新報の紙上に、この研究大会の様子が取り上げられました(写真2)。また、29日研究会会場に参加していた山陰中央新報社の文化部の記者O氏の方から、この研究会の概要について新聞原稿の執筆を求められました(8月11日の掲載記事は写真3)。 掲載写真には報告者の武廣亮平氏、研究会の横幕、懸垂幕の文字は井上氏の手作り(なお、この記者の方は研究会にまもなく入会され、その後、時々研究会誌の新刊情報を新聞記事にしていただきました)。 また、研究会発足時の運営委員の一人の井上氏が、島根史学会の事務局メンバーでもあった関係で、この新聞記事と同趣旨の内容(野々村筆)を、『島根史学会会報』第19・20号(1990年12月9日刊)に掲載していだたきました。それを島根史学会の許可を得て、1991年5月刊行の『出雲古代史研究』第1号(54~55頁)に転載しています(写真4)。 ところで、研究会誌『出雲古代史研究』の表紙などの体裁が1991年5月刊行の第1号と翌年の第2号以降が違っています(写真5,写真6)。 これは、研究大会当日・見学会などの運営の負担が島根県側の運営委員に多く依っていると、当時、代表委員であった関和彦氏が中心となり、東京の委員の方々によって編集・刊行されたためです(写真7、第1号の奥付)。 そのため、巻末の研究会概要の割り付け(写真8)などは、関氏独特の、一瞬、縦書きと間違えそうになるワープロの文字配列です。第2号は、島根の運営委員(当時)であった内田律雄氏を中心として編集、松江市の業者による印刷で行いました。その後、現在では会誌の編集作業、印刷業者とのやり取りなどは島根の運営委員が担当しています。 研究会発足時の、遠い思い出のいくつかを拾穂し、備忘のために記してみました。(このブログ作成にあたっては、今夏に委員の竹廣亮平氏から資料を賜ったことがヒントになりました。)
- 歴史学研究会 卒業論文報告会2024
#歴史学研究会(#東京)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり第26回卒業論文報告会をひらくことになりました。ご多用の折ですが、なにとぞご参加くださいませ。 → 歴史学研究会について → 会誌『歴史学研究』 歴史学研究会 日本古代史部会 第26回 卒業論文報告会 日 時:2024年8月18日(日)10:00~18:15(入室09:45~) 会 場:オンラインZoom 参 加:無料/ 事前申込み [8/16 金まで] その他:終了後にリモート飲み会あります 10:00~10:05 開会の挨拶 10:05~11:05 第1報告 笠井 雄元(早稲田大学) 「加耶をとりまく倭と朝鮮三国 -5・6世紀における加耶諸国の動向-」 11:05~12:05 第2報告 嶌田 花耶(駒澤大学) 「「丁未の乱」の政治的意義」 13:00〜14:00 第3報告 伊藤 愛実(大正大学) 「平城宮東院庭園の変遷過程と天皇の代替わりについての考察」 14:00〜15:00 第4報告 清水 愛斗(明治大学) 「儀式次第から見た雷鳴陣実施の変遷について」 15:00~16:00 第5報告 風巻 愛宝(東京大学) 「平安期歌合の起源と展開」 16:15〜17:15 第6報告 藤本 梨那(慶應義塾大学) 「摂津職の権能について -津国の管掌との関係を中心に-」 17:15〜18:15 第7報告 北村 友唯(早稲田大学) 「平安期における宋商人の対日交易と東アジア海域 -宋商人を媒介としたつながり-」 18:30~20:30 リモート懇親会
- 歴史学研究会 卒業論文報告会2019
