【野代の海中】
(2013年9月1日撮影)
今回は意宇郡202に見える野代海中(のしろのわたなか)を取り上げる。
写真はいわゆる嫁が島…まあベタな夕日写真で、正直ほかに撮りようはないのかとも思いますが挙げました。
完全な晴れている日は面白くなく、水平線が晴れていて、松江上空が曇っているような時がおもしろい写真が撮れますが、こればかりはお天気次第。
さて、野代海は『風土記』中に見える唯一の入海(現在の宍道湖・大橋川・中海)の別称で、同じく193に見える野代川の河口付近、と考えられている。
下はこの周辺の地図で、地理院地図に標高別色分けをしたもの。国土地理院地理院地図から簡単に加工できる(スケールやテキストは別)。便利な時代になったものだ。標高10m以下を着色し、青色が低く、茶色が高い。
(地理院地図に加筆)
見てもらうとわかるが、現在忌部川と呼ばれる風土記の野代川の河口はかなり南である。嫁島町・西嫁島町は戦後の埋め立て地で、また浜乃木の旧競馬場跡(トラック状の地割が見える)あたりが低い。
この周辺についての古地形(弥生時代)は別所秀高氏による復元があり(別所2021)、旧競馬場のあたりにラグーンが、またJR山陰本線のあたりに砂州が想定されている。浜乃木周辺には野代川の蛇行原があるが、山陰本線より北側には及ばない。
一方で、嫁が島の北側を見ると、県立美術館や白潟公園の造成地を除いて、白潟本町が高いことがわかる。ここには地表下に白潟砂州が存在し、中世には港湾と町場が形成されていたことが知られている。現在、その突端部で発掘調査が行われており(松江城下町遺跡白潟地区)、中世以前の砂州の様相についての成果が期待される。
『風土記』には、この辺りについては野代海中の記事しかないが、実際の景観は南北ともに白砂青松の海浜で、中央に現在円城寺のある山がそびえ、対岸に蚊島があるという状況が推測できる。意宇郡の西側には同等の砂州は存在せず(玉湯川河口がやや広く、『風土記』141~143にも景観の描写がある)、やはり野代海、というのは特記される景勝地だったのではなかろうか。
現在この辺りは袖師町で、これも昭和に埋立地についた町名だが、中世以降で出雲国と認識される歌枕「袖師浦」の比定地にもなっていく(袖師浦の比定地は東出雲町、意宇川河口にもある)。この辺りは次回に。
参考文献
別所秀高2021「神後田遺跡周辺の古地形復元に向けた予察」『神後田遺跡発掘調査報告書』松江市教育委員会
(平石 充)
※8月20日は出雲古代史研究会大会準備のため休載します。
※次の更新は8月27日土曜日になります。
・写真は加工されており、資料的価値ありません。写真としてお楽しみください。
・本文中のアラビア数字は沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『風土記』山川出版の行数です。 ・解説は撮影者によるもので、出雲古代史研究会の公式見解ではありません。
・写真の無断転用はお断りします。