委員 大日方克己
「光る君へ」で重要な役回りで登場する東三条院藤原詮子。弟道長を内覧にするよう尽力し、伊周の排除に一役買ったりする場面が描かれていました。実際に皇太后(国母)として天皇を後見する政治的影響力の大きさが注目されています。そんな東三条院詮子は出雲国とも関係がありました。
「出雲国正税返却帳」(九条家本延喜式裏文書、東京国立博物館所蔵)と呼ばれている11世紀後半の文書が残っています。この文書は、延久3年(1071)から承保2年(1075)ころまで出雲守だった藤原行房の受領考課(任期中の勤務評定)に必要な税帳勘会(財政監査)の結果として作成されたものです。過去百数十年間の出雲国府の財政支出の一部が断続的に記されています。
そのなかに、出雲国の正税(公的財源)から政府への貢納として、①長保2年(1000)2月7日付の「東三条院御賀料」麻布200段、②長保3年(1001)閏12月29日付の「東三条院法会料」麻布100段が記されています。
①の東三条院御賀とは、詮子の四十賀、つまり四十歳の祝賀行事のこと。長保3年(1001)10月9日に開催されました。準備が前年長保2年の相当早い時期から始まっていたことがわかります。長保2年(1000)12月16日に皇后定子が亡くなったこともあって、翌長保3年(1001)3月10日に開催することになりました。
ところが直前になって、疫病の流行で京中に死者があふれかえる状況になったため延期され、さらに詮子の体調不良が重なって、ようやく10月9日に開催の運びとなったのです。
当日は、藤原道長の土御門邸に一条天皇・中宮彰子が行幸し、多くの公卿も集まって饗宴、歌舞、管弦が繰り広げられました。
そのきらびやかで盛大な様子は、藤原実資の『小右記』や藤原行成の『権記』に記録され、『栄花物語』や『大鏡』にもハイライトシーンの一つとして描かれています。なかでも道長の子田鶴(たづ、後の頼通)と巌君(いわお、後の頼宗)の舞には、天皇をはじめ参列者みな感動したとされています。
この祝賀の費用は出雲国だけが特別に負担したわけではなく、多くの国々に割当てられたものでした。たとえば祝賀品として藤原公任らが和歌を書き連ねた屏風が贈られました。その費用は和泉と尾張が負担します。この時の和泉守は橘道貞、和泉式部の夫です。尾張守は大江匡衡、赤染衛門の夫です。大江匡衡は当時を代表する文人貴族。赤染衛門も和泉式部も代表的な女性歌人、「光る君へ」でもたびたび登場します。このようなつながりも、費用負担割当ての背景にはあったでしょう。
東三条院と出雲国のつながりのカギは出雲守源忠規(光孝源氏)です。東三条院の院司(別当〈管理職〉)の一人でした。別当は何人もおり、そのトップは大納言藤原道綱(詮子・道長の兄)。忠規はこの参賀に先立って東三条院別当を再任され、参賀の翌日にはその功績で位が昇進します。
院司や摂関家などの家司(上級家政職員)が国司(受領)に任じられると、受領として院や摂関家に奉仕することが多く、忠規も出雲国の受領として東三条院への各種奉仕を率先して行っていたと思われます。
「正税返却帳」にみえる支出は、あくまでも帳簿上の表向きであって、実際には出雲国から徴収し、受領自身の収入として蓄財した私富を経済的基盤として、多くの奉仕していたと思われます。ただし、忠規が出雲守に任じられたのは長保3年(1001)のことで、長保2年(1000)に参賀料を負担したのは、前任者のときだった可能性が高そうです。前任者がだれかは不明です。
さて、このように参賀は盛大に行われましたが、東三条院の体調は依然として良くありません。閏12月5日ころから容体が悪化、16日に一条天皇が見舞いに訪れますが、その後出家します。東三条院別当だった藤原行成の邸宅に移りますが、とうとう22日の酉刻(18時ころ)亡くなってしまいます。四十の祝賀を受けてから、わずか3か月余りのことでした。
翌23日には当座の費用として内裏から絹100疋・本絹200疋・布1000端・米300石などが送られ、24日には葬送のために諸事の手配・分担や費用の諸国への割当てが決定されます。そしてその夜、鳥辺野(とりべの)で葬送されました。鳥辺野は京の葬送地の一つで、今の清水寺周辺から大谷墓地のあたりとされています。
28日には初七日の読経が諸寺で行われ、明けて長保4年(1002)正月1日には、法華経供養が行われます。当然、朝廷の正月行事は中止されています。6日に二七日(にしちにち)、13日に三七日(さんしちにち)と七日ごとの読経が諸寺で続き、2月10日に七七日(しちしちにち)、つまり四十九日の法会が行われます。
②の長保3年(1001)閏12月29日付「東三条院法会料」は、この四十九日法会の費用でしょう。法会の当日には、皇太后遵子、中宮彰子をはじめとした后たち、皇太子居貞親王のほか、左大臣道長をはじめとした多数の公卿たちから合計で布3700端もの大量の布施が寄せられました。
こうした布施のほか、法会の場の設営、物品、多数の僧や参列者への応対など莫大な費用と人員が動員されたことは容易に想像できるでしょう。出雲国からはそうした費用の一部を進上するとともに、東三条院別当の出雲守源忠規自身による経済的奉仕も大きかったと推測されます。
忠規のその後は史料が残されていないためわかりません。出雲守・出雲国と東三条院との関わりはこれで終わりですが、その後も、政府からの各種事業の費用負担が割当てられたり、出雲守が受領として蓄積した私財を投じて、政府事業や摂関家、後には白河院など院政を行った院へ奉仕することが続いていきます。
もちろん、もろ手をあげて喜んで奉仕したとは限りません。受領にとっては重い負担になります。ときにはそれを逃れようとあの手この手を繰り出す受領もいました。その悲喜こもごもも、この時代の政治、財政構造をあぶりだす格好の素材になりますが、それはまた別の機会したいと思います。
《参 考》
『松江市史 通史編1自然環境・原始・古代』(松江市史編集委員会、2015年、本体5000円)、pp.744-745、p.789
服藤早苗/高松百香 編『藤原道長を創った女たち』(明石書店、2024年、本体2000円)