意宇郡の島、2回で全部制覇と思っていたが、このところ土日も出張・勤務が続いておりそもそも写真が撮れない。申し訳ないが、今回は安来西部ということで。
地理院地図を用いた標高表示は下記の通り。
まずは中央の岩屋遺跡。安来市教育委員会によって、縄文海進期とみられ波食台が0.5m前後で確認されている。それを覆う砂層から弥生後期の土器が、その上の腐植土層から6世紀後半~7世紀前半頃の須恵器が出土している。おそらく出土した土層は標高1m前後とみられ、花粉分析では水田と考えられている。この箇所は久白(くじら)だにの出口部分だが東側の県道広瀬荒島線付近の微高地が伸びてすでに後背湿地から水田化しているようだ。
そう考えるとさらに北側の高塚山あたりもすでに陸繋しているのではないかと思われる。
【武嶺山 2022年10月23日撮影 西から】
さて、東側には現在赤江八幡宮が南側にある武嶺山がある。この山から北に向かっては丘陵部が続いており、JR山陰線を超えたあたりで法雲寺の墓地までが現在は丘陵状を呈しているが、現在はだいぶん削られて、細くなっていると判断される。
【豊島 2022年10月23日撮影 北から】
ここの字名は豊島で、島の名の付く字はさらに北に中島があるが、こちらは現在丘陵状の地形はみられない。小さい丘陵であれば完全に削平されているのであろうが、山陰本線を県道広瀬荒島線がまたぐあたりとか、かなり小さな丘が残存しているので、やはり「中島」地名は砂州状の島なのであろう。
さて、これらの小字がいつ命名されたのかということになると、全く不明、同じ時期かも不明なわけだが、高塚山の北側には御崎の地名があるので、豊島あたりがまでが海岸線で、武嶺山・高塚山あたりは陸知化していたのではないかと想定してみる。
【街道の趣を残す 荒島町 2020年1月4日撮影】
【高塚山にある圓光寺 多宝塔があるがあまり知られていない。2000年1月4日撮影】
つづいて④の小丘陵については、南側の日白池と併せて考えることなる。日白池は18世紀卜蔵孫三郎によって埋め立てられたラグーンで、江戸時代にはすでに現在の荒島の町並み(出雲街道の宿場町)は陸化して、入り口が閉じられているが、これがいつごろからなのかが問題となるところであろう。また、東側の丘陵上がいわゆる荒島墳墓群であるが、麓にラグーンを抱えていたことがよくわかる。 平石 充
次回は11月19日土曜日に掲載します。