会員 早川 万年
昨年(2024)、島根県立古代出雲歴史博物館で「誕生、隠岐国」と題する企画展が開催され、多様な視点から隠岐の古代文化が示された。文字資料としては、平城宮跡等で出土した荷札木簡が、隠岐と都との結びつきを考える上に注目されるが、同様に、やはり隠岐国で作成され、中央政府にもたらされたものとして正税帳がある。奈良東大寺の正倉院には天平年間の正税帳およそ27通が伝存し、そのなかに隠岐国郡稲帳と隠岐国正税帳がある。他の正税帳と同じく完全なものではないけれど、いずれも当時の国衙財政を窺うに足る貴重な史料である。
昨年11月に、鈴木靖民・佐藤長門編『翻刻・影印 天平諸国正税帳』(八木書店、以下、「八木版」)が刊行された。本書は表題にある通り、翻刻編と影印編の二分冊からなっており、両者を照合しつつ翻刻編脚注を参照していけば各正税帳の理解を深めることができる。
正税帳の研究には、およそ次のステップがある。翻刻、断簡接続(復元)、そして記載の検討である。このうち翻刻と断簡接続に関しては、周知の通り『大日本古文書(正倉院編年文書)』を出発点として、林陸朗・鈴木靖民編『復元天平諸国正税帳』(現代思潮社、1985年)において全面的な見直しがなされた。
今般の「八木版」では更なる検証が加えられ、脚注も新たに施された。『大日本古文書』等の翻刻との相違も記され、末尾には正税帳の断簡整理・表裏対照表、および人名・地名・件名等の各種索引が付されており、読者への利便が図られている。
さて『大日本古文書』では、隠岐国の二つの「正税帳」(天平元年と天平五年)とされる文書であるが、現在では天平二年度の郡稲帳(一断簡のみ)と、天平四年度正税帳(「隠伎国正税収納帳」、以下「隠岐帳」)とされる。
天平四年度の「隠岐帳」六断簡の接続順(A~F)は比較的わかりやすい。A断簡は冒頭、B断簡は首部の中間、C断簡は末尾に「智夫郡天平三年正税穀…」とあることからその前行までが首部となる。D断簡は中途から始まり海部郡の途中まで。E断簡は某郡末から周吉郡、そして役道郡の中途に至る。F断簡には正税帳の末尾となる「謹件収納天平四年正税幷雑用之状具注如件…」が記されている。天平年間の隠岐国は四郡と推定されるので、智夫・海部・周吉・役道の四郡が順に配列されていたと考えれば辻褄が合う。
なかでもE断簡は重要で、周吉郡の記載のすべてが見られる。これによって本帳の各郡の記載項目が判明する。首部の四郡分の集計と各郡断簡を照合させていくと、この年度の隠岐国正税帳はほぼ完全に復元できる。かつて澤田吾一氏が和算書の「虫食い算」の応用とされた手法である(『奈良朝時代民政経済の数的研究』柏書房、1972年復刊、342頁)。復元の細部については検討の余地があるが、たしかにこの「隠岐帳」には、正税帳のもっともシンプルな姿が示されている。鈴木靖民氏が「隠岐帳」を、正税帳研究の「原器としての栄誉を担う」と言われた通りである(『復元天平諸国正税帳』423頁)。
これを踏まえて、各記載を見ていくと、当然ながら他国の正税帳の項目と重なるものばかりであって、「八木版」脚注にはその参照先が丹念に示されており、冒頭の用語解説と併用すればとりあえず「隠岐帳」の基礎的な理解は可能である。その上で、隠岐の古代史について考察を深める試みもあるが(例えば『復元天平諸国正税帳』428頁以降)、ここでは「隠岐帳」の記載そのものに目を向けたい。
正税帳に盛り込まれている内容は、国府の収入支出であって、その点からすれば、現存する27の帳簿は、基本的に共通した様式に依拠したはずである。しかしながら実情は、共通する項目がある一方で、帳簿間の差異も大きい。国ごとの作成手法に違いがあったのであろうが、天平年間に作成要項の変更がなされたことも考えられる(榎英一氏の教示による)。それにしても「隠岐帳」はあまりに簡単である。このことをどのように理解すればよいのであろうか。
むろん、書かれていることを率直に受け入れるのが原則である。とはいえ、正税帳は、あくまで中央政府が把握する(べき)「税」の収納支出を記載したものであって、それが現実の国衙支出の全てとは限らない。帳簿と実態にズレがあった可能性もあながち否定できない。国府官人や郡家の吏人たちが、積極的に「作為」(「隠蔽」「工夫」…)していたかどうかはともかく、実務としては帳簿を完結させる作業を優先して不思議はない。そして帳簿の記載さえ整っていれば、中央政府は受理したであろう(ただし国司交替等の際に紛糾が生じるおそれは否定できない)。
隠岐は一国であると同時に離島である。出雲国から海を渡って時に通達はあるものの、他所からしかるべき地位の官人がしばしば往来したわけではないであろう。さしあたり課せられた調庸物等の運送と、諸般の報告が円滑にできていればよい。隠岐の役人たちは、思いのほかしたたかであったかもしれないのである。
『続日本紀』天平2年4月甲子条には「大税収納、軽忽にすること得ざれ」とある。毎年、多くの帳簿が都にもたらされたはずである。その背後には、丹念に(誠実に)記載した吏人、うまく立ち回る官人、なかには不正をはたらく者もいた、ということであろうか。
このたび刊行された正税帳のテキストは、榎英一・荒井秀規両氏による充実した注記が一つの特色である。ただ注記は基本的には語句注であって、帳簿に見当たらないことまで書くわけにはいかない。注記を参考に、読みを深めていくことが読者に求められている。
「隠岐帳」と他の正税帳を比較しつつ、記載の背後にまで目を向けてみるのも史料研究の面白さである。「八木版」が参照されつつ、正税帳はもちろん、古代の隠岐にも考察が深まることを期待したい。
鈴木靖民・佐藤長門 編
八木書店、2024年11月刊、本体15.000円+税
