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出雲国風土記百景(第26景)

【意宇の海】


 【松江市東出雲町意東海岸 2022年8月撮影】


 意宇の海は『風土記』には登場しないが、万葉集に見える。というか万葉集に見える出雲の地名はこれと焼島(たくしま)しかない。※焼島は出雲以外の可能性もある。

                            

意宇(おう)の海の、河原(かはら)の千鳥(ちどり)、汝が鳴けば、我が佐保川(さほかは)の、思ほゆらくに(0371番歌) 門部王


飫宇(おう)の海の、潮干(しほひ)の潟(かた)の、片思(かたも)に、思ひや行かむ道の長手(ながて)を(0536番歌) 門部王             


大君(おほきみ)の、命(みこと)畏(かしこ)み、於保(おほ)の浦(うら)を、そがひに見つつ、都へ上る(4472番歌) 出雲掾安宿奈杼麻呂


 これらの見える意宇の海は4472も同じ海であるとすると「おほ」とも読まれていたようで、意宇をどのように読んでいたかを考えるうえで重要である。

 それは措いて、0536・4472ではともに道(山陰道)から見えるように書かれているから、やはり意宇川河口付近を指すのであろう。また0536には潮干の潟とみえるから、遠浅の砂浜であった。

 現在は意宇川付近の中海は埋め立てによって自然地形が消失しているが、近年湖岸を復元しようとする試みがなされており、そこで撮影した。汀線付近まで草が茂っているが、塩分濃度の高かった風土記時代には砂浜が形成されていたのであろうか。


 さて、前回野代海中が白砂青松の景勝地ではなかったか、としたが、こちらも同様で国府から近い砂州だったと思われる。


 現在の意宇川は砂州を直線的に切って中海にそそぐが、これは次期不明の治水によるものである。航空写真を見ると、現在の阿太加夜神社付近と、安国寺前付近に河口がありその間は砂州が北に向かって伸びていたとみられる。


 『雲陽誌』の意宇郡出雲江(あだかや)の足高明神(現阿太加夜神社)には本社の北に「御影浜」「御寄浜」があり、明神神幸の地であると記されれている。やはり白砂青松の景勝地であったと思われる。

 そして、近世にはこちらが歌枕「袖師浦」と推定されるようになる。



                                (平石 充)


※次の更新は9月10日土曜日になります。

 

・写真は加工されており、資料的価値ありません。写真としてお楽しみください。

・本文中のアラビア数字は沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『風土記』山川出版の行数です。 ・解説は撮影者によるもので、出雲古代史研究会の公式見解ではありません。

・写真の無断転用はお断りします。

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