【佐太水海の潮(みなと)】
(2015年10月16日撮影)
現在の佐陀川の宍道湖側の口に当たる。
松江から出雲大社に至る松江杵築往還の茶屋前橋が現在も木造で架橋されており、近世の様子をよく残す景勝地である。なお、茶屋前橋は松江藩主の利用する茶屋があったことに由来する。
さて、『風土記』では秋鹿郡の河川(404)に佐太河がみえる。島根郡と秋鹿郡の水源から、佐太水海(現在の潟の内)に注ぎ、水海と入海(宍道湖)の間には長さ150歩、幅10歩の潮(みなと)があったと記されている。
この潮の場所はどこに当たるのか。まず、従来は単純に写真の佐陀川が『風土記』の佐太河を改修したものと考えられてきた。
現在の佐陀川は天明7(1787)年に、佐太神社のある佐太宮内-名分の微高地を掘り抜いて日本海まで連なる運河として掘削されたものである。
宍道湖の水位はほぼ海抜1m未満なのでほとんど海水面と同一に近いが、それでも佐陀川は宍道湖から日本海に流れる流路であり、『風土記』の記す佐太川とは流水の方向は逆となる。一方、現在佐陀川に平行し、交わることなく最終的に宍道湖に流下する講武川がある。
『松江市史 通史編近世Ⅱ』はこの講武川を『風土記』佐太河の後身と見るが、妥当な見解だろう。
※現在は塩害防止のため佐陀川と講武川の注ぐ東潟の内が分離されており、それに伴って直接宍道湖に注ぐ流路(排水路)が集落内に設けられているが、佐陀川開削以前は写真の場所が河口だったのであろう。
また、近年、川島芙美子氏が満願寺の西側にある古湊地名や中期古墳の分布から、かつては西側に港があったと想定している(『いいね!風土記 第2集』今井印刷 2020)。
興味深い見解だが、佐太水海は現地形から見ても東西潟の内付近にあったことは間違いなく、佐陀川開削以前の国絵図(「元禄出雲国絵図」 島根大学付属図書館所蔵)でも、河口は満願寺前にある一里塚より東に橋の絵とともに書かれており、佐太川の主流路を満願寺より西に考えるは難しいだろう(古湊に港があってもよいが、それは『風土記』の潮ではない)。
『風土記』に書かれている佐太河は今の講武川、河口については現在の佐陀川と同じ位置と考えてよいのではないだろうか。(平石充)
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