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「」に対する検索結果が683件見つかりました

  • 大阪歴史学会 例会 2023-01

    #大阪歴史学会(#大阪)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり例会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ご都合がつきそうな方はご参加をなにとぞよろしくお願いいたします。 →大阪歴史学会について →会誌『ヒストリア』 大阪歴史学会 日本古代史部会(続日本紀研究) 1月例会 日 時:2023年1月20日(金)18:30~21:00 参 加:無料/事前申込み[1/19 木まで] 報 告:村上 菜菜 「日本古代の国郡行政と村落社会」

  • 大阪歴史学会 例会 2023-02

    #大阪歴史学会(#大阪)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり例会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ご都合がつきそうな方はご参加をなにとぞよろしくお願いいたします。 →大阪歴史学会について →会誌『ヒストリア』 大阪歴史学会 日本古代史部会(続日本紀研究) 2月例会 日 時:2023年2月17日(金)18:30~21:00 参 加:無料/事前申込み[2/16 木まで] 報 告:上村 正裕 「仮)宇多源氏の親族秩序-仁和寺宝蔵管理をめぐる諸問題-」 日 時:2023年2月24日(金)18:30~21:00 参 加:無料/事前申込み[2/23 木まで] 報 告:増成 一倫 「八世紀後半~九世紀前半における公廨稲制度の展開過程について -補填機能と得分機能の関係に着目して-」

  • 大阪歴史学会 例会 2023-03

    #大阪歴史学会(#大阪)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり例会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ご都合がつきそうな方はご参加をなにとぞよろしくお願いいたします。 →大阪歴史学会について →会誌『ヒストリア』 大阪歴史学会 日本古代史部会(続日本紀研究) 3月例会 日 時:2023年3月17日(金)18:30~21:00→4月21日(金)変更 参 加:無料/事前申込み[4/20 木まで] 報 告:村上 菜菜 「日本古代の国郡行政と村落社会」

  • 大阪歴史学会 例会 2023-04

    #大阪歴史学会(#大阪)は、日本最大手の学会の一つです。このたび次のとおり例会をひらくことになりました。ご多用の折かと存じますが、ご都合がつきそうな方はご参加をなにとぞよろしくお願いいたします。 →大阪歴史学会について →会誌『ヒストリア』 大阪歴史学会 日本古代史部会(続日本紀研究) 4月例会 日 時:2023年4月21日(金)18:30~21:00 参 加:無料/事前申込み[4/20 木まで] 報 告:村上 菜菜 「日本古代の国郡行政と村落社会」

  • 出雲国風土記百景(第28景のつづき3)

    【塩栯島 しおたてじま】 (2022年11月6日撮影) 10月下旬からぐっと朝晩の冷え込みがきつくなってきた。11月6日は霧の朝となったの で、早速朝酌に撮影に。大橋川にある塩楯島を撮影してきた。 この島は細川家本では「塩栯島」だが、現在は塩楯島で、こちらの表記で見たことのある人も多いだろう。山川『風土記』以前では塩楯島が用いられてきた。ただし、栯には「たて」の訓があるので(山川は「しおすき」と訓じる)、読みは同じ「しおたてじま」と理解している。 この島は川の中にある島で、最初島根県にJRで赴任した時に、松江に入る前の車窓からみて、こんな島があるんだと、感動した記憶がある。 さて、この島のある朝酌促戸は美保湾・中海と宍道湖・大社湾の分水嶺に当たる箇所で、宍道湖が閉鎖的な環境になり、美保湾・中海側からが海水が流入する段階でもネックになっており、塩栯の名称はまさにそのこと(海水の遡上を妨げる)に由来するとみられる(高安2000)。 現在は1930年代の工事(汽船を松江に入れるため)によって、この島の北側の水路が掘り下げられ水深4.5mほどとなっているが、これには岩盤を掘り下げた結果であり、これにより現代の宍道湖川の汽水化が進みシジミが繁殖するようになった。 八雲立つ風土記の丘の出雲国府復元模型では、この辺りが北端となるが、もう少し浅く、岩盤が見える(おそらく水深3mより浅かったとみられる)で表現するべきであった。 【 【2022年10月23日撮影】 さて、島の上には現在手間天神社が鎮座しており、『雲陽誌』では、この付近に歌枕手間剗(てまのせき)があったと考えられるようになっている(本来は伯耆-出雲国堺にある)。 手間の地名がいつ頃ついたかは要検討で、中世歌学書などにみえるスサノオの「手摩島」の神話と併せて考える必要がある。 『風土記』では安来市飯島町の羽島の次がこの塩栯島で、その間に島はないことになっている。安来平野については前回記したとおりだが、意宇川河口ぶはどうであろうか。 まず一つは②現在の八幡町浜分である。この部分は微高地(地名通り砂浜)を形成しており、意宇川の河口があったことを推測させる。もう一つが③亀井塚と呼ばれる高まりである。 【亀井塚 旧出雲街道より 2022年11月16日撮影 南側にヤマダ電機があり、これを入れずに撮るのがコツ】 現在、頂部には尼子毛利合戦で戦死した亀井秀綱の墓がある。塚状を呈しているが、地図を見ると旧出雲街道(旧9号線)沿いが連続する微高地となっており、意宇川河口部に形成された砂丘の残り丘陵である可能性があるだろう。この辺りは、市向に流れる意宇川旧流路があったとの説も併せて検討する必要がありそうだ。 意宇郡の島については、一応今回で終了とし、次回からはつぎなる百景に移行したい。 (平石 充) 参考文献 高安克己2000「大橋川・中海・宍道湖の自然史」『出雲国風土記の研究Ⅱ 島根郡朝酌郷調査報告書』島根県教育委員会 (次回は12月3日に更新予定です)

