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  • 島根大学総合博物館アシカル講座 2024-2

    #島根大学総合博物館アシカル ( #島根県松江市)・ #まつえ市民大学(島根県松江市)は、毎年、無料講座をひらいています。今年度の第2ステージでは次のテーマでひらくことになりました。博物館とあわせてぜひお運びくださいませ。 令和6年度 島根大学総合博物館アシカル講座 第2ステージ 日本列島とユーラシアの考古学 会 場:[148~150回] 島根大学 生物資源科学部3号館 202教室 ( 松江市西川津町1060)     [151回] 島根大学 生物資源科学部1号館 101教室 ( 松江市西川津町1060)     → 交通アクセスのページ 時 間:13:00~14:30 参 加: 無料 / 事前申込み [締切り各回2日前まで] 対 象:市民一般・高校生 2025年2月1日(土) 1月30日(木)締切り 13:00~14:30 3号館202教室 平郡達哉 ( 島根大学法文学部准教授・総合博物館兼任研究員 ) 「海を渡った支石墓  -弥生文化形成期における日韓交流の一側面-」 2025年2月8日(土) 2月6日(木)締切り 13:00~14:30 3号館202教室 坂川幸祐 ( 島根大学法文学部講師 ) 「遊牧民の腰帯からみた文化と交流  -先匈奴時代を中心に-」 2025年2月15日(土) 2月13日(木)締切り 13:00~14:30 3号館202教室 清水邦彦 ( 島根大学法文学部講師 ) 「加茂岩倉遺跡の時代の鋳造技術  -鋳造用具からのアプローチ-」 2025年2月22日(土) 2月20日(木)締切り 13:00~14:30 1号館101教室 岩本 崇 ( 島根大学法文学部准教授・総合博物館兼任研究員 ) 「古墳時代の開始と青銅器生産・流通の変革」

  • 大阪歴史学会 例会 2025-01

    #大阪歴史学会 (#大阪)は、日本最大手の学会の一つです。このたび、以下のとおり例会をひらくことになりました。オンライン開催ですので、ご都合がつきそうな方はご参加をなにとぞよろしくお願いいたします。 → 大阪歴史学会について → 会誌『ヒストリア』 大阪歴史学会 日本古代史部会(続日本紀研究会) 1月例会 日 時:2025年1月10日(金)18:30~21:00 参 加:無料/ 事前申込み [1/9 木まで] 報 告:アンデルセン・エミル・マルテ     「7世紀における渡来系移民の東山道・東海道安置政策」 その他:終了後、オンライン懇親会

  • 歴研大会準備報告会 2025-01

    #歴史学研究会 (#東京)は、日本最大手の学会の一つです。このたび、次のとおり第2回大会準備・援助報告会を対面でひらくことになりました。年度末のご多用の折かと存じますが、なにとぞご参加くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。 → 歴史学研究会について → 会誌『歴史学研究』 歴史学研究会 日本古代史部会 第2回 大会準備・援助報告会 日 時:2025年2月1日(土)14:00~(開場13:30) 会 場:明治大学駿河台キャンパス12号館 2094メディア教室( 東京都千代田区神田駿河台1丁目1 )     → 交通アクセスのページ 参 加:300円(資料代など)/ 事前申込み [1/30 木まで] 報告①: 井上 正望     「仮)古代・中世移行期における天皇と空間」 報告②: 髙橋 宙暉     「仮)平安中後期の留守について」

  • 出雲古代史研究会の思い出(荒井秀規)

