【佐太の国 】
(2021年8月24日撮影)
松江市上佐陀の水田で、奥に見える堤は、現在この地を灌漑する野間池である。
前回、『風土記』佐太河の後身となるのは講武川との説を紹介した。 講武川と運河の佐陀川の流路が異なるのは、現在の下佐陀町より上流である(下の航空写真)。
佐陀川開削前の秋鹿郡絵図(『松江市史 史料編11 絵図・地図編』所収)に見える河道は、この講武川と、佐太神社前から分流する点線の河道(新川)で、両者に挟まれた範囲には明瞭な条里制の痕跡が確認できる。
この地域は、現在は佐陀川西岸が古志町、東が上佐陀町であるが、かつては新川まで、写真の条里地割の残る範囲すべてが上佐陀村であった。
野間池が築堤されて以降この池が上佐陀村の水田を灌漑していたが、佐陀川開削以降は用水が分断され、東岸には筧を佐陀川に渡して引水していた(山根克彦2005、現在は佐陀川をくぐる導水管が設置されている)。
これらの状況からから考えて、開削以前から佐陀川の場所に『風土記』佐太河があったとは考えられず、講武川を佐太河の後身と見てよい。また、講武川は条里制の痕跡と整合的であることから、その流路は中世以前には定まっていたと見られる。
くわえていえば、講武川と新川、つまり古代の佐太河の分流地点が、東西から山地がせまり築堤の容易な佐太神社前の身澄池とされる点も示唆的である(現在はこの場所で講武川から悪水を佐陀川に落としている)。
この神社が背後にカンナビ山を持ち、上佐陀・下佐陀の用水を管理する拠点に営まれたと推測してよいだろう。 (平石 充)
参考文献
山根克彦2005『地名が語る生馬の里』高浜印刷
※毎週土曜日に更新中。
・写真は加工されており、資料的価値ありません。写真としてお楽しみください。 ・解説は撮影者によるもので、出雲古代史研究会の公式見解ではありません。
・写真の無断転用はお断りします。