  • 出雲国風土記百景(第29景)

    【長台寺付近寺跡】 【2022年11月27日撮影】 今回は安来市伯太町安田関の長台寺付近寺跡を紹介する。今は比較的はっきりしている古代寺院にかかわる遺跡という認識だが、最初に知ったのは関和彦さんの『出雲国風土記註論』で、驚いたのを覚えている。 写真はわかりづらい、円形の柱座と舎利孔がみえ、古代の塔心礎とみてよい。なお、『註論』にも写真が載っているが、そちらには全く苔が生えていない。月日の流れは速い。 【2022年11月27日撮影】 現在の長台寺もなかなか雰囲気のあるお寺である。鳥取島根県堺、すなわち伯耆出雲国境にある要害山の西斜面に平坦地を作り出し、本堂と護摩堂・薬師堂、鐘楼などがある。 問題の塔心礎は、この平坦面の下の庫裏の庭にある。いわゆる庭石なので、原位置にあるとは考えられない。瓦の出土地はさらに西側に下った場所にあるとされるが、出土瓦については実見できていない。 さて、寺伝によると、当初この寺院はさらに山奥の坊床にあったものが移転したとされる。似たような伝承は、松江の澄水寺にもあり、検討が必要だろう。 また所在地安田関は手間剗の推定地、下の地図の黄色の道がおおむね古代山陰道と考えられている(中村太一説)。すでに指摘のあるいわゆる関寺にあたる可能性もあるといえるだろう。 ※次回の更新は12月20日 (平石 充)

  • 出雲国風土記百景(第31景)

    【塔の石】 【2022年1月27日撮影】 皆様 新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 一昨年の12月に開始したこの連載も約1年でようやく30景。先は長い。 今回は雲南市木次町の木次駅構内廃寺の礎石を取り上げる。『風土記』では大原郡の909にみえる斐伊郷南新造院に当たるとされる。塔の石はこの寺院の塔心礎と考えられており、長径2mを超える大規模なもので、第18景でも紹介したように、緩やかふくらんだ柱座がある(直径60㎝)。 この斐伊郷南新造院は厳堂と住僧5人の記載があり、これは新造院中最多である。また、現在は斐伊川堤防との間にあまり平坦地がないが、斐伊川の河道はかつては西側にあったと想定されており(木次、三刀屋町堺は近年に至るまで変動しているが現斐伊川流路の西にある)、それなりの規模があったとみることもできる。 この礎石は源一を保っておらず、遺跡名のように現在の木次駅のプラットホームにある屋根(トレインシェイドというらしい)の北側端のあたりにあったとされ、明治6年に現在の場所に移動された。このあたりの経緯は新修木次町誌編集委員会2004『新修木次町誌』に詳しい。 大原郡の仏教文化を伝える文化財である。 【平石 充】 (次回は1月21日掲載予定です)

  • 出雲国風土記百景(第32景)