    代表 荒井秀規 出雲古代史研究会の設立頃の思い出と言うことで、発足年の平成2年(1990)の手帳を見返してみた。35年ほど前になると記憶もあやふやである。それよりも先、出雲へも何回も来ているから、それらとの混同もあった。 初めて出雲の地を踏んだのは、1983年ではなかろうか。昨年、駒澤大学を退職された瀧音能之さんに連れられて、稲佐の浜で泳いだことは覚えている。その後、滝音さんや故関和彦さんと何度目かの出雲行きに、初めて飛行機で出雲空港へ降り立った。朝一便で羽田を発ち、9時過ぎには荒神谷に立っていた。内田律雄さんにもご同行いただいたかと思う。それまで、姫路ないし岡山まで新幹線、そこから中国山地を在来特急で越えて出雲まで来るだけで半日以上掛かっていただけに(今でもそうだが) 、航空機の便利さに驚いた記憶がある。以来、個人的には出雲へは航空機利用が普通となった。 閑話休題。手帳を見返して改めて驚いた。1990年7月27日(金)に出雲に入っている。瀧音さん、関さん、菊池照夫さんも一緒であったようだ。手帳の28日(土)は空白。どこを廻っていたのか。そして出雲古代史の大会(於島根大学)は29日(日)、手帳には「日御碕」とある。これは前日の行動か。そして、30日(月)に「巡見」とある。本会の発足当寺は、2日目の巡見まで含めて大会としていた。何回か続けたが、参加者各員個々に廻っている箇所が重なるようになり途絶えた。昨年、久しぶりに復活したが、毎年とするには運営側の負担が大きいようである。 手帳には続けて、31日に「おまつり」とある。これは鷺浦の柏神社の祭礼である。 一時期、大会のあと、内田さんのご案内で関さん、故小林覚さんほか何人かでこの祭礼に行くのがルーテイーンであったが、並河萬里撮影隊が入ってからはその意向によるのであろうか、祭礼の趣旨も内容も変わってしまい、いつしか行かなくなってしまった。最近の「おまつり」内容はどのようなものなのか。 さて、驚いたというのは、実はこの年、私は「巡見」にも「おまつり」にも参加していないようなのだ。というのは、29日、宿泊していた一畑ホテルへ戻ると、フロントで「妹さんから電話がありました」と知らせを受けた。その瞬間、聞かずとも内容はわかった。同居している高齢の祖母が亡くなったのだ。一応、家に電話して聞きたくない事を確認し、ホテルに翌日・翌々日の宿泊キャンセルを伝えた。その後のホテルの対応は素晴らしいものがあった。翌日朝一便への航空券変更、空港までの車の手配などはホテル側で全てしてくれた。とても有り難かった。 翌日、東京へ無事帰宅、翌々日の出棺の際に、日御碕で買った絵はがきをお棺のなかに入れたこと、ここまで書きながら思い出しました。 あとが続かなくなったので、ここまでとします。私事にわたり失礼しました。(了)

  • 出雲古代史研究34号と次号原稿募集

    【 2024/12/31 火まで 】 #出雲古代史研究会 | Izumo Ancient History Studies Group ( #島根県)は、会誌『 #出雲古代史研究』をおおむね年に1回だしています。今年の2024年(令和6年)も、会員の皆さまのおかげで『出雲古代史研究』34号を刊行できました。会員の皆さまにに厚くお礼を申し上げます。 → 出雲古代史研究会について → 会誌『出雲古代史研究』各号紹介 『出雲古代史研究』34号は、恒例の大会特集号と投稿論文です。 特集:『出雲国風土記』研究の現在-そのテキストを考える- 会誌『出雲古代史研究』34号 水口 幹記「風土記と漢籍-『出雲国風土記』の『文選』利用をめぐって」 山村 桃子「『出雲国風土記』「国稚く」と校訂される表現-国引条・恵曇郷条」 髙橋  周「細川家本『出雲国風土記』の検討」 吉永 壮志「『出雲国風土記』の校訂について」 井谷明子/板垣旭/内田律雄/久保田一郎/宍道年弘/平石充/平野卓治「『出雲国風土記』飯石郡条の多位社について」 酒谷美知子「素戔嗚尊の放浪と成就への導き:芥川龍之介「素戔嗚尊」論 アンデス・カールキビスト「英訳注論:『出雲国風土記』7」 ぜひ、ご味読ください。 非会員の方も、会誌『出雲古代史研究』を買うことができるようになりました。 サイトにある会誌ご紹介ページ をご確認のうえ、申込みフォームよりバックナンバーをお申込みくださいませ。会誌『出雲古代史研究』は、発行部数が少なく絶版となりやすいです。確実に入手したい方は、会員になることをおすすめいたします。 また、『出雲古代史研究』35号の原稿を募集します。投稿できる方は会員のみです。これを機に 出雲古代史研究会へ入会しませんか? ご投稿を希望される方は、 20 23年12月末日 までに 当会サイトご投稿のお願い(投稿規定) をご一読のうえ、 当会サイト原稿受付フォーム へご連絡をお願いします。投稿規程は『出雲古代史研究』第34号80ページにもございます。なにとぞよろしくお願いします。

