【立石原の立石】
みなさま、おひさしぶりです。
第32景の更新が1月21日だったので、それから2ヶ月以上経つ。この間は、本ブログでも紹介のあった、『出雲国風土記 校訂・注釈編』の編集の大詰めで。おかげさまでなんとか3月31日に刊行できました。
出雲国風土記百景の記事も、今後はこの『出雲国風土記 校訂・注釈編』を参考として、そこに書ききれなかったことなどを取り上げたい。
本日は、神門郡729にみえる石見の国安農郡川相郷への通道についてふれたい。
この通道は里程や目標地点から見て、山陰道駅路のとは別に、三瓶山山麓を通過し安農郡の南部(川相郷は今の大田市河合町)に抜ける別経路である。
推定にはいろいろあるが、中村太一氏の、出雲市一窪田を抜けるルートが妥当と思う。このような国境を超える道路は複数あるのが通例だが、災害時の迂回路の意味があると考えられる。
出雲-石見国堺の難所は、出雲に住んでいる人ならすぐに思いつくと思うが、実は海岸沿いの国道9号である。小さな親知・子知のような場所で、斜面が崩壊すると、国道・JRともに通行禁止になる。一時石見に勤務していた私も、何度もここが通れない(ないし片側通行などになって)苦労した記憶がある。なんと、自動車では飯石郡の国道54号線に誘導されるのだ(迂回距離は50kmくらいはある)。
そして、国道9号(古代山陰道も同じルート)が断絶した時、一番近い迂回路が上記の一窪田から大田市山口町に抜けるルートとなる。
さて、このルート上の出雲-石見国堺は現在の大田市山口町内にある。
この部分は、近世の神門郡の一部が大田市に編入されている場所で、市町村堺と旧国堺が異なっている。
現地に行くと、高さ1.5mあまりの立石が、立石神社の御祭神としてまつられている。なお、史料によっては石上明神などと出てくるが、石上=石神とみられる。
【山口町の立石 2021年6月24日撮影】
これは本ブログ(第17景)でもすでに紹介している古代交通路に関連する立石とみるのが妥当で、出雲-石見国堺に置かれた事例だろう。
さて、この場所を地図で見ると上図の通りで、河川争奪の行われている典型的な片峠である。左の石見国の側は三瓶川の深い渓谷沿いの道だが、右の出雲国側になると伊佐川の谷底平野なので、石見国側から峠を上ると平地なのだ。
立石の位置は現代の主要道(黄色)から見ると不自然な場所であるあ、三瓶川の渓谷を迂回するルートを取ると、おのずからこの辺りになるのではないか(点線が想定通道)。
(平石 充)
次回の更新は4月22日土曜日です