    【冥土さん】 【撮影2023年3月7日】 今回は出雲郡の黄泉の穴、通称冥土さんを紹介する。22年の1月に『出雲国風土記地図・写本編』の制作にあたり、GPSを持って現地を確認しに行った。やはりGPSは威力があって、それ以前に想定した場所と、斜面の向きが違っていた。 その時は落ち葉などによってだいぶん埋まっていたが今年の3月に再訪すると、穴の中などだいぶ掃除されていた。手前の石柱の後ろの石には「黄泉穴」と刻まれている。 この穴について、『風土記鈔』は出雲郡540宇賀郷の地名起源伝承を記した後、「即ち…」としてつづく海辺の窟、黄泉の穴に比定する。 一方、『雲陽誌』では楯縫郡口宇賀(近世にはこの場所は楯縫郡である)の宇賀明神,奥宇賀の籠守明神・窟にその由緒がみえる。こちらでは話は複雑になっており、『風土記』の「即ち」より前の郷名起源伝承部分が取り入れられ、大己貴命が隠れた綾門姫(『風土記』宇賀郷状に見える神)を覗ったから宇賀郷、隠れた穴が黄泉の穴だとされる。 この間の経過については髙橋周氏が、佐草自清・千家延俊によって『風土記』の神話が宇賀神社に提供されたのではないかとしているが、妥当であろう。 さて、この穴にあった伝承とはどのようなものであったろうか。 この穴については本居宣長の『玉勝間』10巻に、宣長門人である浜田藩士小篠御野が、寛政6年ごろ弟子の斎藤秀満に実地調査させた話としてみえ、入り口付近の様子が細かく描写されているほか、穴について70歳ばかりの古老に聞いた話が記されている。 その内容は、穴は冥途の穴と呼ばれ、最近は訪れる人もいない、この穴からは毒気が出ることがあってそれに当たると息絶える、また鰐淵寺の智證上人(ママ)が入定した、などというもので、宇賀郷の郷名起源にみえる大穴持や綾門日女は全く登場しない。 神官などではなくあくまで古老の談であり、こちらが近世の地域社会にあった穴の伝承を伝えているとみるべきであろう。この毒気がでてそれに当たると死ぬという話は、実は伯耆国の弓ヶ浜にも夜見島と黄泉とを引き付けて伝わっていることがわかっており、中世以降の展開としてそれはそれで興味深い。 なお、『玉勝間』の最後は、この穴は海辺にあるとされる『風土記』の黄泉の穴ではないと結ばれている(宣長の解釈と思われる)。 (平石 充) 参考文献 髙橋周2021「中近世出雲における『出雲国風土記』の受容と『日本書紀』」『日本書紀と出雲観』島根県教育委員会 ※アラビア数字は『山川出版 風土記』所収出雲国風土記の本文行数です。 ※『出雲国風土記 校訂・注釈編』編集のため、2月3月は連載をお休みします。次の更新は、4月9日土曜日になります。 ※写真を差し替えました(4月13日)。

  • いずもけんブログ連載ご案内1

    平素は、#出雲古代史研究会(#島根県)への格別のご高配を賜りありがとうございます。皆さまにお知らせです。 出雲古代史研究会は、皆さまとご一緒に「#古代出雲」の謎をときあかすことをめざしています。そこで、このたび出雲古代史研究会は、#いずもけんブログ をさらに充実させることにいたしました。2021年(令和3年)10月1日(金)より新しく当会の会員によるコラム連載をはじめます。 コラムは毎月1日にブログに掲載されます。皆さまぜひご覧くださいませ。出雲古代史研究会は、今後も皆さまとともによりよい会をめざしますので、変わらぬご厚情を賜りますよう、なにとぞよろしくお願い申し上げます。

  • いずもけんブログ連載ご案内4

    平素は、#出雲古代史研究会(#島根県)への格別のご高配を賜りありがとうございます。皆さまにお知らせです。 出雲古代史研究会は、皆さまとご一緒に「#古代出雲」の謎をときあかし、歴史学の楽しさをわかちあうことをめざしています。そこで出雲古代史研究会は、#いずもけんブログ で会員コラムをはじめたところです。 これまで #菊地照夫 の「#私の出雲古代史研究」(2021年10月1日~2022年4月1日)、#平石充 の「#出雲国風土記百景」(2021年12月4日~連載中)、#松本岩雄 の「「古代史サマーセミナー」出雲開催の頃の思い出」をのせました。 このたび、2022年(令和4年)10月15日(土)より新しい会員コラムの連載をはじめます。今度のコラムは、毎月15日にブログに掲載されます。皆さまぜひご覧くださいませ。 出雲古代史研究会は、皆さまとともによりよい会をめざしたく、引き続きなにとぞよろしくお願い申し上げます。

