【蜈蚣島(むかでじま)】
【2017年 9月28日撮影】
中海に浮かぶ江島は、『出雲国風土記』には291蜈蚣島として登場する。
実は細川家本ほか岸崎時照の『出雲風土記抄』を含め写本ではこの島は「たこ(虫+居、虫+者)島」と記されている。しかし、この島の説明は293で「故、蜈蚣島と云ふ」と閉じられているので、細川家本のテキストをできるだけ生かす山川出版『出雲国風土記』を含め、諸注釈書は291の「たこ島」を「蜈蚣島」に校訂している。なお、誤写されている「たこ島」は江島の南にある大根島のことで、『風土記』ではこの島の前287~に別に記述がある。
今日の本題ではないのだが、蜈蚣島の神社について記しておく。293よれば蜈蚣島には東辺に神社があるとされるが、補訂本系写本は脱落した島根郡神社記載に不在神祇官社「たこ社」を2社復元するものの蜈蚣社は復元しない。なお、現在江島(蜈蚣島)にたこ神社がある。
このような補訂本系写本の神社の復元は、蜈蚣島を「たこ島」と誤った後、たこ島が二つあり、蜈蚣島がない写本に整合するように行われたと見るのが妥当であろう。これはいつのことなのか明らかにしえないが、すでに諸氏によって指摘のあるように古代の補訂とは考えられないだろう。
さて、写真は、現在の江島丘陵を降りた水田部である。といっても水田耕作が放棄されており、残念ながら野生化した稲が生い茂っている。写真に見える森はそこに浮かぶように点在する小山である。かつては水田中にはっきり小山が見えたのだが、その頃の写真(コンパクトデジカメで撮影していた頃)は整理が悪く、発見ができない。
このような状況は、古墳時代の群集墳でよく見られるのだがこれは群集墳ではない。有名な秋田県にかほ市の象潟(きさかた)のような、陸化した小島である。
陸化したのは干拓の結果であるが、小島部分が水田化できなかったのであろう(現在江島の周辺に島として存在しているものは玄武岩質である)。
こちらは、国土地地理院の航空写真閲覧サービスの写真から引用した同じ場所である。水田部に点々と水田化できなかった小島が見えている(現在は消滅したものも多い)。
以下は推定というか想像なのだが、『風土記』では、蜈蚣島の由来は、たこ島の由来に結びつけられており、たこ島の名の元となったタコが食べようとしていたムカデによるとされる。
蜈蚣は説話を無視しても節足動物のムカデと考えてよいのだが、たこ島のたこは、289に「今の人猶誤りて栲(たく)島と号く」と記されており、水生動物のタコではない可能性がある(次回検討)。
そうなると、タコが食べようとしていたムカデというのはあくまで文章化された説話であって、本来の由来は別にあることになる。なぜムカデなのかというと、これはこの島の周辺に小さな島が多数あり、その小島をムカデの足になぞらえたためではないか、というのが今日のお話である。 【平石 充】
※次回は5月28日に更新します。
・写真は加工されており、資料的価値ありません。写真としてお楽しみください。
・本文中のアラビア数字は沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『風土記』山川出版の行数です。 ・解説は撮影者によるもので、出雲古代史研究会の公式見解ではありません。
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