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日本海地域と渤海使 第4回

更新日:9月15日



                   委員 吉永壮志



前回のコラムでは、陸上交通・水上交通いずれにおいても要衝となる地に置かれた駅に併設されていたと考えられる越前の松原客館(駅館)や能登の客院に渤海使(ぼっかいし)が滞在していたことを紹介しました。このような北陸道における動向を踏まえ、山陰道、とりわけ隠岐や出雲に来着した渤海使がどこに滞在していたと考えられるのかお話したいと思います。



 


渤海使のうち、記録上、出雲に来着したことがわかる最初の事例は大使王孝廉(おうこうれん)一行です。おそらく鬱陵島(ウルルンド)を経由し、弘仁5年(814)9月30日に出雲に来着した王孝廉は、入京して翌弘仁6年(815)の元日朝賀などの儀式に参加し、叙位や禄に預かったのち、勅書を授けられて京を出発し帰途に就いています(『日本後紀』(にほんこうき)弘仁5年9月30日・11月9日条、弘仁6年正月1日・7日・16日・20日・22日条)。



渤海への出航前の出雲滞在中、大使王孝廉は漢詩を詠んでおり、それが嵯峨天皇の勅撰漢詩集『文華秀麗集』(ぶんかしゅうれいしゅう)上、贈答に収められています。


出雲州情、寄両箇勅使。一首。 王孝廉

南風海路速帰思、北雁長天引旅情

頼有鏘鏘双鳳伴、莫愁多日住辺亭


出雲州より情を書し、両箇の勅使に寄す 一首 王孝廉

南風海路帰思を速(うなが)し、北雁長天旅情を引く。

頼(さいわい)に鏘鏘なる双鳳の伴ふこと有り、

愁ふること莫れ多日辺亭に住まふを。


出雲に滞在中の王孝廉が帰国への思いを2人の勅使に寄せた上記の漢詩を意訳すれば、海路に吹く南の風が故郷に帰りたいという思いをかりたて、長く広い空を北からやって来た雁が旅情を催させる。幸いなことにつがいの鳳凰が航路近くで連れだっているため、長らく「辺亭」にいることを憂う必要はないという内容になります。



 


ここで注目すべきは、王孝廉が出航するまでの間、出雲にある「辺亭」に長らく滞在しているということです。この「辺亭」がいったいどこにあったのか、王孝廉一行の場合からだけではわかりませんが、他の渤海使の事例から、ある程度うかがい知ることができます。



例えば、天長2年(825)に隠岐に来着した渤海使高承祖(こうしょうそ)は出雲に(『類聚国史』(るいじゅうこくし)巻194渤海下、天長2年12月3日・7日条)、貞観3年(861)に隠岐に来着した渤海使李居正(りきょせい)も出雲に安置されており(『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)貞観3年正月20日条)、出雲に渤海使の滞在施設があったことがわかります。



ここで想起すべきは、越前の松原客館(駅館)や能登の客院の立地で、水上交通・陸上交通の要衝に置かれた駅に併設されていたということです。



『延喜式』(えんぎしき)兵部式82山陰道駅伝馬条には出雲国の駅として野城・黒田・完道・狭結・多伎・千酌の6駅が確認できますが、このうち、隠岐に来着した渤海使が安置された出雲とかかわるのは出雲・隠岐両国間を結ぶ千酌駅です。



しかも、先に述べた渤海使李居正は島根郡に、貞観18年(876)に出雲に来着した渤海使楊中遠も島根郡に安置されており(『日本三代実録』元慶元(877)年正月16日条)、先に挙げた6駅のうち島根郡内にあるのは千酌駅だけです。



つまり、王孝廉が滞在した「辺亭」は千酌駅周辺に設けられていた可能性が高いと考えられ、千酌駅の比定地である松江市美保関町千酌周辺でなにかみつかればと淡い期待を抱いています。



なお、強い望郷の念を詠み、航海がうまくいくことを願った王孝廉ですが、残念ながら渡航に失敗し、帰国を果たせずに日本で亡くなってしまいます。当時の航海が困難を伴うものであったことを物語ります。


→次回更新2024年9月15日(日)





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