  • 日本海地域と渤海使 第5回番外編

    委員 吉永壮志 最後に番外編として、『源氏物語』の作者として有名な紫式部(むらさきしきぶ)が主人公のNHK大河ドラマ「光る君へ」でも描かれた日本海地域と中国の宋人について、お話したいと思います。 当コラムの第1回でも少し触れたように、紫式部の父である藤原為時(ふじわらのためとき)は長元2年(996)に越前守に任じられました。その前年には宋商の朱仁聡(しゅじんそう)らが若狭に来着し、その後に越前に移っており、学者で漢詩にも長けた為時が守として対応にあたったと考えられます。 『今鏡』巻9むかしがたり(からうた)には、為時を越前守に任じたのは「こまふど」(高麗人)と漢詩のやりとりをさせたいという「みかど」(一条天皇)の「御こころ」によるとあり、「国を去ること三年、孤館の月、帰程の万里、方帆の風」、「画鼓雷奔して、天雨降らず、彩旗雲そびえて、地風なす」という詩が贈答されたようです。 『今鏡』はあくまで歴史物語であるため、史実かどうか見極める必要はありますが、『本朝麗藻』(ほんちょうれいそう)下、贈答に為時が宋人に贈った漢詩(「覲謁の後、詩を以って大宋客の羌世昌に贈る 藤為時」)が収められており、先の『今鏡』の詩と同じ表現が確認できるため、『今鏡』の話も史実として問題ないと思われます。 それでは、為時はどこで宋人と漢詩をやりとりしたのでしょうか。それは、当コラムで越前における渤海使(ぼっかいし)の滞在先として述べてきた、敦賀湾近くの松原客館周辺であったのではないでしょうか。先に述べた『本朝麗藻』下、贈答の「覲謁の後、詩を以って大宋客の羌世昌に贈る 藤為時」には「賓礼還慙水館中」とあり、為時と宋人の漢詩のやりとりは「水館」で行われたことをうかがわせます。 また、宋商の朱仁聡は永延元年(987)にも越前にやって来て、その際、「敦賀津」で源信と会っており(『続本朝往生伝』(ぞくほんちょうおうじょうでん)15沙門寛印)、これも松原客館のある敦賀が宋人の滞在先であったことを示唆します。 さらに、時代は下るものの、元永2年(1119)頃のものとされる書状(東寺観智院旧蔵本『東大和尚東征伝』(とうだいわじょうとうせいでん)紙背文書)に「敦賀唐人」という語句がみえるのも、やはり敦賀が宋人の滞在地であったことを物語っています。そもそも、宋人は商人として貿易目的で日本にやって来ており、その相手先は主に京に暮らす皇族や貴族でした。そのため、少しでも京に近いところに滞在したかったのではないでしょうか。 以上、為時は越前国府ではなく、外国使節の滞在先であった敦賀の松原客館で宋人の対応にあたったと考えられることをお話してきました。その際、父為時とともに越前に下っていた紫式部が実際に宋人と交流したのかは記録が残っておらず、残念ながら不明としかいいようがありません。 ただ、例えば、任国に下る国守の国務運営マニュアルともいわれる『朝野群載』巻22「国務条事」35条の記載から国守の妻に取り入る者の存在がうかがえるように、国守とともに下った女性たちが国内支配に一定の影響力をもっていたことを考慮すると、為時と宋人との交流の様子を紫式部は知ることができたのではないかと思います。最後はあくまで個人的な感想にすぎませんが、当コラムをお読みの皆さんはどのように思われるでしょうか。   5回にわたって「日本海地域と渤海使」についてお話してきました。当テーマに関する著書や論文は多くありますが、以下に一般むけの書籍や私自身が執筆した関係論文等を掲載しますので、参考にしていただければと思います。(了) 《参 考》 古畑徹 『 渤海国とは何か 』( 吉川弘文館 、2018年、税込み1870円) 「失われたる王国」ともいわれる渤海について、わかりやすく説明した書。渤海に関する参考文献も最後に挙げられており、より深く渤海を知ろうとする場合の手引きにもなります。 大日方克己 『 出雲に来た渤海人-東アジア世界のなかの古代山陰と日本海域- 』(松江市ふるさと文庫22、松江市歴史まちづくり部史料編纂課、2019年、本体800円) 松江市域の歴史をわかりやすく紹介する「松江市ふるさと文庫」の一つ。出雲にやって来た渤海使について丁寧に説明しており、8世紀から10世紀はじめにかけての東アジア世界の動向と山陰の関係を知ることができます。 吉永壮志 「古代西日本海地域の水上交通-若狭と出雲を中心に-」(『ヒストリア』271、2018年) 吉永壮志 「古代北陸道の沿海ルートと能登半島」(佐々木虔一・笹生衛・菊地照夫編『 古代の交通と神々の景観-港・坂・道- 』 八木書店 、2023年、本体8500円) 今回のコラムで触れた渤海使や松原客館、能登客院について述べています。論文のため、やや内容が難しいかもしれませんが、興味関心があるようでしたら一読いただければ幸いです。 吉永壮志 「古代出雲の水上交通-日本海地域という視点から読み解く-」(島根県古代文化センター編『 古代出雲ゼミナール 』6、島根県・島根県教育委員会、2020年) 先に挙げた拙稿のうち、「古代西日本海地域の水上交通-若狭と出雲を中心に-」をもとに平成30年度島根県古代文化講座(会場:日比谷コンベンションホール)で話した内容を記した講演録。一般の方むけの講座で話した内容で、拙稿よりは平易な文章ですので、こちらも興味がありましたら一読いただければと思います。 なお、番外編に関しては、下記の自治体史や論文も参考にしていますので、より詳しくお知りになりたい場合は、是非一読ください。 福井県編『 福井県史 通史編1 原始・古代 』(福井県、1993年) 酒井健治「 平安時代中・後期における唐人来着と日本海-越前と若狭を中心に- 」(『市大日本史』22、2019年、大阪市立大学日本史学会) ※今まで吉永壮志の「日本海地域と渤海使」をご覧くださり、誠にありがとうございました。