歴史学研究会 (東京)は、日本最大手の学会の一つです。日本古代史部会は、次のとおり第21回 卒業論文報告会をひらくことなりました。ご都合がつく方はぜひご参加のほどお願いいたします。 → 歴史学研究会について → 会誌『歴史学研究』 歴史学研究会 日本古代史部会 第21回 卒業論文報告会 日 時:2019年7月27日(土)13:00~17:00(開場12:30) 会 場: 明治大学 駿河台キャンパス リバティタワー14階1146教室 → 交通アクセスのページ 報 告:①竹部 夏 (お茶の水女子大学) 「奈良時代の女帝とキサキ」 ②鎌塚 大地(明治大学) 「律令制下における皇親給与制に関する一考察-親王任国を中心に-」 ③髙橋 宙暉(早稲田大学) 「九・十世紀家政機関の職員とその活動」 ④花畑 佳奈(國學院大學) 「10 世紀末から11世紀にみられる中宮大饗の変遷」
- 歴史学研究会 卒業論文報告会2022
#歴史学研究会(#東京)は、日本最大手の歴史学会の一つです。このたび、次のとおり卒業論文報告会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、#出雲国造 の報告もありますので、ふるってのご参加をなにとぞよろしくお願い申し上げます。 → 歴史学研究会について → 会誌『歴史学研究』 歴史学研究会 日本古代史部会 第 24 回卒業論文報告会 日 時:2022年8月13日(土)13:00~18:30(12:45より開場) 参 加: 無料 / 事前申込み [8/11 木まで]/先着100名 その他:オンライン懇親会あります 報告 13:05〜14:05 報告① 古川堅梧(立教大学) 「出雲国造の変遷と出雲国造神賀詞奏上儀礼の意義」 14:05〜15:05 報告② 関 美祐(早稲田大学) 「陰陽道の成立と陰陽道祭祀」 15:20〜16:20 報告③ 松田めぐみ(東京大学) 「平安中期の祖先祭祀-荷前を中心に-」 16:20〜17:20 報告④ 守上知樹(東京大学) 「古代国家の儀式と蝦夷」 17:30〜18:30 報告⑤ 陳 泓錚(明治大学) 「考課文書に関する一考察-唐代文書との比較を中心に」
- 歴史学研究会 卒業論文報告会2023
#歴史学研究会(#東京)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり第25回卒業論文報告会をひらくことになりました。ご多用の折ですが、なにとぞご参加くださいませ。 → 歴史学研究会について → 会誌『歴史学研究』 歴史学研究会 日本古代史部会 第25回 卒業論文報告会 日 時:2023年8月13日(日)13:00~17:20(入室12:45~) 会 場:オンラインZoom 参 加:無料/ 事前申込み [8/11 金まで]/先着100名 報 告:①佐々木孝輔(早稲田大学) 「贄・調の成立と特質」 ② 小竹セイラ (早稲田大学) 「日本古代の疫病」 ③小山 大貴(東京大学) 「律令国家における太上天皇の権能」 ④神村 友大(國學院大學) 「8世紀における議の機能と性格」 その他:リモート飲み会あります
- ガイド養成講座 2024-08
#島根県立八雲立つ風土記の丘( #松江市 )は、今年度も #ガイド養成講座 をひらいています。感染予防をとったうえでなにとぞご参加くださいませ。 令和6年度 第2回ガイド養成講座 戦争遺跡のいまとこれから 日 時:2024年8月10日(土)14:00~16:00 場 所: 島根県立八雲立つ風土記の丘 ガイダンス棟 (島根県松江市大庭町456) → 交通アクセスのページ 講 師:池田 拓(宗像市教育委員会) 参加費:資料代200円/事前申込み不要/先着50名 対 象:年齢をとわず風土記の丘周辺で活動可能な方 講座終了後に出雲國まほろばガイドの会の一員として活動できる方 《参 考》 文化遺産の世界 2023年8月21日 大社基地遺跡群をめぐる保存運動の経緯と今後の展望
- 2024年度 古代史サマーセミナー
