今年の春に奈良県明日香村教育委員会から、西橘(にしたちばな)遺跡の報告書が刊行された。同報告書には270点の木簡が掲載されており、その中にここで紹介する「八雲評」と判読される荷札木簡がある。同報告書は奈良文化財研究所の『全国遺跡調査総覧』にてPDF公開がされている。詳細はそちらを参照いただきたい(以下の事実記載も報告書による)。
この遺跡は現在の明日香村役場に当たり、木簡は東側調査区の谷SX3041から出土した。この谷は出土土器の様相から660年ごろに埋められ整地されたとみられ、木簡群も評-五十戸制・いわゆる前期評に相当しており、土器の年代観と大きな矛盾はない。この時期は天智朝にあたり、前期評でも古い木簡である。木簡出土地区の発掘調査は1993年で、その後故橋本義則氏が釈読に当たったが、氏の逝去により、あらためて平成31年~令和3年にかけて、山本崇氏・藤間温子氏・東野治之氏・寺崎保広氏・鶴見泰寿氏を招聘して再検討が行われた。報告書はその検討成果を掲載している(報告書の文責は山本崇氏)。
木簡群は本質的には橘寺との関係を含め多様な検討課題を持っているが、出雲古代史研究に携わるものとしてまず気になるのは、表題に挙げた「八雲評」の荷札木簡である。報告書の正確な釈文は「□〔八〕ヵ雲評」で、冒頭の文字は推定を含む、という評価だが、写真からだけで判断すると「八」でよいように見える。現物観察の必要があるが、以下は報告書の釈文を前提として話を進める。
木簡には1点ごとに解説がつけられており、問題の史料は木簡41である。
解説全文を掲げると「四周削り。ヒノキ科・板目。綿の荷札。「八雲立つ」(『古事記』神代紀第八段)・「八雲さす」(『万葉集』巻3-430番歌)のごとく八雲は出雲にかかる枕詞として著名であるが、「八雲評」は不詳。養老雑令によると、綿は小斤で計量する(2度地条)。平城宮跡出土木簡のうち養老2年(718)以降の調綿荷札は4両=1屯としており、主計式上も同じ(2諸国調条)。「綿14斤」は約3.15kg。E4区Ⅳ層下層(灰黒色有機土)出土」。以下、雑感をいくつか述べてみたい。
(1)「八雲評」はどこの評か…管見の限り、古代史料に見える行政区画名・地名・神社名などに「八雲」はみえない(出雲国内にもない。長岡京木簡には人名に「八雲」がある)。現在は全国に八雲地名・八雲神社があるが、これらは祇園信仰の展開によるものとみられ、あまり参考にはならないだろう。新出の評名であるが、報告書が述べるように、「八雲」はやはり出雲の枕詞として著名な語であり、まずは出雲と関係から検討するというのは妥当である。
さて、出雲の評についての確実な一次史料としては木簡があるが、荷札木簡はすべていわゆる後期評(藤原宮出土。694年~)に属しており、前期評のものはない。楯縫評・出雲評(確実に「出雲」である)・神門評が確認される。他に出雲国府出土木簡に大原評がみえるがこれも正方位の溝から出土しており、後期評段階のもので良いだろう。また編纂史料では『日本書紀』斉明天皇5(659)年是歳条年に「出雲国造 名を闕く」「於宇郡」、『続日本紀』文武天皇2(698)年3月己巳条に意宇郡司が見える。前者はともかく、後者は確実に意宇評とみてよく、後期評段階には意宇評も存在していた。また『国造北島氏系譜』など出雲国造系図の最古部分は信憑性が高いとされるが〔高島1995〕、ここには国造叡屋臣の注として「帯許(評)督」の記載があり、これを信頼すれば国造本宗が評督となる評があったことになる(他の国造も評督・郡司だった者が多いと推測されるが注記はなく、彼は特別な評督、いわゆる初代立評人の可能性もある)。また、斉明紀にみえる「出雲国造 闕名」は史実に基づく記述とみる説が有力であるが、氏族名は不明で、これをもってこの段階に出雲国造出雲臣が成立していたとまで言い切れるかは難しい。