  • 新年のごあいさつ2025

    謹んで新春を祝詞を申し上げます。 旧年中は格別なご高配を賜り、誠にありがとうございました。 昨年の2024年の大河ドラマ「 光る君へ 」は、大きな反響をよびました。ドラマをきっかけに『小右記』を読みたい、という声もきかれます。「光る君へ」は、歴史から歴史「学」の扉をひらいたといえましょう。出雲古代史研究会も、一人でも多くの方とご一緒に「古代出雲」の歴史学をつくれますよう努める所存です。 本年も変わらぬご愛顧のほどなにとぞよろしくお願い申し上げます。 2025年1月1日(水)

  • 歴史学研究会例会 2025-01

    #歴史学研究会(#東京)は、最大手の学会の一つです。このたび次のとおり1月例会(新年会)をひらくことになりました。新年のご多用の折かと存じますが、ふるってご参加くださいませ。 → 歴史学研究会について → 会誌『歴史学研究』 歴史学研究会 日本古代史部会 2025年1月 例会 日 時:2025年1月25日(土)14:00~(開場13:30) 会 場: 早稲田大学 早稲田キャンパス3号館 7階704教室 (東京都新宿区戸塚町1-104)     → 交通アクセスのページ 報 告:古瀬奈津子(お茶の水女子大学名誉教授)     「仮)摂関政治と天皇」 参 加:300円(含資料代)/ 事前申込み [1/23 木まで] その他:恒例の古本市があります。重複した本などがありましたらご持参ください 新年会 日 時:2025年1月25日(土)17:45~19:45 会 場: 早稲田大学 戸山キャンパス38号館「戸山カフェテリア」 ( 東京都新宿区戸山1-24-1 )     → 交通アクセスのページ 参加費:一般 5000円 修士 3000円 学部生 1000円(予定)

