今回は風景写真なしなので番外ということに。
前回、古代出雲国に鯉あるやなしや、について、最古の補訂本系写本『出雲風土記鈔』(以下『鈔』)を著した岸崎時照は、佐草自清の説を引用して自分の採用したテキストを否定する説を記していることを紹介した。
この連載の第7景で、秋鹿郡神名火山でも補訂本独自のテキストをだれが記したかについてもふれており、「(岸崎は)自分の採用した神名火山の高さ230丈は誤りである、と考えていた」と推測した。この点を少し深めてみたい。
下記は古代出雲歴史博物館所蔵の『鈔』(表題は「雲州風土記」、以下歴博本『鈔』)の秋鹿郡の山記載である。これには、岸崎は完成した『出雲風土記鈔』について大社にある正林寺宏雄の添削を頼んだ、それを北島伝之丞が写した、と記されている。ただし、この本には宏雄のものと思われる添削が残されている。また表題「雲州風土記」は宏雄が『出雲国風土記』を呼ぶときに用いる名称なので、歴博本は伝之丞が写した本ではなく、宏雄が添削したそのものとみられる(岡宏三2021)。『鈔』写本では現在最も古いもので、『鈔』写本の多くは、この系統に属している。
ここで注目したいのは、文章の区切りである。『鈔』はまず『風土記』のテキストを挙げたのち、「鈔云…」として解説を付す。秋鹿郡の山は、一山ごとに解説が付されているのであるが、『鈔』では神名火山は足日山と合わせて一山としている。これは、神名火山の最後が「所謂佐太大神社即彼山下之足日山」なっており、佐太神社が神名火山の山下の足日山にあるかのように解釈できるからである。
現在の研究者から見ると、神名火山の最後に「之」が置かれているだけで、この二つは別な山の記載である。このことについては佐草自清が早くに「近日佐太祠官」が述べる「大非」である、と指摘している(藤間氏本『風土記』の書入れ。髙橋2014)。このような言説は、実は当時杵築大社との間で神職の任免をめぐって対立していた佐太神社の認識にみられ(平石2021)、この個所の『鈔』テキストの背景には佐太神社の存在を読み取ることができる。
この認識は誤りなのだが、それに従い二つ合わせて神名火山とその麓の佐太神社のある足日山とすると、神名火山は足日山より高くなければおかしいことになる。『鈔』の採用する本文は、おそらくこのような認識のもとに、神名火山の高さを230丈、周り14里としているとみられる。
この周辺で周辺で一番高い山は朝日山である(これは測量しなくても一目瞭然)。
第7景にも記したとおり、写真の歴博本『鈔』の解説「鈔云」は朝日山=足日山(高さ170丈)だ、としている。採用したテキストでは神名火山230丈が一番高いのから、テキストに反する解説が付されているのである。
しかし、歴博本『鈔』に示された岸崎の見解はのちに撤回される。
髙橋周氏の指摘によれば(髙橋2020)、近世大社領の確定(大社湊原争論。1687年)をめぐり、大社領を抑制する郡奉行の岸崎と佐草自清は対立を深めていく。そして、自清の見解から離れる形で、岸崎は『出雲国風土記俗解鈔』を執筆する。
この俗解鈔では、神名火山と足日山は別な山として扱われているが、朝日山を神名火山としており、朝日山を足日山とする歴博本『鈔』とは異なる比定が行われている。
そうなると、歴博本『鈔』の見解は、岸崎のホンネなのか、この段階では良好な関係にあった佐草自清の説に引っ張られているのか(前回の鯉は最終的に自清の理解によっている)、わからなくなってくる。
結局のところ、だれが脱落本系の神名火山の高さ40丈を230丈、周り4里を14里にしたのかは相変わらず不明なのだが、佐太神社やその主張を受けての岸崎の解釈によるもので、『鈔』を記した段階では佐草自清の影響を受けて、本文と異なる解釈を付している可能性も否定できない、といったところになろうか。
参考文献
岡宏三2021「書誌解題と塗抹等一覧」『島根県立古代出雲歴史博物館所蔵 影印 出雲風土記鈔』島根県古代文化センター
髙橋周2014「出雲国風土記写本二題 郷原家本と「自清本」をめぐって」『古代文化研究』22
平石充2021「古代中世の佐太神社と『出雲国風土記』」『日本書紀と出雲観』ハーベスト出版
髙橋周2020「阿祢神社本『出雲国風土記俗解鈔』の検討」『出雲弥生の森博物館紀要』8
※髙橋の髙はハシゴ髙です。歴博本『鈔』についての評価を訂正しました(7月26日)。
※引用論文の誤りを訂正しました(髙橋周2014)。
(平石 充)
※次回は8月6日に更新します。
・写真は加工されており、資料的価値ありません。写真としてお楽しみください。
・本文中のアラビア数字は沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『風土記』山川出版の行数です。 ・解説は撮影者によるもので、出雲古代史研究会の公式見解ではありません。
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