top of page

出雲国風土記百景(第28景のつづき3)

更新日:2023年4月14日

【塩栯島 しおたてじま】

(2022年11月6日撮影)


10月下旬からぐっと朝晩の冷え込みがきつくなってきた。11月6日は霧の朝となったの


で、早速朝酌に撮影に。大橋川にある塩楯島を撮影してきた。

この島は細川家本では「塩栯島」だが、現在は塩楯島で、こちらの表記で見たことのある人も多いだろう。山川『風土記』以前では塩楯島が用いられてきた。ただし、栯には「たて」の訓があるので(山川は「しおすき」と訓じる)、読みは同じ「しおたてじま」と理解している。


この島は川の中にある島で、最初島根県にJRで赴任した時に、松江に入る前の車窓からみて、こんな島があるんだと、感動した記憶がある。

さて、この島のある朝酌促戸は美保湾・中海と宍道湖・大社湾の分水嶺に当たる箇所で、宍道湖が閉鎖的な環境になり、美保湾・中海側からが海水が流入する段階でもネックになっており、塩栯の名称はまさにそのこと(海水の遡上を妨げる)に由来するとみられる(高安2000)。


現在は1930年代の工事(汽船を松江に入れるため)によって、この島の北側の水路が掘り下げられ水深4.5mほどとなっているが、これには岩盤を掘り下げた結果であり、これにより現代の宍道湖川の汽水化が進みシジミが繁殖するようになった。


八雲立つ風土記の丘の出雲国府復元模型では、この辺りが北端となるが、もう少し浅く、岩盤が見える(おそらく水深3mより浅かったとみられる)で表現するべきであった。


【2022年10月23日撮影】


さて、島の上には現在手間天神社が鎮座しており、『雲陽誌』では、この付近に歌枕手間剗(てまのせき)があったと考えられるようになっている(本来は伯耆-出雲国堺にある)。


手間の地名がいつ頃ついたかは要検討で、中世歌学書などにみえるスサノオの「手摩島」の神話と併せて考える必要がある。


『風土記』では安来市飯島町の羽島の次がこの塩栯島で、その間に島はないことになっている。安来平野については前回記したとおりだが、意宇川河口ぶはどうであろうか。



まず一つは②現在の八幡町浜分である。この部分は微高地(地名通り砂浜)を形成しており、意宇川の河口があったことを推測させる。もう一つが③亀井塚と呼ばれる高まりである。




【亀井塚 旧出雲街道より 2022年11月16日撮影 南側にヤマダ電機があり、これを入れずに撮るのがコツ】



現在、頂部には尼子毛利合戦で戦死した亀井秀綱の墓がある。塚状を呈しているが、地図を見ると旧出雲街道(旧9号線)沿いが連続する微高地となっており、意宇川河口部に形成された砂丘の残り丘陵である可能性があるだろう。この辺りは、市向に流れる意宇川旧流路があったとの説も併せて検討する必要がありそうだ。


意宇郡の島については、一応今回で終了とし、次回からはつぎなる百景に移行したい。

(平石 充)     


参考文献

高安克己2000「大橋川・中海・宍道湖の自然史」『出雲国風土記の研究Ⅱ 島根郡朝酌郷調査報告書』島根県教育委員会


(次回は12月3日に更新予定です)

bottom of page