  • 日本史研究会 古代史部会 2025-01

    #日本史研究会 ( #京都 )は、日本最大手の学会の一つです。このたび、次のとおり部会をひらくことになりました。新年のご多用の折かと存じますが、なにとぞご参加くださいませ。 → 日本史研究会について → 会誌『日本史研究』 日本史研究会 古代史部会 日 時:2025年1月20日(月)18:30~21:00 会 場:①機関紙会館2F(京都市上京区新町通丸太町上ル春帯町)     ②オンラインZoom 報 告:櫻井 智     「令制雅楽寮と「楽人」の8・9世紀」 参 加: 申込みフォーム [1/19 日 正午まで]/対面参加は事前申込み不要 その他:終了後、対面参加は懇親会あり

  • 募集)島根県益田市職員-2024年度

    島根県益田市 が、令和7年度(2025年度)の職員(埋蔵文化財発掘調査担当)募集を 次のとおり行います 。皆さまからのふるってのご応募をお待ち申し上げます。 島根県益田市 > 組織から探す > 総務部 > 人事課 > 益田市職員募集のお知らせ 2024年12月19日  申込み期間:2025年1月6日(月)~2025年1月29日(水)17:15必着 平成2(1990)年4月2日以降に生まれの者 大学または大学院において考古学に関連する専門課程を卒業(修了)した者(卒業見込みを含む)

  • 募集)島根県会計年度任用職員-2024年度

    島根県 が、令和7年度(2025年度)の職員募集を 次のとおり行います 。皆さまからのふるってのご応募をお待ち申し上げます。 島根県 > 埋蔵文化財調査センター > 臨時職員募集 > 令和7年度会計年度任用職員の募集  申込み期間:2024年12月18日(水)~2025年1月10日(金) 埋蔵文化財専門員 埋蔵文化財調査補助員 埋蔵文化財遺物整理作業員 事務補助員

  • 募集)島根県江津市職員-2024年度

    島根県江津市 が、令和6年度(2024年度)の職員(文化財専門員)の募集を 次のとおり行います 。皆さまからのふるってのご応募をお待ち申し上げます。 島根県江津市 > 分類でさがす > 市政情報 > 職員人事・採用 > 採用情報 > 江津市職員採用資格試験 > 令和6年度職員採用資格試験(第3回)の実施 2024年11月25日更新  申込み期間:2024年12月2日(月)~2025年1月6日(月) 昭和59(1984)年4月2日以降に生まれの人 大学、または大学院において考古学または歴史学を専攻して卒業(修了) 埋蔵文化財発掘調査の実務経験を有する人

  • 募集)島根県職員-2024年度

    島根県 が、令和7年度(2025年度)の職員( 埋蔵文化財保護 )の募集を 次のとおり行います 。皆さまからのふるってのご応募をお待ち申し上げます。 令和6年度 島根県職員採用大学卒業程度試験(第3回)受験案内  申込み期間:2024年11月22日(金)08:30~12月19日(木)17:00 平成4(1992)年4月2日~平成15(2003)4月1日に生まれの人 平成15(2003)年4月2日以降に生まれた人で学校教育法による大学を卒業した人か、令和7(2025)年3月31日までに卒業見込みの人 博物館法による学芸員資格を有するか、令和7(2025)年3月31日までに当該資格を収得する見込みの人

  • ガイド養成講座 2025-01

    #島根県立八雲立つ風土記の丘( #松江市 )は、今年度の2024年度も #ガイド養成講座 をひらいているところです。感染予防をとったうえでなにとぞご参加くださいませ。 令和6年度 第7回ガイド養成講座 後鳥羽上皇と隠岐 日 時:2025年1月11日(土)14:00~16:00 場 所: 島根県立八雲立つ風土記の丘 ガイダンス棟 (島根県松江市大庭町456)     → 交通アクセスのページ 講 師: 髙橋 昌明 (神戸大学名誉教授) 参加費:資料代200円/事前申込み不要/先着50名 対 象:年齢をとわず風土記の丘周辺で活動可能な方     講座終了後に出雲國まほろばガイドの会の一員として活動できる方