また、荷札木簡については出雲に限らず国毎に特色があり、時代を超えて連続しているとの指摘がある(有名な事例は隠岐の荷札木簡)。評制下の荷札木簡は原則国名表記がないが(国制がいつ成立したかも検討課題である)、のちの同一令制国内の評の荷札が共通する書式を有しているのである。山陰の荷札木簡の特色については8世紀のものもふくめて渡辺晃宏氏が整理しているが〔渡辺2015〕、出雲については①長さ幅は中程度であまり特徴がない、②オモテのみに1行書きが原則。③天平期から2行書きがみえる、④材はヒノキが多いが杉もある。板目が多い。とされる。当木簡は①・④は適合するが、裏面に記載がおよんでいる。また、キリコミ部と文字の関係については渡辺氏は中男作物は端部から書き始めているが贄木簡については文字がキリコミにかからないと述べている。別図のよう評制荷札に限ってみるといずれもキリコミ部に文字はかからず、これも当木簡に該当する。
次に物品名の綿であるが、『延喜式』主計寮上出雲国条では同国の庸に綿がみえるほか、木工寮式の諸国所進雑物にも出雲国の綿があり、出雲国の進上品として十分想定されるものである。
現状での私見は、特徴からもちろん当木簡を出雲の荷札と断定できないが、出雲の荷札と考えてもよいのではないか(出雲の荷札は著しい特徴がないとされるので他地域の荷札でもかまわない)。他地域の評である場合は、出雲との特別な関係が想定される小地域(後の郷に相当)の評で後に消滅した評であろうか(小地名「出雲」や出雲神社のような事例。山背国愛宕郡出雲郷、各地の式内社出雲神社の例など)。
(2)『出雲国風土記』(以下『風土記』)の国号由来…『風土記』は当然出雲国号を説明している、と考えがちだが、沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉氏による山川出版『風土記』は、国号由来のテキスト(11、細川家本の行数)を「所以芳雲者」=「芳雲(よくも)といふゆえは(いふを補読)」とし、結果として「芳雲」案を提示している。たしかに底本である細川家本(細本)の文字は「芳雲」にみえる。しかし、これは同写本にみえる独特の書クセでありこの文字は「号」と読むべきである。すなわち神門郡の郡名起源「所以号神門」もこの「芳」が使われているが(650)、ここが「芳」である可能性はない。現状、細本は「所以号雲者」(「出」が欠けることに注意)と釈文を起こすべきであろう。
※細川家本と字体が酷似する倉野本『風土記』が国文学研究資料館の国書データベースで公開されており、上記写本の用字の特色を確認できる。
上説に従うと細本テキストは「所以号雲者、八束水臣津野命詔、八雲立」となる。これを忠実に読めば「雲」は「八雲立」に由来する、となる。
もっとも、つづいて本文は「故、八雲立出雲」と記されており、『釈日本紀』(『釈紀』)所引の『風土記』、蓬左文庫本『風土記』は該当部分をはっきり「所以号出雲」(つまり、「出」の字がある)としている。なお、蓬左文庫本は『釈日本紀』の影響を受けていないので、「号出雲」は細本には伝わらなかった原本の情報である可能性がある。また、常識的にも天平期の『風土記』として、当時の国号「出雲」の説明であるべきである。私見もやはり原本は国号出雲の説明であったとは思うが、終わりが「八雲」で終わっている点は、以前から細本『風土記』を読んでいて「?」と感じる箇所であった(もっとも、『風土記』にはこのような説話構成上の不整合はしばしば見られる)。このあとの、13「八雲立出雲」を最上段とする細本の改行も、何時の時代の書式かは不明だが特殊といえば特殊である。