#古代史サマーセミナー は、研究をとおして交流と親睦をはかる集まりです。今年度は、宮津市(京都府)でひらくことになりました。感染予防をとったうえでなにとぞご参加くださいませ。 2024年度 古代史サマーセミナー分科会 日 時:2024年8月31日(土)13:30~16:55(受付13:00より) 会 場: みやづ歴史の館3階 宮津市中央公民館(京都府宮津市字鶴賀2164) → 交通アクセスのページ 参 加: 事前申込み [8/17 土まで]/先着60名 費 用: 宿泊申込み :8,000(前泊のみ)~16,000円(連泊)程度 日帰り・ご自身の宿泊予約:3,000円程度 懇親会費:別途集めます その他:終了後、懇親会もあります 問合せ: 日本史研究会 古代史部会 nihonshiken.kodai〔★⇒@〕gmail.com スケジュール 13:40~15:10 分科会① エミル・アンデルセン(大阪大学) 「7世紀における渡来系移民の東国安置政策 」 龔 凱歌(早稲田大学) 「仮)10世紀末期の東北アジアの国際情勢と日宋の相互認識 -奝然師弟の入宋を手がかりとして-」 15:10~15:25 15分休憩・移動時間 15:25~15:55 分科会② 清水 七妃(皇學館大學) 「五月五日節再考 -木簡と音声に注目して-」 前野 智哉 (総合研究大学院大) 「『延喜式』巻一の標注 -「弘」「貞」「延」等の新出標注に関する考察-」 17:30~20:00 懇親会
- 「古代史サマーセミナー」出雲開催の頃の思い出
会員 松本岩雄 「出雲」といえば、「神々の国」「神話の国」とイメージされる方が多いのではないでしょうか。『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)にみえる神話の舞台の多くが出雲であるからでしょう。日本統一の由来を物語る記紀神話のなかで、なぜ出雲が多く登場するのでしょうか。 それを証明する出雲の考古学的資料は、長い間全国的に注目されるものがなく、「記紀は大和朝廷が、支配を合理化するためにつくりだした政治的な所産」であることから、実態とはおよそ無縁のものとされてきました。出雲の古墳の規模をみても100mを超えるものはなく、考古学的な資料から全国的な議論の対象とされることはありませんでした。 ところが1983年12月、松江市大草町の岡田山1号墳出土の円頭大刀にX線を照射したところ、「額田部臣」という人名を記した銘文が発見されました。実は、当時私は八雲立つ風土記の丘担当であり、展示品を観察しているなかで、金属製品の保存処理を行う必要があると思っておりました。なかでも岡田山1号墳の遺物は1915年(大正4)に出土したものであり、早急に実施すべきであると県財政課と何度も交渉して予算確保を行い、元興寺文化財研究所へ保存処理を委託していたものだったのです。そうした中で銘文が発見され、銘文解読検討会では古代史研究者の岸俊男先生・狩野久先生・鬼頭清明先生にお世話になりました。全国的に注目されることになったことから、財政課の対応も大きく変わりました。 1984年度予算として岡田山古墳及び出土品の調査費(国庫補助事業)をつけていただき、着々と事業を進めていたところ、7月12日に荒神谷遺跡(現:出雲市斐川町)で銅剣が発見されました。この遺跡は、農道建設計画に伴い、1982年4月12日に斐川町教育委員会の金築基さんと私が農道予定地の分布調査を行い、須恵器片を採集したことからマークしていたものでした。遺跡の範囲確認を行うために、島根県教委の足立克己さんが試掘調査を行っている際に発見されたものです。 銅剣発見日の夜から県職員が交代で現地に宿泊して調査雄を継続し、8月30日に銅剣358本の取り上げを終了しました。当時、全国各地から出土した銅剣は総数約300本でしたから、1か所から358本の出土は驚異的な数です。調査にあたっては、青銅器研究のエキスパートである岩永省三さん(奈良文化財研究所)をはじめ多数のスタッフが加わりました。