  • 史料紹介 明日香村西橘遺跡出土の「八雲評」木簡について

    今年の春に奈良県明日香村教育委員会から、西橘(にしたちばな)遺跡の報告書が刊行された。同報告書には270点の木簡が掲載されており、その中にここで紹介する「八雲評」と判読される荷札木簡がある。同報告書は奈良文化財研究所の『全国遺跡調査総覧』にてPDF公開がされている。詳細はそちらを参照いただきたい(以下の事実記載も報告書による)。  この遺跡は現在の明日香村役場に当たり、木簡は東側調査区の谷SX3041から出土した。この谷の出土土器の様相は飛鳥水落遺跡の貼石出土土器に類似し、木簡群も評-五十戸制のいわゆる前期評に相当しており、「670年代前後」(報告書98頁)9「天武朝の前半(あるいはそれ以前)と解するのが穏当であろう」(同95頁)とされ、土器の年代観とも「大きくは齟齬しない」(同120頁)。 木簡出土地区の発掘調査は1993年で、その後故橋本義則氏が釈読に当たったが、氏の逝去により、あらためて平成31年~令和3年にかけて、山本崇氏・藤間温子氏・東野治之氏・寺崎保広氏・鶴見泰寿氏を招聘して再検討が行われた。報告書はその検討成果を掲載している(報告書の文責は山本崇氏)。  木簡群は本質的には橘寺との関係を含め多様な検討課題を持っているが、出雲古代史研究に携わるものとしてまず気になるのは、表題に挙げた「八雲評」の荷札木簡である。報告書の正確な釈文は「□〔八〕ヵ雲評」で、冒頭の文字は推定を含む、という評価だが、写真からだけで判断すると「八」でよいように見える。現物観察の必要があるが、以下は報告書の釈文を前提として話を進める。  木簡には1点ごとに解説がつけられており、問題の史料は木簡41である。 解説全文を掲げると「四周削り。ヒノキ科・板目。綿の荷札。「八雲立つ」(『古事記』神代紀第八段)・「八雲さす」(『万葉集』巻3-430番歌)のごとく八雲は出雲にかかる枕詞として著名であるが、「八雲評」は不詳。養老雑令によると、綿は小斤で計量する(2度地条)。平城宮跡出土木簡のうち養老2年(718)以降の調綿荷札は4両=1屯としており、主計式上も同じ(2諸国調条)。「綿14斤」は約3.15kg。E4区Ⅳ層下層(灰黒色有機土)出土」。以下、雑感をいくつか述べてみたい。 (1)「八雲評」はどこの評か …管見の限り、古代史料に見える行政区画名・地名・神社名などに「八雲」はみえない(出雲国内にもない。長岡京木簡には人名に「八雲」がある)。現在は全国に八雲地名・八雲神社があるが、これらは祇園信仰の展開によるものとみられ、あまり参考にはならないだろう。新出の評名であるが、報告書が述べるように、「八雲」はやはり出雲の枕詞として著名な語であり、まずは出雲と関係から検討するというのは妥当である。  さて、出雲の評についての確実な一次史料としては木簡があるが、荷札木簡はすべていわゆる後期評に属しており(出雲の事例はすべて藤原宮出土)、前期評のものはない。楯縫評・出雲評(確実に「出雲」である)・神門評が確認される。他に出雲国府跡出土木簡に大原評がみえるがこれも正方位の溝から出土しており、後期評段階のもので良いだろう。また編纂史料では『日本書紀』斉明天皇5(659)年是歳条年に「出雲国造 名を闕く」「於宇郡」、『続日本紀』文武天皇2(698)年3月己巳条に「意宇郡司」が見える。前者はともかく、後者は確実に意宇評とみてよく、後期評段階には意宇評も存在していた。また『国造北島氏系譜』など出雲国造系図の最古部分は信憑性が高いとされるが〔高島1995〕、ここには国造叡屋臣の注として「帯許(評)督」の記載があり、これを信頼すれば国造本宗が評督となる評があったことになる(他の国造も評督・郡司だった者が多いと推測されるが注記はなく、彼は特別な評督、いわゆる初代立評人の可能性もある)。また、斉明紀にみえる「出雲国造 闕名」は史実に基づく記述とみる説が有力であるが、氏族名は不明で、これをもってこの段階に出雲国造出雲臣が成立していたとまで言い切れるかは難しい。  