【羽嶋と意宇郡の島】
【2017年9月28日撮影】
平地に忽然とあらわれた独立丘で、古墳のようにも見えるが、現在の安来市飯島町の羽島神社のある丘である。飯島町、おもわず「いいじま」と読みたくなるが、よみは「はしま」で、この山に由来する。※なお、実際は隣に工場やタンクがあったりします。
2枚目は毘女塚古墳のある丘陵から遠望したもの。 やはり平地にある独立丘である。さて、『風土記』にはこの山は意宇郡海浜部201に羽島として見え、椿・比左木・多年木・萕頭・葛があるとされる。このことから、現在と異なり、当時は島まであったことがわかる。
また、この前の島は子島、次の島が塩栯(しおたて)嶋であるので、この記述が正しければ、東側は松江市朝酌町の塩楯島まで島がなかったことになる。第23景でも紹介したが、安来市赤江町のあたりには赤江八幡宮のある山(山A・B)などがあるが、これらはすでに島ではなく、山だったことになる。
前回も書いたが、この山には名称が見当たらず『雲陽誌』にも出てこないが、よくよくみると山Aは字が豊島、Bの方はgoogleマップを見ていると、武嶺山とみえる。このあたりは赤江八幡宮(山にある神社)の方に伺えば、割と簡単にわかるのかもしれない。
話はそれるが、実際、山の名前というのは『風土記』の現地比定を行う上で一番の難題である。そもそも、山とは何を指すのか、正直自分でもわからない。これは『風土記』の山概念が、とか云う前に、現代の自分のなかでも定義できないので非常にやっかいである。だいたい、どこからが山で、どこからが平地なのか、とか。現代の呼び名もよくわからないことが多い(※火山には管理名称があると思われる)。なので軍隊式に標高○○メートルの地点、と呼ぶことが多い。
そして、『風土記』の遺称地名の残存率が最も低いのがこの山で、まあ、出雲国風土記研究で山を対象に研究を始めるのはおすすめしない。
川はこれに比べるとまだわかりやすく、いちおう県土木部河川課が管理している名称や図面がある(しばしば、地元の呼び名とは異なるが)。
さて、話を戻すと、山Aは豊島だった時代があったのかもしれない。こうなると、『風土記』の記述がすべての島を網羅しているか、問題となる。それともう一つ、意宇郡の島は妙に記載が詳しい。
この羽島にしても、それほど大きな島ではないが、どこにでも生えていると思われるありふれた植物の記載がある。そして、蚊島もふくめ他の島も皆詳しい。このあたりは何か理由がありそうだが、そのあたりは、次回以降に検討したい。
(平石 充)
※取材なども含め、1月ほど休載します。次回は掲載は10月8日(土)です。
・写真は加工されており、資料的価値ありません。写真としてお楽しみください。
・本文中のアラビア数字は沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『風土記』山川出版の行数です。 ・解説は撮影者によるもので、出雲古代史研究会の公式見解ではありません。
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