  • いずもけんブログ連載ご案内3

    平素は、#出雲古代史研究会(#島根県)への格別のご高配を賜りありがとうございます。皆さまにお知らせです。 出雲古代史研究会は、皆さまとご一緒に「#古代出雲」の謎をときあかし、歴史学の楽しさをわかちあうことをめざしています。そこで出雲古代史研究会は、#いずもけんブログ で会員コラムをはじめました。 初めての会員コラムは、#菊地照夫 代表委員による「#私の出雲古代史研究」です。「私の出雲古代史研究会」は、2021(令和3年)年10月1日から連載スタート、2022(令和4年)年4月1日をもって7回の連載をひとまず終えました。皆さま楽しんでいただけたでしょうか? 今度は、2022年(令和4年)5月1日(日)より新しい会員コラムの連載をはじめます。コラムは毎月1日にブログに掲載されます。皆さまぜひご覧くださいませ。 出雲古代史研究会は、皆さまとともによりよい会をめざしたく、引き続きなにとぞよろしくお願い申し上げます。

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第2回

    委員 武廣亮平 今回から出雲国の移配エミシについて、関連史料をもとに具体的に述べてみたいと思います。第2回目は出雲国の移配エミシを考える出発点となる史料を紹介します。(実際の記事は漢文ですが、内容がわかりやすいように現代語訳しました)。 (桓武天皇が)勅して言うには、相模、武蔵、常陸、上野、下野、出雲などの国の帰降した夷俘(蝦夷と俘囚)は徳沢(仁徳のめぐみ)により生活している。事あるごとに撫恤(いつくしみ)を加え、帰郷を願うことが無いようにすべきである。時服、禄物は毎年これを給い、その資糧(生活資材と食糧)が絶えた時にも優恤(情けと憐み)をすべきである。季節ごとの饗宴や禄などの類は、国司に命じて行わせるとともに報告させよ。その他の必要と思われる施策は、まず申請してから行うように。 (『類聚国史』延暦17年(798)6月21日条) 桓武朝における主要な政策が「軍事と造作」(エミシの征討と造都事業)であったことは知られていますが、このうちエミシの征討(征夷)は、前回も触れたように延暦13年(794)の征夷大将軍大伴弟麻呂・副将軍坂上田村麻呂により行われたものと、延暦16年(797)から20年頃にかけて坂上田村麻呂を征夷大将軍として行われたものが大きな成果をあげたと考えられています。上記の史料は延暦17年という年からすれば、延暦13年の征夷により帰降したエミシを中心とする人々と理解してよいでしょう。 史料の内容についてもう少し掘り下げてみます。これは桓武天皇の勅として出されたもので、相模国以下の6ヵ国に対し、それらの国に移配されたエミシ(夷俘)の扱いについて指示しています。 また後半部の内容からは、移配エミシが非常に厚遇されていた様子を見て取ることができます。たとえば「時服」とは毎年春・秋に支給される服料のことで、本来は国家の官人を対象としたものですが、これがエミシにも支給されているのです。「禄物」が具体的に何をさすのか明らかではありませんが、おそらく生活に必要な物品であったと思われます。 さらに彼らは季節ごとの「饗宴」に伴う禄物の賜与にもあずかっていたようであり、これも異例の待遇です。このように延暦17年段階における各国への移配エミシへの待遇は、やや過剰といえるほどの手厚いものであったことがわかります。 ではなぜこのような厚遇がなされていたのでしょうか。それは史料の「帰郷を願うことが無いようにすべきである」という文言がヒントになっているようです。一般的に移配されるエミシは国家による征討(征夷)により投降した集団であると考えられていますが、その実態は軍事行動による捕虜とともに、自らの意志で移配を希望する地域の住人など多様なものであったと思われます。 史料では「移配」という二文字で簡単に説明されていますが、それはエミシの人々にとっては、それまでの居住地から遠く離れた土地への移住であり、その移動手段も徒歩であった可能性が高いようです。そのような厳しい条件のもとで移配という政府の政策を受け入れた(もちろん「強制」されたケースもあったと思いますが)人々への処遇を意識するのは当然のことといえるでしょう。 さらに移配は国家・天皇の支配が及ばない「夷狄」=エミシに対し、その仁徳を示すことで支配に取り込むという政治的な意図を持っており、前掲の史料にある「徳沢」や「撫恤」、「優恤」といった言葉はまさにそれを象徴しています。 移配先における手厚い待遇は、実質的にはその土地への定着をはかるための措置ともいえますが、理念的には、天皇の徳により「夷狄」を国家の支配のもとに従わせるという側面があることも確認しておきたいと思います。『類聚国史』延暦19年(800)5月21日条には、「夷狄を招いて中州(陸奥・出羽以南の内国)に入れるのは、野俗を変えさせて風化に靡かせるためである」とあります。「風化」とは徳により人を感化・教化するという意味であり、ここにもエミシ移配の理念的な側面が表れています。 この記事でもう一つ注目されるのは、彼らが移配された地域です。史料を見ると相模(神奈川県)、武蔵(埼玉県・東京都・神奈川県東部)、常陸(茨木県)、上野(群馬県)、下野(栃木県)という東国の地名が多く見られ、いずれも現在の関東地方であることがわかります。 エミシの本来の居住地域は東北北部なので、そこから距離的にもあまり遠くない関東地方への移配が中心になっているのだと推測されますが、移配される人数が多かったことから、長距離の移動はエミシに支給する食料の調達や、移動を管理する部領使と呼ばれる役人の確保が難しいという判断などもあったのかも知れません。 そうするとここに出雲国が含まれているというのはやはり非常に気になります。出雲国は、多くのエミシが移配された関東地方から西に大きく離れており、何らかの理由があったことを窺わせます。ではその理由は一体なんでしょうか。新たな史料を紹介しながら次回考えてみたいと思います。 →12月15日(火)に続きます