また、荷札木簡については出雲に限らず国毎に特色があり、時代を超えて連続しているとの指摘がある(有名な事例は隠岐の荷札木簡)。評制下の荷札木簡は原則国名表記がないが(国制がいつ成立したかも検討課題である)、のちの同一令制国内の評の荷札が共通する書式を有しているのである。山陰の荷札木簡の特色については8世紀のものもふくめて渡辺晃宏氏が整理しているが〔渡辺2015〕、出雲については①長さ幅は中程度であまり特徴がない、②オモテのみに1行書きが原則。③天平期から2行書きがみえる、④材はヒノキが多いが杉もある。板目が多い。とされる。当木簡は①・④は適合するが、裏面に記載がおよんでいる。また、キリコミ部と文字の関係については渡辺氏は中男作物は端部から書き始めているが贄木簡については文字がキリコミにかからないと述べている。別図のよう評制荷札に限ってみるといずれもキリコミ部に文字はかからず、これも当木簡に該当する。  次に物品名の綿であるが、『延喜式』主計寮上出雲国条では同国の庸に綿がみえるほか、木工寮式の諸国所進雑物にも出雲国の綿があり、出雲国の進上品として十分想定されるものである。  現状での私見は、特徴からもちろん当木簡を出雲の荷札と断定できないが、出雲の荷札と考えてもよいのではないか(出雲の荷札は著しい特徴がないとされるので他地域の荷札でもかまわないが、確実に出雲以外であるとはいえない)。他地域の評である場合は、出雲との特別な関係が想定される小地域(後の郷に相当)の評で後に消滅した評であろうか(小地名「出雲」や出雲神社のような事例。山背国愛宕郡出雲郷、各地の式内社出雲神社の例など)。 (2)『出雲国風土記』(以下『風土記』)の国号由来 …『風土記』は当然出雲国号を説明している、と考えがちだが、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉氏による山川出版『風土記』は、国号由来のテキスト(11、細川家本の行数)を「所以芳雲者」=「芳雲(よくも)といふゆえは(いふを補読)」とし、結果として「芳雲」案を提示している。たしかに底本である細川家本(細本)の文字は「芳雲」にみえる。しかし、これは同写本にみえる独特の書クセでありこの文字は「号」と読むべきである。すなわち神門郡の郡名起源「所以号神門」もこの「芳」が使われているが(650)、ここが「芳」である可能性はない。現状、細本は「所以号雲者」(「出」が欠けることに注意)と釈文を起こすべきであろう。 ※細川家本と字体が酷似する倉野本『風土記』が国文学研究資料館の国書データベースで公開されており、上記写本の用字の特色を確認できる。  上説に従うと細本テキストは「所以号雲者、八束水臣津野命詔、八雲立」となる。これを忠実に読めば「雲」は「八雲立」に由来する、となる。  もっとも、つづいて本文は「故、八雲立出雲」と記されており、『釈日本紀』(『釈紀』)所引の『風土記』、蓬左文庫本『風土記』は該当部分をはっきり「所以号出雲」(つまり、「出」の字がある)としている。なお、蓬左文庫本は『釈日本紀』の影響を受けていないので、「号出雲」は細本には伝わらなかった原本の情報である可能性がある。また、常識的にも天平期の『風土記』として、当時の国号「出雲」の説明であるべきである。私見もやはり原本は国号出雲の説明であったとは思うが、終わりが「八雲」で終わっている点は、以前から細本『風土記』を読んでいて「?」と感じる箇所であった(もっとも、『風土記』にはこのような説話構成上の不整合はしばしば見られる)。このあとの、13「八雲立出雲」を最上段とする細本の改行も、何時の時代の書式かは不明だが特殊といえば特殊である。  地名起源伝承ではその地名の発音が説明中に入るのが一般的である。この原則に基づいてか、橋本雅之氏執筆の角川ソフィア文庫版『風土記』の『出雲国風土記』は国号由来のテキストを「所以八雲者」とする(特に「八雲」としたことについての註などはない)。写本の情報を第一義として古代の『風土記』を復元する立場からは、やはりこの釈文は考えづらい。