井上寛司
ところで、私は『古事記』『日本書紀』の研究者として知られる友田吉之助氏の後任として島根大学に採用されたこともあって、大学における私の責任分担は日本中世史のみならず、古代史を含むもので、「日本古代・中世史担当」というのが私の表向きの肩書きであった。そうしたことから、大学教育や学生指導の必要性もあって、日本古代史や古代島根地域史についても、可能な限り学会の動向を注視し、最新の研究成果の吸収にも努めるよう心がけた。
しかし、その重要性は認識しながらも、自ら直接古代史研究に足を踏み入れることには躊躇があり、出雲古代史に対する島根県民あるいは全国の歴史愛好家の皆さまのご期待に添えないことに大きな責任を感じていた。この当時、島根県内で文献古代史を専門的に研究しているのは野々村安浩氏と若槻真治氏の2人のみという状況が続いていて、問題を打開する道を見出すことは極めて困難に思われた。
しかし、1983年12月の岡田山1号墳の太刀銘、翌年7月の荒神谷遺跡での大量の銅剣と銅鐸の発見により、出雲古代史への興味・関心が従来にも増して大きな高まりを見せる中、もはやこれ以上(文献)古代史研究会なしでは済まされないと強く考えるようになった。
こうした状況の中で開催されたのが、ホテル宍道湖を会場とする1987年7月の第15回古代史サマーセミナーであった。このセミナーには、考古学関係者のみならず文献古代史の研究者も全国から多数参加され、大変大きな盛り上がりを見せた。そして、研究会終了後の懇親会の中で、文献による出雲古代史研究の必要性が改めて強調された。
かねてより、島根県古代史研究会の立ち上げを模索してきた私は、出雲古代史研究の持つ独自の特徴にも注目していて、研究会のあり方もそれに相応しいものにする必要があると考えていた。『出雲国風土記』を始め、「出雲国計会帳」「出雲国正税返却帳」「出雲国大税賑給歴名帳」などの諸記録・古文書や、出雲神話・出雲大社・神賀詞・新嘗会・出雲国造など、古代史料の豊かさや、検討を深めるべき問題群の多さという点で、島根地域史研究には収まりきらない、全国的な視野での検討が不可欠で、地域史研究と全国的な研究との両者の性格を併せ持つ、そうした研究会が必要だと考えたからである。
そこで、考古学者でありながら文献にも造詣が深く、東京方面に多くの知り合いを持つ内田律雄氏及び野々村安浩氏と相談の結果、『出雲国風土記』研究で再三出雲に足を運ばれている東京の関和彦氏と協議して「出雲古代史研究会」の発足を検討しようということになった。古代史サマーセミナーが終わった数ヶ月後のことであったと記憶する。
但し、私は関氏とそれほど親しいわけではなかったこともあって、関氏との折衝は専ら内田氏にお願いすることとした。内田氏は自ら東京に出向くなどして、研究会の発足に向けて大いに奮闘していただいた。
その後、思いもかけないことながら、1989年2月から、島根県益田市の県指定文化財三宅御土居跡の保存運動が起こり、私は事務局長としてこの遺跡保存運動に全精力を傾注しなければならないこととなってしまった。こうした事情もあって、出雲古代史研究会の発足に向けた諸準備は、すべてを関・内田・野々村の3氏を初めとする皆さまにお任せすることとなった。発議者であるにも関わらず、十分にその責めを果たすことができなかったことを、まことに申し訳なく思っているところである。
研究会の発足に向けた準備会での検討の結果、
代表委員や運営委員を島根と東京の両者から同数選出し、その協議によって会を運営する
年1回の総会・研究会と会誌の発行を目指す、
事務局を島根大学歴史学教室(日本史研究室)に置く、
などの基本方針が確認され、記念すべき第1回の研究会が1990年7月に島根大学法文学部棟2階会議室で開催された。私も運営委員の1人、事務局担当として選出され、この体制は私が島根大学を退職する1997年3月まで続いた。
私の退職後、その後任として着任された大日方克己氏に事務局を引き継いでいただいたが、文献古代史を中心とする出雲地域史研究会と全国的な研究団体(学会)という2つの性格を合わせ持つ本研究会のあり方は、今日に至るも基本的には変わるところがないといえるであろう。(了)
※今まで井上寛司さんの「出雲古代史研究会の発足について」をご覧くださりありがとうございました。