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第3回

    委員 武廣亮平 前回(第2回)取り上げたエミシ移配史料(『類聚国史』延暦17年6月21日条)では、相模・武蔵国など現在の関東地方を中心とした移配先に出雲国も含まれている点に注目しました。今回も『類聚国史』に収録された史料を紹介しようと思いますが、こちらはさらに具体的な内容が書かれたものです。 『類聚国史』延暦19年(800)3月1日条には、出雲介(国司の次官)の石川朝臣清主の俘囚政策に関する「言上」と、それに対する桓武天皇の勅が記されています。清主の言上と桓武天皇の勅に分けて史料の全文(意訳)を掲げます。 (石川朝臣清主の言上) 俘囚らの冬の衣服は、これまでの例によれば絹と布(麻布)を混ぜたものを支給してきました。しかし清主はこれまでの例を改め、すべて絹製としました。また俘囚1人につき乗田(耕作者がなく余った田地)一町を支給して、これを富民(裕福な農民)に耕作させることにしました。新たに来た俘囚60余人は、寒い季節に遠くから来たのですから、優遇すべきです。そこで(私は)各自に絹一疋、綿一屯を支給し、5・6日間隔で饗宴を行い禄を賜い、毎月一日に存問(安否をうかがうこと)しようと思います。また百姓(農民)を使って、俘囚の畑を耕作させようと思います。 (桓武天皇の勅)  俘囚を慰撫(慰め労わること)することについては、先に例を立てて決めたところである。しかし清主は自分の意に任せて本来の主旨を見失い、饗宴・賜禄に多くを費やし、田畑を耕作する農民の負担も増している。これらは皆朝廷で決めたことではい。また夷(エミシ)の性格は貪欲であり、(一度このような優遇をした場合)もし常に手厚く扱わなかったら、怨む心を動かすことがあるので、今後は過剰な優遇をしてはならない。 さまざまな論点を含む史料ですが、ここでは石川朝臣清主という人物に焦点をあててみたいと思います。ただこの人物の事蹟や人物像についてはよくわかりません。なぜ彼はこのようなエミシへの優遇政策を行ったのでしょうか。 清主の出身母体である石川朝臣は、蘇我氏の祖とされる石川宿禰の後裔氏族です。河内国石川郡や大和国高市郡を拠点とし、大化改新の新政府で活躍した蘇我倉山田石川麻呂をはじめとして、奈良時代には中央政界でも要職に就く者がみられます。出雲国司として赴任するのは石川朝臣足麻呂、石川朝臣年足、石川朝臣豊人の3名ですが、この中で注目されるのが石川朝臣年足です。『続日本紀』天平11年(739)6月23日条には 出雲守従五位下石川朝臣年足に、絁卅疋、布六十端、正税三萬束を賜う。善政を賞するなり。 という記事があり、年足の国司としての業績が「善政」として褒賞されています。「善政」の内容は不明ですが、清主と同じ石川朝臣氏の人物が出雲国司としての施政を評価されていることは確認することができます。