地名起源伝承ではその地名の発音が説明中に入るのが一般的である。この原則に基づいてか、橋本雅之氏執筆の角川ソフィア文庫版『風土記』の『出雲国風土記』は国号由来のテキストを「所以八雲者」とする(特に「八雲」としたことについての註などはない)。写本の情報を第一義として古代の『風土記』を復元する立場からは、やはりこの釈文は考えづらい。ただし、「所以号出雲」を含む蓬左文庫本のテキストのうち細川家本と異なる箇所については、近世の「校正」を経ているとの指摘もあり(高橋2020)、『釈紀』の引用テキストの信頼性も検討の余地がないわけではない。
木簡の年代は660年代以前、天智朝と考えられ、当然ながら、記・紀編纂以前であり、それらの歴史解釈に引き寄せられている8世紀の地名・地名由来から、距離を置いた史料ということなる。この木簡を出雲地域の評の荷札とみると、編纂史料を除いた一次史料では「出雲」地名より「八雲」地名が先行して確認できることになる(出雲の一次史料初出は壬辰(692)年の鰐淵寺観音菩薩立像)。また、国造氏については意宇郡の豪族が出雲臣を名乗ることもかつてから問題視されていた。『日本書紀』仁徳即位前紀では淤宇宿禰とみえるから、いずれかの段階でオウからイヅモに改姓したことになる。ただし、『日本書紀』の影響を受けない郡里制下の風土記である『播磨国風土記』にはすでに出雲臣がみえるから、この氏族名は8世紀初頭の地域社会でよく知られた氏族とみられる。
やや大げさかもしれないが、記・紀と異なるとされる『風土記』の「八雲立つ」理解、『風土記』の記す伝承とは何時の頃のものか?などにも関わる可能性がある史料である。
(3)初期評の存在形態…繰り返しになるがこの木簡群は660年代となる、評制の中でも極めて古い木簡群であり、ごく初期の評制を知るうえでも重要である。
木簡群中に明瞭な荷札木簡は少ないが、もう一点の評の荷札木簡がこれも新出の「鎮評」である。報告書の解説によれば、チヌ(茅渟・血沼)の可能性があるされるが、蓋然性はあるだろう。茅渟は宮・アガタ・ミヤケ名で著名だが郡名に継承されず、国郡制では和泉国和泉郡となった。『続日本紀』霊亀2年3月癸卯条では、和泉郡・日野郡が珍努宮に附属させられているので、宮(アガタ・ミヤケ)に附属する領域は和泉郡より広かったと考えられる。上記の推定に基づけば、チヌ評はのちに分割され、イズミとなり、この新コオリ名が国名と共有されている事例となる。
すでに荒井秀規氏によって指摘のあるように、初期の評には律令の郡をはるかにしのぐ大規模なものが存在し(改新詔では40里の郡が想定されている。国造国そのものの可能性がある)、後に分割されていったと考えられる。「鎮評」もこのような事例に加えられるものとなるか。「八雲評」のテキストがこれでよければ、コオリ名の変更と郡名への非継承も、「鎮評」同様に解釈出来る可能性があるだろう。
現状では数点の木簡で想定されるテキストの議論であるので、ここまでの話はいわゆる「思いつき」の域をでないものである。また、本来、現物の確認や、木簡群全体の評価や類例の増加を待って検討すべきことと思うが、やはり本木簡はいろいろと可能性を検討したくなる、きわめて重要な一次史料である。すでに正報告が刊行され、各種の付帯情報は整理され確定し、公開されている。だれでも発掘調査報告書総覧よりダウンロードできるので、会員のみなさまにおかれましては是非一読し、この木簡について一考してみてください。
◆参考文献
山本崇2024「木簡」(明日香村教育委員会2024『西橘遺跡発掘調査報告書』)
荒井秀規2008「領域区画としての国・評(郡)・里(郷)」『古代地方行政単位の成立と在地社会』奈良文化財研究所
髙橋周2020「近世前期における『出雲国風土記』写本の系譜」『古代文化研究』28
渡辺晃宏2015「都城出土の出雲・伯耆・因幡地域の荷札木簡」『木簡研究』37
※この記事は会員ブログであり、書かれている内容は出雲古代史研究会の見解ではありません。
※木簡写真は明日香村教育委員会の掲載許諾を得ています。不許可転載。
※11月20日に誤字を訂正、また写真を入れ替えました。