ただし、「所以号出雲」を含む蓬左文庫本のテキストのうち細川家本と異なる箇所については、近世の「校正」を経ているとの指摘もあり(高橋2020)、『釈紀』の引用テキストの信頼性も検討の余地がないわけではない。  木簡の年代は670年代前後、当然ながら、記・紀編纂以前であり、それらの歴史解釈に引き寄せられている8世紀の地名・地名由来から、距離を置いた史料ということなる。この木簡を出雲地域の評の荷札とみると、編纂史料を除いた一次史料では「出雲」地名より「八雲」地名が先行して確認できることになる(出雲の一次史料初出は壬辰(692)年の鰐淵寺観音菩薩立像)。また、国造氏については意宇郡の豪族が出雲臣を名乗ることもかつてから問題視されていた。『日本書紀』仁徳即位前紀では淤宇宿禰とみえるから、いずれかの段階でオウからイヅモに改姓したことになる。ただし、『日本書紀』の影響を受けない郡里制下の風土記である『播磨国風土記』にはすでに出雲臣がみえるから、この氏族名は8世紀初頭の地域社会でよく知られた氏族とみられる。  やや大げさかもしれないが、記・紀と異なるとされる『風土記』の「八雲立つ」理解、『風土記』の記す伝承とは何時の頃のものか?などにも関わる可能性がある史料である。 (3)初期評の存在形態 …繰り返しになるがこの木簡群は670年代前後となる、前期評の木簡群であり、初期の評制を知るうえでも重要である。 木簡群中に明瞭な荷札木簡は少ないが、もう一点の評の荷札木簡がこれも新出の「鎮評」である。報告書の解説によれば、チヌ(茅渟・血沼)の可能性があるされるが、蓋然性はあるだろう。茅渟は宮・アガタ・ミヤケ名で著名だが郡名に継承されず、国郡制では和泉国和泉郡となった。『続日本紀』霊亀2年3月癸卯条では、和泉郡・日野郡が珍努宮に附属させられているので、宮(アガタ・ミヤケ)に附属する領域は和泉郡より広かったと考えられる。上記の推定に基づけば、チヌ評はのちに分割され、イズミとなり、この新コオリ名が国名と共有されている事例となる。  すでに荒井秀規氏によって指摘のあるように、初期の評には律令の郡をはるかにしのぐ大規模なものが存在し(改新詔では40里の郡が想定されている。国造国そのものの可能性がある)、後に分割されていったと考えられる。「鎮評」もこのような事例に加えられるものとなるか。「八雲評」のテキストがこれでよければ、コオリ名の変更と郡名への非継承も、「鎮評」同様に解釈出来る可能性があるだろう。 現状では数点の木簡で想定されるテキストの議論であるので、ここまでの話はいわゆる「思いつき」の域をでないものである。また、本来、現物の確認や、木簡群全体の評価や類例の増加を待って検討すべきことと思うが、やはり本木簡はいろいろと可能性を検討したくなる、きわめて重要な一次史料である。すでに正報告が刊行され、各種の付帯情報は整理され確定し、公開されている。だれでも発掘調査報告書総覧よりダウンロードできるので、会員のみなさまにおかれましては是非一読し、この木簡について一考してみてください。 ◆参考文献 山本崇2024「木簡」(明日香村教育委員会2024『西橘遺跡発掘調査報告書』) 荒井秀規2008「領域区画としての国・評(郡)・里(郷)」『古代地方行政単位の成立と在地社会』奈良文化財研究所 髙橋周2020「近世前期における『出雲国風土記』写本の系譜」『古代文化研究』28 渡辺晃宏2015「都城出土の出雲・伯耆・因幡地域の荷札木簡」『木簡研究』37 ※この記事は会員ブログであり、書かれている内容は出雲古代史研究会の見解ではありません。 ※木簡写真は明日香村教育委員会の掲載許諾を得ています。不許可転載。 ※11月20日に誤字を訂正、また写真を入れ替えました。 ※11月25日、木簡の年代観についての事実記載を訂正しました。報告書では670年代前後とされていたところを当初660年代としていました。それに関わる評価の記述も訂正しています。記して陳謝いたします。

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