今回は前回の続きなので、百景とはいいがたく、28景のつづき、とした。
再度この辺りを回りながら、まあとりあえず島らしいものを紹介することとしたい。全体地図は下の通りで、意宇郡の東側の島に当たる。
①粟島 現在は米子市彦島町だが、近世初頭の国絵図では島になっている。西側は今も中海に突き出す。丘陵上には粟島神社があり、社叢は鳥取県天然記念物。よく知られるように伯耆国風土記逸文の粟島であることはほぼ間違いないと思われる(近くに余戸の遺称地名がある)。北から見ると芦原の中の島のように見えるが、残念ながら耕作放棄地か。
【北側から見た粟島 2022年10月15日撮影】
北裾に少彦名が降り立ったとされる岩、また西裾に八百比丘尼の岩屋がある。
【少彦名の降り立った岩 2022年10月15日撮影】
【八百比丘尼の岩屋 2022年10月15日撮影】
②は粟島東方の砂堆である【写真なし】。ちゃんと調べていないが、おそらく内浜砂丘の残存丘とおもわれるが、結構な山になっている。これはこれで面白いのだが、市街化が著しく、それらしい写真を撮るのが難しかった。地図にこの部分の標高着色図をつけているので参照。ただし、現在砂丘はほとんど削平されているので、現状は島状をなすが、本来は砂丘列か。
③米子公園内の清洞寺跡。近世国絵図や米子城下絵図をみると、この部分が西の突端で、港湾となっており、亀島と呼ばれる島で、城下町と陸繋される。現在は公園内の池であるが、島だったころの雰囲気はよく残る。亀島は巨岩が点々とする磯であることに由来すると思われるが、『風土記』には加茂島があり、現在は安来港の亀島に比定されているのでこれも重要かもしれない。
【米子公園内 亀島 清洞寺跡 2022年10月15日撮影】
⑤萱嶋
米子湾の現在の彦島干拓地からは極めて近い島だが、安来市に属する。このあたり、近世に出雲・伯耆どちらに属していたのか要検討だが、藩境争いや漁場の争いはまだ確認していない。いわゆる江島干拓では、それなりに相互の絵図に出てきたりする。昭和初期には料亭が設置され、米子市から渡海していたとの話がインターネット上で確認できる。
【安来市萱嶋 粟島神社の上から 2014年10月26日撮影】
【南から見る萱嶋 2022年10月15日撮影】
⑥松島 萱嶋の東にあり、これは安来市側に近い。
【粟島神社から見た松島 2014年10月26日撮影】
【南から見る松島 2022年10月15日撮影】
【南から見た、⑥松島・①粟島・⑤萱嶋 2022年10月15日撮影】
④穂日島 県境付近にある島で、『風土記』の支布佐社を継承するとされる支布佐神社の境内地である。島の名前も、祭神の天穂日命による。この付近にはアメノホヒの神陵とされる神代塚古墳もあり、これらの伝承がいつ形成されたのかは興味のあるところである。
これも岩塊からなる小島で、形状からは亀島とでも名付けたいところである。現安来市。
【米子市錦海団地より撮影 撮影日時不詳】
⑦沖俎岩
いわゆる岩礁だが、こんな感じで、近くに船舶に危険を知らせるための灯台がある。以前、水上で調査した時もこの辺りには近づけなかった。
【東から見た沖俎岩 2022年10月15日撮影】
⑧十神山 安来市十神町の十神山で、これは『風土記』記載の199砥神島でよいと思われる。現在は陸につながっているが、近世初頭の国絵図では島である。写真左端が①の粟島。
【安来港から見た十神山 2022年10月15日撮影】
⑨亀島
安来港にあり灯台が設置されている。これも岩塊からなる小島で、形状からは亀島である。『風土記』の200加茂島に宛てられており、記載順から言うとその通りであるが、加茂島の名称自体は、伯耆の国に多いカモ部に由来で現在の亀島の名称とは無関係、という可能性もありそうだ。
あくまでも現代の状況であるが、島の形としては③(亀島)・④(穂日島)・⑨(亀島)はよく似ているといえる。
【安来港から見た亀島 2022年10月15日撮影】
続く(次回は11月5日掲載予定)
(平石 充)