調査中には連日多くの見学者が訪れたほか、全国の研究者の来訪もひっきりなしという状況でした。 荒神谷遺跡では、1985年7月から銅剣出土地の周辺の調査を行うこととなり、島根県教委の宮澤明久さんが担当されました。電探調査・試掘調査がほぼ終了したので、7月18日に指導会(山本清先生・池田満雄先生・田中義昭先生)が開催されました。 ところが、19日に宮澤さんから文化課本庁にいた私のところに「銅鐸らしいものが出た」との電話連絡がはいり、現地へ急行しました。まぎれもない銅鐸であり、急遽略測図を作成するとともに写真撮影を行い、夕刻帰庁しました。課内協議の結果、翌日記者会見をすることになり、発表資料を作成するとともに、夜間に写真店(井上松影堂)へ駆け込み、今夜中に現像と焼き付けをお願いして、なんとか記者発表までに資料を整えました。 実は、院友会(國學院大學卒業生会)島根県支部では、出雲で大発見が続いていることから大規模な講演会を企画し、7月21日に島根県民会館で開催予定になっており、私はその世話役を仰せつかっていました。青銅器は乙益重隆先生、岡田山鉄刀銘文は平野邦雄先生、出雲国造火継ぎ神事は平井直房先生にお願いしていました。乙益先生と平野先生は20日の昼に空港到着ということで、午後は荒神谷遺跡へご案内し、出土したばかりの銅鐸を見学していただきました。 その後、銅鐸6個が確認され、その東側で8月16日には銅矛16本が出土しました。これまで、銅鐸と銅矛は一緒に出土することはないとされていましたが、またまた常識をくつがえす発見となったわけです。 そのころ、國學院大學の林陸朗先生、今江廣道先生、鈴木靖民先生と院生約8名ご一行が隠岐・出雲巡見をされており、千家和比古さんと私と妻の車で出雲の遺跡を案内することになったのです。ちょうど銅鐸・銅矛の調査中であった荒神谷遺跡もご案内しました。 その折に鈴木先生から突然、来年の夏に出雲で「古代史サマーセミナー」を開催してほしいとの依頼がありました。出雲は古代史に関して特に注目されている地域でありながら、当地には文献史学の古代史研究者がほとんどいないばかりか、古代史の学会もないうえ、大学の講座もないので、その時は躊躇しました。ただ、鈴木先生の依頼を簡単に断るわけにもいきません。 当地は、『出雲国風土記』(733年)・『出雲国計会帳』(734年)・『出雲国賑給歴名帳』(739年)・『優婆塞貢進解』(743年)など、ほぼ同じ時代の各種の史料が残存している稀有な地域でもあります。それにもかかわらず、こうした史料を踏まえてきちんと「古代の出雲像」が構成されているかといえば、はなはだ心もとない限りです。 岡田山古墳鉄刀銘文の発見や荒神谷遺跡での大量青銅器発見などにより、にわかに古代出雲に関する論議が沸騰していた時期でもあり、私自身出雲の古代社会について文献史料も見据えながら基礎的な作業を行う必要性を痛感していました。当時は、そもそも「古代史サマーセミナー」なるものがどのような会で、どのように運営されているのかさえ知らなかったので、来年度(1986年)は状況視察として参加し、1987年度開催ということでお引き受けすることにしました。 1986年は、第14回古代史サマーセミナーということで、栃木県で開催されました。7月24日朝米子空港を出発し、東京から栃木の会場へ向かう列車の中で通路を挟んだ席の女性がゲラ刷りを手に校正をされていた。もちろんどなたか知らない方であったがその隣の席の男性との会話から、古代史研究者であることは容易に知ることができました。このお二人について行けば、会場に無事にたどり着けるななどと思っていたところ、会話から男性の方が原秀三郎先生であるこが分かった。あの有名な原先生なんだ!・・・、と驚愕しました。案の定、お二人はセミナー参加者であり、会場に到着したところ、女性の方は武田佐知子先生であることが判明しました。 