清主のエミシに対する優遇政策は、年足の善政を意識したものと考えることもできるのではないでしょうか。 そこで出雲介である石川清主の政策の内容について改めてみると、新到の俘囚に対し絹や綿を与えるとともに、数日おきに饗宴や賜禄を行うとあります。現代の私たちの感覚からみても過剰な優遇であることは明らかですが、これは前回にもお話しした「夷狄」に対して仁徳を示す行為として行っているものと考えられます。まさにそれは天皇の徳を示す行為であり、それによってエミシ(夷狄)の野蛮な性格を改めさせる政策ということになります。 清主が過剰なエミシ優遇策を得意げに言上しているのは、自らが天皇の代理として仁徳を施しているという自己アピールであると考えてみたいと思います。またそこには石川朝臣年足の「善政」も重ね合わせることができそうです。 しかし桓武天皇は清主の言上に厳しい評価を下します。先に掲げた史料で注目したいのは、エミシ(俘囚)への優遇策についてはすでに「例」を立てていると天皇が強調している点であり、これは移配先にエミシが定着するための具体的な生活優遇策と思われます。 つまり移配先におけるエミシ政策は、この「例」にもとづいて行われるべきであるにも拘わらず、清主が「例」を超えた過剰な優遇策を行い、さらにそれをエスカレートしようとしていることを天皇は問題視しているのです。過剰な優遇を通常のものに改めた場合、それがエミシの「怨み」に繋がるという桓武天皇の危機意識は、その後の出雲国における移配エミシの動向を考える上でも非常に示唆的です。 ところで延暦19年に出雲守(国司の長官)であったのは藤原緒嗣です。この人物は延暦24年(805)に菅野真道と「徳政相論」を行った人物として知られており、そこで緒嗣は「軍事と造作」、すなわちエミシ社会への軍事行動(征夷)と平安京の造営が多くの人民を苦しめていると主張し、結局、桓武天皇は緒嗣の意見を受け入れて「軍事と造作」を中止しました。 藤原緒嗣は都で右衛門督という重要なポストにも就いていたことから、出雲国には赴任せず、実質的な仕事は介の石川朝臣清主が行っていたと考えられますが、「軍事と造作」を批判した緒嗣ですから、清主のエミシ優遇策に厳しい目を向けていたことは容易に想像できます。清主のエミシ政策に対する桓武天皇の厳しい評価は、緒嗣の考えを反映したものであるのかも知れません。 石川朝臣清主が出雲国の移配エミシ優遇策を言上した翌年、島根郡人大神掃石朝臣継人ら3名の人物が、清主とともに「悪行」を行ったという理由で長門国に流されています(『類聚国史』延暦20年6月27日条)。これも「悪行」の中身はわからず、清主も処分されたかどうかも不明ですが、自らの「善政?」を主張した清主が正反対の評価を与えられてしまったことは何とも皮肉なことだといえます。 →1月15日(日)に続きます

