top of page

出雲国風土記百景(第21景)

更新日:2022年7月31日

【たこ(虫+居 虫+者)島】

【2021年9月撮影】


 まずは写真から。

 大根島(『風土記』のたこ島)の波入あたりの風景ではないかと思うが、昨年度はよく晴れた日が多く、家から近いこともあって、何度も写真撮影に訪れた。そのうちの一枚である。高い雲とマグリットの絵みたいな低い千切れ雲の日だったなと思い出される。


 さて、写真の良否は措いて、島が低平で、高木が少ないことがうかがえると思う。このような土地利用が、今でもしばしばみられる(写真を撮る立場から言うと、電線が入らないのが素晴らしい)。


 前回、『風土記』の蜈蚣(むかで)島(現・江島)は、島の形がムカデだったからではないかと指摘した。


 蜈蚣島の南にある「たこ島」(現・大根島)の由来はどのように考えるべきであろうか。『風土記』では287~291に説明がなされており、古老が伝える「杵築の鷲が掠ってきたタコがこの島にいたため、たこ島になった」との説話を記した後、つづけて今の人は誤って「栲(たく)島」と呼んでいると記す。現実には栲島と呼ばれていたとみるべきであろう。

 この島と同じ島名は万葉集1233番歌に原文「栲島」としてみえる(ただし、出雲の島かどうかは不明)。

 また『夫木抄』巻二十三 承保(ママ)三年十一月出雲国名所歌合にも、「人知れぬ わが恋なれや焼島の  あま の藻塩の たえぬ煙は」の歌が見える。歌自体は都で読まれたと思われるが、この「焼(たく)島」はまず間違いなく出雲の栲島をイメージしたものとしてよいだろう。

 近世では、意宇郡に属し『雲陽誌』は「焼(たく)島」としている。なお大根島の名称は中世後半から焼島とならんで見えるようになる。


 このように、この島は『風土記』採録の古老説話(タコ説話)とは別に「たく島」と呼ばれていたと思われるが、ではこの「たく島」は何に由来するのであろうか。


 ここで『風土記』の記述を見ると、『風土記』の頃には、松二本を除いてほかに木はなく、茅などが生い茂っていて「牧」(細川家本では「枚」)がおかれていたとされる。

【枕木山から見た大根島 2017年9月3日撮影】


 実際の大根島は写真とおりの低平な島で、更新世約19万年前の火山噴火によって形成されているが(噴火当時は島でなかった)、「焼島」(近世には火山島を指す)はこのことを指しているとは思われない。



 ただし、高木がなく現地表にもクロボクが広がることから、牧としての管理のために、定期的に野焼きがされていたとみることはできないだろうか。


 この連載の第一回目に『風土記』で大山が火神岳と呼ばれていた理由に、大山クロボクを形成した野火や野焼きを想定したが、ここでも同じことを想定してみたい(つまり野焼きされる島という意味)。                         【平石 充】





※次回は6月12日に更新します。

 

・写真は加工されており、資料的価値ありません。写真としてお楽しみください。

・本文中のアラビア数字は沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『風土記』山川出版の行数です。 ・解説は撮影者によるもので、出雲古代史研究会の公式見解ではありません。

・写真の無断転用はお断りします。

bottom of page