とりあえず午後の研究会に参加して、セミナーの雰囲気を視察したのですが、分厚い整った研究報告資料には驚きました。また、テーマもⅠ東国における首長墓の変遷、Ⅱ在地社会と文字資料、Ⅲ分科会研究報告(A・B・C)となっており、とても充実したものであり、島根でお引き受けしたものの、このようなセミナーは開催できないなあと不安になりました。 二日目の研究会は参加せず、芹沢清八さん(栃木県文化振興事業団)の案内により、上侍塚古墳・下侍塚古墳・那須国造碑・駒形大塚古墳などを見学し、三日目はセミナー主催の見学会に参加して帰途につきました。東国の遺跡を見学できたのはとても良かったのですが、栃木県と同等なセミナー開催はなかなか困難だろうな、という印象でした。 セミナー開催準備にあたっては、関心がありそうな方にお声がけして、実行委員会つくることにしました。メンバーとして島根大学の田中義昭先生・渡邊貞幸先生、古代史を研究されている野々村安浩さん(松江東高校)・若槻真治さん(県文化財課)・内田猛さん(島根大学学生)のほか、埋文調査に携わっている内田律雄さん・川原和人さん・宮沢明久さん・三宅博士さん・柳浦俊一さんに加わっていただいた。実行委員会(11名)の委員長には田中先生に引き受けていただき、事務局を私が担当することになりました。 1987年の1月以降は、ほぼ月に1度の打ち合わせ会を開催して準備を進めました。文献史料と考古学的な知見を総合することを念頭におき、古代「出雲国」の成立とその在地構造を明らかにすることを統一テーマとして方向と討論を設定しました。 第15回古代史サマーセミナーは、1987年7月23日~25日にホテル宍道湖(松江市西嫁島町)で開催しました。どのような大会になるのか不安でしたが、156名(内島根県参加者56名)の参加者がありました。 第15回 古代史サマーセミナー 1日め 基調講演1 関 和彦 「『出雲国風土記』と古代社会」 基調講演2 内田 律雄 「『出雲国風土記』の考古学」 遺跡紹介 三宅 博士 「出雲の古代遺跡」 2日め シンポジウム1 出雲国の成立をめぐる諸問題 遠山美都男 「岡田山鉄刀銘と部民制の構造」 菊地 照夫 「出雲神話の背景」 渡辺 貞幸 「古墳からみた出雲国の成立」 シンポジウム2 『出雲国風土記』をめぐる諸問題 中村 聡 「『出雲国風土記』にみえる「村落」史料の性質について」 大浦 元彦 「意宇郡における郡司と国造」 野々村安浩 「出雲国出身の仕丁の動向」 山下 有美 「出雲国計会帳に関する基礎的考察」 柳浦 俊一 「大井産須恵器の流通について」 3日め 現地見学会 史跡出雲玉作跡・出雲玉作資料館→神原神社古墳→荒神谷遺跡 今市大念寺古墳→上塩冶築山古墳 一応の統一テーマを設定したものの、他地域の研究者の見解を伺いたいとの希望から特に地元で関心のある事柄を独断で選択した面も否めません。そのため、一つのテーマについて深く議論できなかったこともあり、反省しております。 なお、当時は出雲地域の古代史研究がきわめて低調だったこともあり、「古代史サマーセミナー」を契機に少しでも機運が高まればと思い、発表記録を作成することにしました。記録集作成にあたっては、平野芳英さん(八雲立つ風土記の丘)をチーフに島根大学の学生さん(内田猛さん、新海正博さん、大西貴子さん、柴尾由美さん、岡本悦子さん、松尾晴司さん、有富雪子さん、間野大丞さん、物部茂樹さん)にテープ起こしを行っていただきました。発表者との交渉と編集は松本が担当し、1987年12月30日に刊行しました。 印刷費は無かったのですが、156名の参加者プラス50~60名の方に購入していただければ、なんとか赤字にはならないだろうという目論見で刊行しました。幸い、すぐに完売となり、印刷屋さんに支払うことができました。現在では、個人情報保護のため考えられないことですが、この記録集には参加者の氏名・住所をすべて掲載しました。「学問は出会い」であろうと思っており、たとえばこのセミナーに集った人々が何かの繋がりを持てば、様々な化学反応をおこして発展するのではないかと思います。そうした思いから参加者名簿を掲載したのですが、今となっては発禁本といういことでしょうね。 ただし、この第15回古代史サマーセミナーに集った人々の想いが一つの契機となって1990年7月29日に『出雲古代史研究会』が発足したことは、大きな意義があったのではないかと思います。 『出雲古代史研究会』の益々の発展を祈念しております。