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第4回

    委員 武廣亮平 出雲国における移配エミシの記録は、延暦17年(798)から確認されることはこれまで述べた通りですが、それから16年後の弘仁5年(814)に出雲国の移配エミシ(俘囚)の反乱に関する史料が4点みられます。 ただその内容は反乱の鎮圧に功績があった者への処遇など、すべて乱後の処置に関するものであり、反乱が起きた原因や具体的な経過などについては残念ながら不明です。情報量も限られていますが、今回は関連史料をもとに、出雲国の移配エミシの反乱の実態を出来る限り探りたいと思います。 『類聚国史』弘仁5年2月10日条   夷第一等の遠胆沢公母志に外従五位下を授く。出雲の叛俘を討つの功を以てなり。 最初の史料は「夷第一等」という身分・地位にある「遠膽澤公母志」に対する授位記事です。「夷第一等」の「夷」とは「蝦夷」の省略表記であり、「第一等」はエミシの有力者に与えられた特殊な爵位を示し、蝦夷爵と呼ばれています。エミシには「蝦夷」と「俘囚」という2つの身分表記があることは第1回目に説明しましたが、遠胆沢公母志は「夷(蝦夷)」という国家側からみれば異民族的な、言い方を変えれば自立性の強い身分を維持し、かつ爵位を与えられているのです。 「遠胆沢公」は、遠胆沢(地名)+公(カバネ)に分けられるこの人物の姓です。「遠胆沢」が具体的にどの地域を指すのかはっきりしませんが、「胆沢」は延暦8年(789)に行われた大規模な征討の時の激戦地であったことはよく知られており、その時の指揮官であった征東将軍紀古佐美が「胆沢の地は、賊奴の奥区なり」(『続日本紀』延暦8年6月9日条)と報告したように、古代国家による征討に激しく抵抗したエミシ勢力の中心地ともいえる場所でした。結局延暦8年の征夷は、エミシ勢力のリーダーであったアテルイらの巧みな戦術に翻弄されて惨敗を喫し、紀古佐美は桓武天皇から厳しく叱責されます。 この敗戦を機に朝廷は懐柔策も交えたエミシ社会の分断化という政策転換を行ったようであり、その後延暦11年(792)正月には「胆沢公阿奴志己」という人物が国家への帰服を請願するなどの記録(『類聚国史』延暦11年正月11日条)も見られます。 さらに延暦16年以降には坂上田村麻呂による征討が行われ、その結果アテルイらが投降し、エミシ勢力の中心地であった胆沢には、国家の支配の拠点となる胆沢城も築かれました。遠胆沢公母志は「遠胆沢」という姓を持つことから、この胆沢よりさらに北方の奥地に居住していた有力なエミシの族長であることは間違いなく、田村麻呂の征討以降に出雲国に移配されたと考えられます。 ところでこの史料は遠胆沢公母志が「出雲の叛俘(叛乱を起こした俘囚)」を討ったことに対する論功行賞記事であり、彼はその功績により「外従五位下」という位を授けられています。ここからは反乱そのものの経緯を知ることはできず、発生した時期についても定かではありませんが、論功行賞が弘仁5年3月に行われていることからすれば、俘囚の乱は弘仁4年の暮れから弘仁5年の初めにかけて起きたと推測することができます。 『類聚国史』弘仁5年2月15日条   出雲国の俘囚吉弥侯部高来、吉弥侯部年子に各稲三百束を賜う。荒橿の乱に遇いて妻孥を害さるるを以てなり。 次に紹介する史料は、最初の史料から5日後の日付があるものです。「俘囚」の吉弥侯部高来と吉弥侯部年子が「妻孥(妻子)」を殺害されたという理由で稲三百束を下賜されており、こちらは反乱による被害者への救済または慰問という性格を持つ史料です。「吉弥侯部」は俘囚の姓として最も多く見られます。注目したいのは「荒橿の乱」(俘囚の反乱)によって、同じ俘囚身分の人々が被害を受けているという点であり、ここからは反乱時に移配された俘囚の間でも何らかの対立関係があったことが窺われます。 『類聚国史』弘仁5年5月18日条   出雲国の意宇、出雲、神門三郡の未納稲十六万束を免除す。俘囚の乱有るに縁るなり。 『日本後紀』弘仁5年11月9日条   出雲国の田租を免ず。賊乱有り及び蕃客に供するに縁るなり。 3・4点目の史料は反乱による被害地域に対する租税免除措置です。まず3点目の史料では意宇、出雲、神門三郡の「未納の稲十六万束」、すなわち本来であれば税として納入すべき十六束の稲が免除されており、ここからは反乱の規模がある程度推測できます。 税(未納の稲)を免除された意宇郡、出雲郡、神門郡は、特に反乱の被害が大きかった地域であると考えられますが、いずれも山陰道が通る地域であることから、俘囚の反乱は山陰道に沿って広がっていった可能性も指摘できます。あるいはこの3郡に移配俘囚が分散して居住していたのかも知れません。 4点目の史料は出雲国全体の田租を免除するというものです。免除の理由である「賊乱」とは言うまでもなく俘囚の反乱のことですが、それとともに蕃客(同年に来朝した渤海使)への対応があげられている点が興味深いです。 最後にこの反乱の痕跡と思われる事例を紹介します。出雲郡家の正倉とされる後谷Ⅴ遺跡(出雲市斐川町大字出西)は、発掘調査により2度にわたり火災で焼失していることが確認されましたが、このうち2度目の奈良時代後期~平安時代前期の火災は俘囚の反乱によるものと考えられています。また意宇郡山代郷正倉(松江市大庭町)でも、俘囚の反乱により正倉が火災に遭った可能性が指摘されており、いずれも3点目の史料と符合するものといえます。 →2月15日(水)に続きます

  • 古代出雲国に移配されたエミシ 第5回

    委員 武廣亮平 前回(第4回)は、弘仁5年(814)における出雲国の移配エミシ(俘囚)の反乱関連記事について紹介しました。ただそこで少なくとも2つの問題点があることに気付きます。 1つは出雲国におけるエミシの反乱は、当国のエミシが生活面において様々な優遇措置を受けているという事実(第3回)と矛盾するようにみえることです。出雲国で移配エミシに対する国司(石川清主)の優遇策が問題となったのは延暦19年(800)であり、一方エミシの反乱が起きたのは弘仁4年(813)と思われます。それはこの10数年の間に移配されたエミシの人々に対する政策が変わったことと関連するようです。 弘仁年間になると全国に移配されたエミシに対して一般の公民と同じように租税を賦課しようとする政策が出されており、たとえば弘仁2年(811)には諸国に「俘囚計帳」の進上が命じられています(『日本後紀』同年3月11日条)。計帳は調・庸などの租税賦課の基本台帳ですから、俘囚にも租税が課されるようになったことになります。これは移配されたエミシに対する優遇措置から、一般の公民と同じく租税の賦課という方針転換が行われたことを示すものです。 坂上田村麻呂の征夷を契機として行われたエミシの大量移配は、それまでエミシの人々に直接接する地域である陸奥・出羽国が負担していた懐柔政策の財源の確保や、エミシ集団の実効支配といった課題を、そのまま移配された国々に持ち込むことになりました。 延暦年間の移配はエミシの勢力分断とともに、陸奥・出羽国の財政負担の軽減という側面があることも確かであり、その分の財政負担はエミシが移配された国々に新たに課せられることになります。しかし移配された国々も「移配エミシの懐柔」に必要な新たな財源を確保するのは困難だったと推測されます。石川清主の過剰な優遇策が問題視されたのも、このような地方財政の抱える厳しい現状があったのでしょう。 出雲国をはじめ、全国に移配されたエミシの生活が最初は優遇されているのは、あくまでも生活形態の違いなどを考慮した一時的な措置であり、政府は最終的に一般公民と同じような税の賦課を求めたと思われます。「俘囚計帳」の進上はそれを象徴していると言えます。しかしエミシは東北地方の北部に住んでいた人々ですから、その生業も出雲国など西日本とは異なっていたことは容易に想像できます。エミシの中には、狩猟などそれまでの生活形態を維持し続けていた者も少なからず存在していたようであり、10年という歳月を経てもエミシ集団の公民化は容易ではなかったのではないでしょうか。出雲国におけるエミシの反乱にはこのような背景があったと考えられます。 もう1つの問題は、出雲国のエミシ(俘囚)の反乱を討ったのが、同じエミシである遠膽澤公母志という人物であるという点です。これも前回確認しましたが、遠胆沢公母志は延暦年間のエミシ勢力の拠点であった胆沢(岩手県奥州市)よりさらに北方地域における有力なエミシの族長と思われます。ではなぜ彼は同じエミシである「俘囚」の反乱を鎮圧したのでしょうか。移配先におけるエミシ集団の秩序の維持といった観点から探ってみたいと思います。関連するのが次の史料です(漢文の原文を現代語訳しました)。 『日本後紀』弘仁3年(812)6月2日条 (嵯峨天皇が)勅して言うには、諸国の夷俘らは朝廷の法制を守らず、法を犯すものが多い。野性は教化するのが困難であり、教喩の効果は未だにあらわれていない。そこで同類(同じエミシ)の中のうち能力があり、皆から推服される人物一人を選び、その長として捉搦(取り締まり)をさせるように。 この史料は、内国に移配されたエミシ集団の公民化が困難な状況をよく示していると言えます。「野性」(野蛮な性格)という表現は、エミシに対する差別的な認識もありますが、彼らの生活スタイルが一般的な公民と異なるものであることを表しているのでしょう。 また注目されるのは、移配されたエミシ集団の中から、能力があり、エミシの人々から「推服」(尊敬され慕われる)される人物1人を「長」(リーダー)として選出し、「捉搦」(取り締まり)をさせるという新たな政策です。 いわばこれはエミシ集団自身による秩序の安定を目的としたものであり、遠膽澤公母志は出雲国内においてまさにこの「長」(便宜的に「夷俘長」と呼ばれています)という役割を担っていたのではないでしょうか。彼は出雲国に移配されたエミシ集団の秩序と治安を維持することを、政府や出雲国司などからある程度期待されていたのであり、自らの移配地で発生したエミシ(俘囚)の反乱を討伐するという行為は、遠膽澤公母志のそのような立場を明確に示していると考えられます。 このような移配地におけるエミシの長(夷俘長)が任命されたことを具体的に確認できるのは、近江国で尓散南公澤成という人物を「夷長と為す」(『日本文徳天皇実録』天安2年(858)5月19日条)という例が唯一のものですが、多くのエミシが移配された国々では、出雲国の遠膽澤公母志のように有力な族長クラスの人物が、エミシ集団を統括していたのでしょう。また夷俘長とその管理下にあったエミシ集団の関係についても、それぞれ異なる地域から移配されてきた可能性もあり、だとすれば自らの移配先で起きたエミシの反乱に対し、夷俘長が強硬な態度で臨んだとしても不思議ではありません。 なお『日本三代実録』元慶4年(880)11月3日条には、近江国俘囚として「遠胆沢公秋雄」という人物が見られます。出雲国の遠膽澤公母志との関係はわかりませんが、もしかしたら弘仁年間以降に出雲国から移住した集団かも知れません。近江国は有力なエミシの族長が多く居住していることも関連史料から知られており、遠膽澤公母志の「功績」により、その一族が近江国に移住(または再移配)した可能性もあります。 →3月15日(水)に続きます

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