- いにしえ倶楽部連続講座 2024-2・3
#島根県埋蔵文化財調査センター は、埋蔵文化財をより身近に感じていただくために調査の成果や出土品などを活用する体験型学習講座「 #いにしえ倶楽部」を行っています。このたび夏休みスペシャルとして、子どもたちむけの講座を2回ひらくことになりました。ぜひご参加くださいませ。 → 島根県埋蔵文化財調査センター 普及活用事業 → 今までのいにしえ倶楽部 令和6年度 第2回 古墳時代の鏡を作ろう! (出雲の大型古墳国の史跡指定100年記念企画) 日 時:2024年8月4日(日)10:30~12:00(受付09:30) 会 場: 島根県埋蔵文化財調査センター (松江市打 出町33) → 交通アクセスのページ 参 加:無料/事前申込み/先着40名 申込み:申込み期間 7月16日(火)~8月2日(金) ①電 話 0852- 36-8608 ②FAX 0852-36-8025 ③Eメール maibun〔★→@〕pref.shimane.lg.jp 参加者氏名(同伴者がある場合は同伴者氏名) 電話番号 学年 参加希望日 令和6年度 第3回 夏休み自由研究! 弥生時代のシジミを調べてみよう! 日 時:2024年8月25日(日)13:30~16:00(受付13:00) 会 場: 島根県埋蔵文化財調査センター (松江市打 出町33) → 交通アクセスのページ 参 加:無料/事前申込み/先着30名 申込み:申込み期間 7月16日(火)~8月2日(金) ①電 話 0852- 36-8608 ②FAX 0852-36-8025 ③Eメール maibun〔★→@〕pref.shimane.lg.jp 参加者氏名(同伴者がある場合は同伴者氏名) 電話番号 学年 参加希望日
- 日本史研究会 大会全大会シンポ準備報告会2024-07
直前のご案内を申し訳ございません。 #日本史研究会 ( #京都 )は、日本最大手の学会の一つです。このたび、次のとおり大会全大会準備報告会をひらくことになりました。オンラインです。ふるってご参加くださいませ。 → 日本史研究会について → 会誌『日本史研究』 日本史研究会 大会全大会シンポジウム 7月準備報告会 日 時:2024年7月19日(月)17:30~21:30 会 場:オンラインZoom 参 加:無料/ 事前申込み [7/15 月まで] 報 告:①若松 正志 「本年度の大会全体会シンポジウムについて」 ②皆川 雅樹 仮)「「唐物」とは何か-平安期の「文化」との関わりから考える-」 ③鹿毛 敏夫 「室町・戦国期日本と唐人・南蛮・キリシタン」
- 特別展「埋める-古代の祈り-」
#荒神谷博物館(#島根県出雲市斐川町)は、大量の青銅器が発見された #荒神谷遺跡 を紹介するためにつくられた博物館です。このたび次の特別展をひらくことになりました。感染予防をとったうえでお運びくださいませ。 → 荒神谷遺跡について 荒神谷遺跡銅剣発掘40周年記念 特別展 埋める -古代の祈り- 期 間:2024年7月13日(土)~9月16日(月) 時 間:午前09:00~17:00(入館は16:30まで) 会 場: 荒神谷博物館 (島根県出雲市斐川町神庭873-8) → 交通アクセスのページ 入館料:一般 520円/高大学生 260円/小中学生 130円